
ホセ・クーラは、南米アルゼンチンの出身です。軍事政権とその崩壊直後の時代に青年期を過ごしたクーラは、作曲家、指揮者になる夢をもちつつ、テアトロ・コロンの合唱団で歌うなど、なかなかその才能が認められずに、苦闘の日々を送っていました。
91年にイタリアに渡り、その後、テノールとしての国際的なキャリアが拓けていったことは、これまでの投稿でも紹介してきました。
2015年7月、クーラは、母国のテアトロコロンでオペラ、カヴァレリア・ルスティカーナと道化師の演出、主演(道化師のみ)をした際に、長年の芸術活動の功績が認められ、アルゼンチンの上院で名誉表彰を受けました。
その際に、クーラがお礼の言葉としてスピーチした全文が、彼のフェイスブックにアップされました。
その内容は、彼らしく、非常に率直で、感謝の思いとともに、母国へのこれまでの複雑な感情と自省が込められていました。
いくつかの画像、動画、そしてクーラの言葉を紹介します。誤訳、直訳、ご容赦ください。
アルゼンチン文化大臣と

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〈アルゼンチン上院でのスピーチ 2015年7月〉
●私は反逆者ではない
誰もが、私について、反逆者である、と言う。
私は反逆者ではない。しかし、そう、私は、物事を深く探る前に「それはこのようにする必要がある」と答えることをしない、理屈っぽい人間である。
そう、私は、議論する。しかし忠実である。これは大切なことだ。
●好きな聖書の言葉
" 予言者郷里に容れられず"――誰もが自分の土地で預言者ではない(聖書からの句を引いて)
私はこのことわざが好きだ。それはなぜか。両面的な意味をもつ言葉だからだ。それは、失敗を正当化しようとして拒否された者についての言葉であり、また、軽蔑を正当化するために彼を拒否した人々への言葉でもあり・・。
それは見事な言葉だ。イエスは私たちにその言葉を与え、それはすべてのことに有用だ。
●私は「預言者」ではなかった
1991年に私が故郷を離れることになった時、国を離れることを余儀なくされた全ての人々と同じように、私は非常に怒っていた。
「預言者(つまり才能ある者)は自分の故郷では歓迎されないのだ」
私は繰り返し、自分自身に言い聞かせた。私の脱出を自ら動機づけるために。
しかし真実は違った。1991年に母国を離れた時、私は、母国においても、世界のどこにおいても、預言者などではなかったのだ。私が必要としたモチベーションに、人々は責任はなかった。
私はかなり後になるまで、このことを理解していなかった。

●復讐は人生最大の誤り
1999年に、アルゼンチンに公演で初めて戻った時に、私は復讐を渇望していた。私は、母国以外での全世界における預言者として戻って来た、いまや彼らもそれを認めるだろうと。
この復讐の思いは、私が犯した、人生で最大の誤りだった。私が間違っていた。私は謝罪したい。
私は、郷里で認められない預言者だったのでなく、預言者ではなかったのだ。
今日受け取ったこの栄誉は、私の過ちの証拠だ。なぜなら、経験と成熟をへて私が今あるのは、人々がそれを公然と、誇りを持って気づかせてくれたからだ。
どうもありがとう
ホセ
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こちらがクーラのFBに掲載された原文です。画像のクリックでFBの当該ページにとびます。

クーラの故郷、アルゼンチンのロサリオ選出でクーラの表彰を提案した国会議員とともに。

アルゼンチン国会の上院TVがインタビュー動画を掲載してます。スペイン語のために、私には残念ながら理解できません。
MENCIÓN DE HONOR PGM.07 | JOSE CURA 1º BLOQUE
MENCIÓN DE HONOR PGM.07 | JOSE CURA 2º BLOQUE
なかなか故郷で認められず、苦い思いを抱えてヨーロッパに渡り、苦しみつつ、自らの道を切り開いてききたクーラ。
それだけに、強い自負とともに、長年、故郷への複雑な思いを抱えてきたのだろうと思います。
今回の顕彰は、それゆえ、格別な喜びだったことでしょう。その名誉な時に、感謝の思いとともに、反省の思いを率直に述べたのも、いかにも彼らしいと感じます。





