2019年12月5日は、ホセ・クーラの57歳の誕生日です。今回は、誕生日に関連した話題ということで、クーラの生い立ち、ミュージシャンとしての半生を語ったインタビューにもとづいて構成された記事から、抜粋して紹介したいと思います。
少年時代から作曲家、指揮者を志望し、大学でも作曲と指揮を専攻して、音楽家としてのキャリアをめざしていたクーラですが、その前には多くの困難があり、夢の実現への道は、かなりの遠回りをしなければなりませんでした。
その思いとたどった道のり、苦闘ぶりが描かれています。この記事は少し前の2013年のものですが、とても詳細で読み応えのある内容でした。興味のある方は、ぜひ、原文(スペイン語)のページをご覧ください。
この記事は、クーラが母国アルゼンチンの歌劇場テアトロコロンで、ヴェルディのオテロを演出・舞台デザイン・主演した際のものです。この時の舞台は、クーラ自身が編集作業も行ったということですが、残念ながら未だに正規の録画・DVDとしてリリースされていません。遅くない時期にリリースされることを願っています。
≪クーラ VS クーラ≫
彼は歌手であり指揮者、クラシックでかつ反抗的、 アーティスト、そしてビジネスマン。 世界を魅了するアルゼンチンのテノールの親密な肖像画
●名声の前の物語
ホセが高校を卒業した時は、80年代の始まりだった。そして彼は、自分はどこへ行くべきか、考えていた。音楽の才能があり、近所の先生との最初のレッスン、そしてビートルズの曲の演奏から始めたギターがあった。しかしまた、スポーツもあった。ラグビー、ボディービル、そしてカンフーの黒帯も。さらに機械工学といくつかの建設設計まで。どこへ行くか、それが彼にとって、その時点の重大な問題だった。
「(クーラ) 私の世代はマルビナス戦争(フォークランド戦争とも呼ばれるアルゼンチンとイギリスとの戦争。1982年4月~6月)を経験した。私は幸いにして出兵の抽選に当たらず、直接の影響を受けることはなかった。しかし私は、「093」の番号を決して忘れない。
運命が突然、私たちの生活を変える可能性があるということに気づかされた。兵舎に召喚された同級生の顔に、自分たち自身が映っているように感じたのを覚えている。私たち全員が戦闘に行く可能性があった。戦争が(短期間で)終わったために、私たちは救われた。」
* * *
1983年、民主主義が戻る。音楽の道への決断。故郷の街で音楽を勉強(ロサリオ国立大学で指揮と作曲を専攻)した後、彼はテアトロコロン付属高等芸術学院(ISA)に入るため、最初のオーディションを受けた。ロサリオ音楽院の所長であるカルロス・ガントゥス教授は、彼にその声でオペラの歌唱法を勉強するように勧めた。教授の助けも受け、1984年に奨学金を得てISAに入った。それと並行してテアトロコロンの合唱団で歌い、生計を立てた。
困難が始まった。彼は回想する。
「インフレが非常に深刻で、人々は職を失ったまま取り残され、オーストラやコーラスは閉鎖された。キャリアを発展させる可能性はますます少なくなった。」
合唱団は組織を維持することができず、彼は主要な収入を失った。実りのないオーディションと就職活動は、彼の不安と将来への見通しのなさを増大させた。音楽でのポジション、芸術的なキャリアを拓くことは、その時点では、ますます遠のいたように思われた。その時すでに、現在まで彼の妻であるシルヴィアと結婚していた。
「ボディビルダーだったこと、スポーツをしてきたことで、私はその絶望的な状況を生きのびることができた。私はジムのインストラクターになった。何かが私をその場所に連れて行った。それが人生。」
そこでの彼の仲間の1人は、テアトロコロンのテノール歌手の息子だった。
* * *
時が過ぎた。 その間、彼の3人の子どものうちの最初の子どもであるホセ・ベンが生まれ、差し迫った状況は日々、悪化していた。また、音楽の才能を実り多いものにするという幻想もまだあった。彼はジムを去った。まだ歌唱のテクニックとレパートリーをホラシオ・アマウリとともに学んでいた。しかし28歳、彼はまだ、その国を生きていく道を見つけることができずにいた。
彼が思い切った旅立ちを考えたのは、その時だった ーー ヨーロッパへ。スカラ座やヴェローナ・アレーナなどのプロの合唱団に入れば、給料を稼げて、音楽の業界に身をおくことができる。勇気だけあれば、お金はなくても旧大陸に出発できる。
