ホセ・クーラはこの6月、ドイツ・ハンブルク歌劇場で、プッチーニの西部の娘に出演しています。6月24日に最終日を迎えます。ミニーは、アマリッリ・ニッツァ。
このプロダクションは、演出がヴァンサン・ブサール、衣装はクリスチャン・ラクロワで、今年のザルツブルク復活祭音楽祭2016のオテロと同じメンバーでした。
現地在住の方の情報によれば、ハンブルクの古参オペラファンたちも大いに満足の、良い公演だったようです。
まずは、Youtubeにアップされたホセ・クーラのディック・ジョンソンのアリア「やがて来る自由の日」を。
なかなかのびやかな高音、迫力ある歌唱です。残念ながら、公開されている動画は今のところ、これだけです。
*2008年のロンドンでの舞台の録音やインタビューを紹介した以前の投稿はこちらです。 → ホセ・クーラ プッチーニの西部の娘
José Cura - La Fanciulla del West - Ch'ella mi creda libero
by dolchev YouTube
Staatsoper Hamburg June 4, 9, 12, 15, & 24 ,2016
Fanciulla del west/ Puccini
Director: Vincent Boussard , Set Designer: Vincent Lemaire , Costume Designer: Christian Lacroix Lighting Designer: Guido Levi
Musikalische Leitung:Josep Caballé-Domenech
Minnie: Amarilli Nizza, Jack Rance: Claudio Sgura, Dick Johnson: José Cura
Nick:Jürgen Sacher,Ashby:Tigran Martirossian,Sonora:Kartal Karagedik,Trin:Joshua Stewart...
Chor der Hamburgischen Staatsoper
劇場のパンフレット「ハンブルク・ジャーナル」に、クーラのインタビューが掲載されました。プッチーニ論、西部の娘の作品論を語ったもので、とても面白い内容でしたので、ざっと訳してみました。原文がドイツ語で、語学力がない私のこと、誤訳ばかりかもしれない無謀な試みです。とりあえず大意が伝わればということで、どうかご容赦ください。
********************************************************************************************************************************
●過小評価されているプッチーニ
ジャコモ・プッチーニは、複雑な性格であり、今日においても、残念ながら、しばしば非常に過小評価されている。
プッチーニに対するには、明らかに、無限に変移する官能性についての能力を必要としている。官能は、性的なニュアンスの観点からだけでなく、一般的に感覚の目覚めとして広く理解される。
考えてみよう。例えば、デ・グリューのマノンとの苦しみの関係を、例えば15歳の蝶々夫人に対するピンカートンの病的な執着を、トゥーランドットにおける男女の対立を、そして現代の精神医学の理論を背景として、これらすべてを。
プッチーニのとらえどころのない官能的な性格の実例として、彼が、パフォーマーの演奏に望んだことを、どんなふうに熱狂的に説明しようとしているか、みてほしい。
それらは、時に、同時に行うことができるのか疑問に思うような、非常に異なった指示だ。
「素早く、しかし少し遅く」、「勢いよく、しかしコントロールして」、「インテンポで(一定の速度で正確に)、しかしソステネンドに(音符の長さを十分に保ってやや遅く)」。
●愛撫のような音楽の流れ、もっともエロティックな作曲家
プッチーニの音楽の流れは、裸体に対する愛撫に等しくなければならない。
――時にはゆっくりと、時には速く、今は時間をかけて、その後、急いで、時間を割いて、激しく求め、逃れ、そして最終的には、ほとんど何も触れずに。
ノスタルジックで、粗暴、ロマンチックで、積極的で、情愛に満ち、メランコリックで陽気で、残忍でうんざりするほどシニカル。プッチーニは、最もエロティックな作曲家の1人だ。
●西部の娘と「ブロードウェイ」音楽
