今日は法話の日です。
高座も準備しました。
どなたでも自由に法話を聞けます。
是非お参り下さい。
「定例法話会」
6月20日(木)午後1時半~
講師 節談説教 葦原理江師(熊本県)
今日は法話の日です。
高座も準備しました。
どなたでも自由に法話を聞けます。
是非お参り下さい。
「定例法話会」
6月20日(木)午後1時半~
講師 節談説教 葦原理江師(熊本県)
「本願を信じ念仏申さば仏になる」
念仏するだけで仏になる!?
お浄土へ行きたいとも思わず
お浄土、さとり の何かも知らず
迷いを迷いとも思わず
ピンピンコロを願いつつ生きている私
仏は救おうとすれど
あれも出来ない、これも出来ない
口では何とでも言うが何一つ出来ない私
この者を救うには念仏一つで救うしかないと、私の姿見抜かれた
それも、信じる心も、念仏申すも
如来さまの側で仕上げての念仏一行。
我が子(私)を見捨てることが出来なかった仏さまの親心ですかね。
あさまし 恥ずかしい 南無阿彌陀仏
勿体なや 南無阿彌陀仏
「定例法話会」
6月20日(木)午後1時半~
講師 節談説教 葦原理江師(熊本県)
節談説教(ふしだんせっきょう)とは、日本の仏教布教手段を指す「説教」のうち、浄土真宗に固有の言葉である。
仏教に馴染みのない聴衆に伝わりやすくするために、話す文句(説教)に抑揚(フシ)が付き(多くは七五調である)、人びとの情念に訴えかけるように工夫されたものである。
現代の法話とは異なる。説経節のように歌って踊るパフォーマンスはなく、楽器なしの素語りである。
その芸能性により、浪曲、講談、落語などそれぞれの話芸の母体となった。
これを行う説教師は、昭和期においてなお、寺をめぐり旅をしながら浄土真宗の教えを説いて回った[
日曜礼拝後の茶話会で
女の人が長生きするのは、よく喋るからか…という話になった。
どこでもかしこでも長時間よく喋っているもんね。
男「よく話す話題がありますね」
女「話を膨らませるんですよ」
耳を澄ましてみましょう
………
たくさんおしゃべりするのも
素敵だけど
澄ました耳に聞こえてくるものは
「いのち」 の声かもしれません
分度器の角度で毎日0.5度でも1度でもいいから積み重ねていくと1年後にはすごい角度になるんだよね。
日々の積み重ねは大切だね
でも、分かっちゃいるけど…
「一日の空過は やがて 一生の空過となる」
歎異抄に
「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。」
「弥陀の誓願不思議」とある不思議とは人間の思慮分別を以ては思いはなることの出来ない事。
その思いはかることの出来ない仏の智慧をつかまえようとする自力心。
唯信鈔文意に
「法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり」
とあるのに仏さまのおさとりの世界に色を付け形にしようとする自力心。
浅まし、浅まし…思議出来ないことは思議出来ないまま領解するのみです。
「一生終えてのちい残るものは、われわれが集めたものではなく、われわれが与えたものである」
(続氷点 三浦綾子)
色々な収集品、地位、名誉も自らのいのちと共に消え去っていく、
父母をはじめとして有形無形に与えられてものは
自らの肥やしになるだけではなく子や孫へと受け継がれる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E6%96%BD