チケット購入代といくらかのお金をつくるために、彼は自分の家を売りに出した。そのアパートの売却価格は、現在、彼が一晩のショーで得る出演料よりも少なかった。決断は突然だった。働いていたジムで友人に別れを告げた時、テノール歌手の息子である同僚は父親に電話をかけ、イタリアの先生の電話番号を渡してくれた。彼が友人との連絡が必要になった場合に備えて、一枚の紙に書き留めた番号。
・生まれたばかりの長男ベンをあやしながら作曲中のクーラ
●祖父の奇跡
「アルゼンチンのパスポートを持ち、イタリア国民になる可能性がないまま、シルヴィアと2歳の息子とともに、私たちは、私の先祖の故郷であるサント・ステファノ・ベルボ、ピエモンテの山の中の町に到着した。1991年だった。私たちは修道院で、45日間、住まわせてもらった。修道女たちは、無償でロサリオの会衆の経理を続けていた私の父への見返りとして、私たちをもてなしてくれた。」
彼は語る。彼の妻は家事に協力し、修道院で生産しているモスカートワインの瓶詰めやラベル付けをした。半年以上の間、彼は仕事を得ることができないまま、ヨーロッパに住んでいた。アパートの代金でつくった貯金を消費しながら、精力的に声を聴いてもらう機会を求め、オーディションに申し込み、電話をかけ、手紙を書き、経歴を提示し、演奏し、成功につながる可能性がある気まぐれなドアをノックし続けた。しかしチャンスはなかった。
「それから私たちは、イタリアを旅行するために買ったフィアット600スタイルの中古ビアンキを運転して、ひどい大洪水の真っ只中にヴェローナに到着した。これ以上、悪くなりようがない。合唱団の秘書は私に、イタリアの労働許可証がなければオーディションを受けることは不可能であり、私がソリストとして雇われた場合にのみ、アレーナで歌うことができると説明した。私は尻尾を巻いて降参した。しかし子どもを養う責任を考えると、感じるのは絶望しかなかった。お金はもうなかった。貯蓄を食べつくし、私はポケットに200ユーロだけ持っていた。半年間を費やし、何も手に入れることができなかった。私はシルビアに言った。”あと数日で帰りのチケットが期限切れになる。奇跡が起こらないなら、私はすべてを忘れなければならない”。」
テアトロコロンのテノール歌手(友人の父)に教えられた電話番号を書いたメモは、絶望の底にいて、まだ使われていなかった。彼がたたいたドアのうち、少なくとも1つから、誰かが顔を出してくれた。マエストロ・バンデラは、彼をミラノに来るように言った。そしてホセは、小さいビアンキで高速道路上のトラックの間にはさまれながら、再び大洪水のなか、風の中の葉っぱのようにミラノに向かった。
「私はミラノに初めて行ったので道に迷い、30分遅れて到着した。」
彼がバンデラの前に姿をあらわした時、先生は遅れのためにほとんど時間がなくなっていたが、ホセは3分間のチャンスを懇願した。
「認めよう」と彼がついに言った、「君は何を歌いたい?」
「アンドレア・シェニエの『ある日、青空を眺めて』を」とホセ
「それは偉大なテノールのためのものだ。難しすぎる」
「見てほしい。私に何らかの才能があるかどうか、あなたに示すのにはたった2分しかかからない。それは完璧ではないだろうが、あなたが判断するのに役立つはずだ」
生き残った。ピアノで伴奏していたバンデラ氏は、手を止め、そのような声がどこから来たのかと尋ねた。彼は自分の話と、帰国のチケットがあと数日で期限切れになるという事実を語った。
「どこにも行ってはならない!」、バンデラ氏は急いで、エージェントに電話した。遅かれ早かれ何かがクーラに起こるだろうと確信し、イタリアで1か月暮らすための資金を提供しながら、ホセに忍耐するよう求めた。
* * *
1991年6月、いくつかのオーディションの後、彼はジェノヴァで呼び出された。
「イタリアのすべてのテノールがその同じ順番を際限なく待っていると感じた。みんな良い声だった。私には才能と声があったが、歌うことに関して仕事の蓄積は多くなかった。」
彼はそれらの困難な時代を思い出す、と告白した。呼ばれて歌い始めると、最初の音を歌ったところで、誰かが彼を遮るのを聞いた。
「失礼だが、プレートであなたの名前を読んだが、アルゼンチンから?姓はクーラ・・ロサリオから来たのではないだろうね?」
「はい、クーラです、先生。ロサリオ出身で、祖父はイタリア人でした」とホセ。