我々が西部の娘の中で、プッチーニの素晴らしいパッセージを聞くとき、ある種の偏見を呼び起こすかもしれない。まるで「ブロードウェイ」のような怪しい光景を。
ミュージカル・コメディや映画の中で聞いたことがあるような曲を認識した時、我々はそれを見下し、笑う。プッチーニが、ブロードウェイの作曲家や映画産業よりもはるか前に、彼の音楽を書いたこと、それが彼の後の世代の作曲家に明らかに影響を与えたことを忘れて。
●ノスタルジアの表現
西部の娘は、プッチーニの複雑さとともに、彼の音楽的洗練を示している。彼は、女性の心理に敏感な理解者であると考えられているのと同じように、男性心理もまた認識していることを、オペラのなかで証明している。
プッチーニが創りだした西部の娘の魔法の一部は、望郷の念の本格的な描写だ。彼の故郷イタリアのルッカから、イギリスやアメリカ合衆国へ、南米やオーストラリアへ、多くの人々が移住したことが知られている。
ジャコモの弟ミケーレは、不運な星の下、移民先のアルゼンチンで早すぎる死に終った。結果として、プッチーニは、自分たちのルーツと家族の絆のために、郷愁を感動的に表現することができた。
喉をしめつけるような孤独、多くの場合、酒や女性、カード賭博に慰めを見つけている、それらが西部の娘で見事に描かれている。
プッチーニの「西部の荒野」は、ハリウッドの方式とは異なって、英雄的ではなく、アメリカの辺境の住民の現実の世界に近い。男たちは夢におされ、何とか生き続けるために、血の汗を流す。
クーラのフェイスブックのカバー写真
●母国を離れた1人として、痛切な望郷の感覚
この意味で、このオペラへの私のレスペクトは深く、非常に個人的だ。
私自身、「約束の地」を見つけるために25年前に母国アルゼンチンを離れた1人として、西部の娘で見事に描かれている故郷を失った感覚を100%理解する。私は今も、記憶のなかにこの痛烈な無力感を呼びだすことができる。それは、ヨーロッパで私たちの新しい家を認識するまで、長年にわたって私と私の家族を苦しめた。
●ジョンソンの複雑な性格
私はいつもジョンソンに非常に複雑なキャラクターを見ている。
彼は人生を知っている。必要であるならば嘘をつき、泥棒で、ニーナ・ミケルトレーナのような狡猾な女性を扱うことができる。
そして、自分に何が起こったのか、驚く彼の純真さ。この、予想していなかった真の愛の発見、それは明らかに、彼の人生を、心の中で尊敬されるよう導く。
粗暴さ、力によるルールの無視、しかし悔い改め、よりよい未来への希望が、ジョンソンの性格のニュアンスであり、彼のアリアの間だけでなく、リアルな会話のなかでも表示され、これらがオペラの骨格を形成する。
実際に彼の心理のキーフレーズは、このような文章に見つけることができる。
“Non so ben neppure io quel che sono”… 「私だってまだ、自分が何なのかよくわかっていない」
この問いは、ジャコモ・プッチーニ自身に適用することはできるだろうか?
我々は結論づけることができるだろうか?彼が、自分自身の不安定なタッチを男性のそれぞれのキャラクターにふきこみ、はるかに強い女性の腕の中にそれらを投げだすことで、自分の弱さを克服しようとしていると?
フロイトは微笑む。
Jose Cura 11 03 2016
******************************************************************************************************************************
作品とキャラクターの解釈を、どの作品、どの役柄でも徹底して掘り下げ、研究する、そういうクーラの姿勢の一端がわかる一文ではないでしょうか。
このようなクーラの解釈にもとづく、西部の娘の演出、主演のプロダクションをぜひ、みてみたいものです。近いうちに、どこかの劇場で実現することを願っています。
今回、クーラも、また共演者、コーラスとのアンサンブルも良好で、キャスト同士の連帯感も伝わる舞台だったようです。
キャストが公開しているリハーサルや舞台裏の写真からもうかがえます。
アマリッリ・ニッツァがFBに掲載した、指揮者、ホセ・クーラ、クラウディオ・スグーラと一緒のリハーサルの写真。
*写真は、劇場やミニー役アマリッリ・ニッツァ、Kartal Karagedikら、共演者のFBなどからお借りしました。
→ Amarilli Nizza