「私はロサリオをよく知っている。そしてあなたの祖父をとてもよく知っている。ロサリオは私が子どもの頃に住んでいたところだ。当時、イタリアでは大きな危機があった。私の父は、家族と一緒にアルゼンチンに行かなければならなかった。父は貧しく、ロサリオに着いて、父に最初に仕事を与えて、惨めさから抜け出させてくれたアルゼンチン人、それがあなたの祖父だった。私は決して彼のことを忘れない。すでに契約を結んでいる舞台を降りてほしい」
「これらは奇跡的な出来事の1つ・・人が何か良いことをする時、人生が自分自身に、または息子や孫に見返りを与えてくれるとは決してわからない。それが私のヨーロッパでの最初の契約だった。それが私のスタートだった。新しくオープンしたジェノバ劇場での野外コンサート。1991年7月25日、祖父のおかげで、私はオペラ歌手としてのキャリアを始めた。」
* * *
それはほんの始まりにすぎなかった。それから大爆発が来た。彼のキャリアが爆発する前の3年間、オーディション、小さな役、ボーカルテクニック向上のクラス、そして毎日の生計維持のための闘争があった。
決して屈することのない彼の性格に火をつけたステップ。そして、反乱はどこにあったのだろうか?
彼の歌の独創性、流れに逆らう外向的な意志、ある種の不服従、そして論争の的になる作品の解釈方法、それらによって、現代のオペラのための斬新な強度で音楽とパフォーマンスを溶解するメッセージを観客に届ける。
「私は無意識の革命を起こしたが、世界とたたかうことを求めたのではなく、音楽の道に自分自身を見つけるためだった。当時のその反乱は、現在の私の芸術的信条だ。」
●人生を自分自身で管理したい
1993年に最初の主役を得て、そしてその翌年、彼はドミンゴのオペラリアのコンテストにおけるトロフィーによって、彼はメディアの表紙に躍り出た。
すべてが加速した。1995年、ロンドン(コベントガーデン)とパリ(バスティーユ)でデビュー。それに続く、ロンドンのサムソンと、トリノでのクラウディオ・アバドとの大成功のオテロ、これらは彼を世界最高の地位に押しあげた2つの象徴的な役柄だ。その後、ヴェローナのアリーナは、カルメンでホセ・カレーラスに代えて彼を招聘、イタリアの円形劇場で栄光のデビューを果たした。
「1991年に、私に、ソリストとして雇われた場合にのみ歌えると言った方に挨拶したかったが、もはや彼は...」
彼は皮肉っぽく語る。
1999年、MET(ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場)のシーズンオープニング公演での劇場デビューを果たし、METの歴史の中で2人目のテノール(1902年にエンリコ・カルーソー以来)となった。そして2000年には、世界中で放送されたパリの椿姫に出演した。
その同じ年、ピークに達しようというその時に、マネージメントやレコードレーベルのシステムに挑戦し、古典的なビジネスのルールを破ることを決意した。彼は自分の人生を自分で管理したかったが、それがほとんど許されなかったからだ。
「その当時、私は、自分のイメージと立場を使って新しい方法を試すことを考えていた。自分自身の会社を設立し、自分のキャリアを管理したい。私は、人目を惹く写真を撮るために何年もかけて勉強してきたのではない。私は挑戦を必要としていた。そしてそれは間違っていなかった。今日、私は自分自身を成熟したアーティストだと考えている。しかしそのことで、私には何年間も、誤った宣伝や攻撃がもたらされた。」
(動画)1994年オペラリアの決勝で、プッチーニの「西部の娘」の「やがて来る自由の日」を歌うクーラ
●イメージの価値
90年代半ば、彼のレーベルは、彼を「ラテン・ラバー」="ラテン系の色男"に変えた。レコードやコンサートのセールスを爆発させるオペラ界の一種のアイドル、ロックスターのように彼を崇拝する女性客のためにサインをする。
「彼らは私をセックス・シンボルとして売った。それはゲームの一部だったが、私は疲れた。”クーラはいい男だ…、だが数年後に彼は落ちる” と彼らは言った。それは ”15分間の名声”。束の間の些細な章に過ぎないその1頭の馬に、すべてを賭けることはできない。私は、自分の道を行くために、イメージを犠牲にする代償を払ったが、私は時間のフィルターを通過し、ここにいる。この25年のキャリアは、表に見えたものの背後に何か他のものがあったことを示している。」
なぜ彼は、誰もが夢見ていることを否定する贅沢を自分に許したのだろうか。それは瞬間的なディーヴォの気まぐれに従ったからか?
いや、一言で言って、それは正反対だった。彼は独立のために、解放のために、そしてアーティストとして成長し、外見を超えた価値を見つけるためにそれをした。さらに対照的に、彼は断言する。オペラ・ディーヴォはもはや存在しないこと、個性とカリスマ性を持つ歌手だけがいることを。そして過去の時代の記憶を待ち望んでいるアマチュアの聴衆は、おそらく誰かが現れて、別の人生への憧れを表す物語の魅力を蘇らせてくれると想像しているのだ。
「それがこのジャンルの民間伝承なのだろうか。あらゆる芸術的な才能を備えたマリア・カラスは、大きな悲劇で人生を終えた。人々はそれを純粋な魅力だと思っている... 。そういうイメージに対して、しかしほとんどの場合、私たちはホテルの部屋に1人で行き、ルームサービスで何かを食べる。孤独は克服されない…」
しかし、熱心に、そして情熱的に仕事をする彼の能力によって、それらの職業的部分を、時間を活用する能力に変えることを可能にした。その一方で、避けているのは、陥りかねないルーティンであり、同じ場所で同じ仕事で歌う安定した仕事による退屈と繰り返し。
「私が持っている強さ、信念、落ち着きのなさ、研究と経験に加えて、多くの人々は私の態度が彼らの小さな牧場を揺さぶると感じるので、彼らは怖がる。一部の人にとっては、ルーティンはセキュリティを意味する。私にとってそれは死の始まりだ。」
彼は、自分が到着した場所にたどり着くとは想像もしなかったことを認めているが、彼は音楽を信じ、そして信念として自身の反抗を信じていた。
「時には、振り返って思い出を呼び起こす。25年前の自分自身を思うと、誇りと郷愁が混ざり合って、いつここに来たのかと、不思議になることがある。それ以来、私は大きく変わった。人生はもはや誰かが私に教えるものではなく、私自身が語り始めることができるものだ。」
しかし彼の存在の最も深い部分で、彼は、確かに、今日まで彼を活気づけてきた不屈の精神が、あらゆる困難に抗して、彼が望んだどんな頂点にも彼を導こうとしていることを知っていた。そして彼は、オペラの世界で、無謀にも、サムソンのように盲目で誰にも止められない力で、習慣と無関心のひびの入った壁を打ち倒した。
・・・・
(「LA NACION」)
長い記事でしたが、ここまで詳細に、クーラの渡欧前後のことを書いた記事はあまりなかったと思います。
音楽やスポーツなどの才能に恵まれ、頑強な身体と精神、美しい容姿まで備えたクーラですが、決して苦労なく脚光を浴びたスターではありませんでした。母国の政治的経済的混乱の中での苦難、渡欧後も、移民として排斥されることも経験しています。この記事にあるように、チャンスをつかむのは、クーラにとっても決して簡単なことではありませんでした。
この記事で印象に残ったのは、困難を乗り越えるクーラ自身の不屈さ、反骨心とチャレンジ精神に満ちた強さとともに、人生の局面で、彼を助け、導いてくれた人々がいたことです。それはある時は、友人であり、父や祖父の縁につらなる人々であり、またある時は、彼の才能を見抜いた教師たちでした。ここでは、大学の教授やミラノのバンデラ氏の名前が出ていますが、さらに重要な役割を果たしたのが、アルゼンチン時代のアマウリ先生、イタリアのテッラノーヴァ先生であり、お金のないクーラに無償でレッスンをしてくれたとクーラも繰り返し語っている恩師たちです。
さまざまな人たちの温かい支えを力に、才能を多面的に開花させ、同時に、商業主義に屈することなく、自ら信じる芸術の道を、自分らしく歩み続けてきました。今年57歳になったクーラ。この数年来、本来の志望であった指揮や作曲の仕事が本格的に動き出しています。とにかくハードワーカーのクーラ。頑強な体と不屈の精神を持つとはいえ、体に負担をかけすぎることなく、健康を保って、さらなる高みを目指してほしい、そして可能な限り、それを見届けたいと願っています。
不十分な翻訳で長文、たいへん失礼いたしました。原文もご参照ください。