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山形と最上義光の歴史2(1583~1631年)

2024年01月14日 15時02分43秒 | 日本史みたいな
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『最上義光』                       2016年3月   伊藤 清郎   吉川弘文館人物叢書
『図説 日本の城郭シリーズ 第14巻 最上義光の城郭と合戦』2019年8月   保角 里志   戎光祥出版
『山形の城を歩く』                    2020年7月   保角 里志   書肆犀


天正十一(1583)年
三月
 大浦城主・大宝寺義氏、家老・前森蔵人(40歳 のちの東禅寺筑前守義長)の謀反により自害する(33歳)。
 大宝寺義氏の弟・義興(30歳)、大宝寺家第十八代当主となる。
八月
 東海大名・徳川家康(41歳)、次女・督姫(19歳)を関東大名・北条氏直(22歳)に嫁がせ同盟関係を結ぶ。
十一月
 羽柴秀吉(47歳)、徳川家康を通じて北条氏直に惣無事令を通告する。

天正十二(1584)年
四月
 山形出羽守義光(39歳)、「最上下郷八楯」の鮭延典膳秀綱(22歳)の居城・鮭延城(現・真室川町)を包囲するが攻め落とせず。
五月
 山形義光、伊達家との同盟関係を深め天童家の孤立化に成功する。
六月
 山形義光、谷地城主・白鳥十郎長久(?歳 義光の義兄にあたる)を山形城に招き暗殺する。
 山形義光、白鳥家の谷地城(現・河北町)を落城させる。
 山形義光、寒河江城主・寒河江高基(?歳)を自刃させ寒河江地方を制圧する。
 山形義光、弟・長瀞義保(?歳)を寒河江城主におき大宝寺家との国境の白岩城(現・寒河江市)を改修させる。
十月
 山形義光、天童城を攻略し天童頼澄(別名・頼久 17歳)を陸奥国に追放する。
 山形義光、天童城を破却し跡地に山形宝幢寺別当・愛宕神社を勧請する。天童城近隣の山に貫津新城を建造する。
 「最上下郷八楯」の長瀞家と尾花沢家、天童城の落城を受け自落する(最上下郷八楯の実質的崩壊)。
 山形義光、嫡男・小僧丸(12歳 のちの最上義康)を高擶城主におく。
 山形義光、天童頼澄の義父にあたる小国城主・細川直元(?歳)を攻めて陸奥国に追放する。
 山形義光の家臣・蔵増日向守(?歳)、小国城番となる。
 山形義光、新庄城主・日野左京亮を服属させる。
 山形義光、左沢地方の楯山城(現・大江町)を領有し家臣・長尾右衛門(?歳)を城番とする。
 山形義光、最上地方統一を機にこの頃から姓名を「最上」と改める。
 陸奥国大名・伊達輝宗(41歳)、家督を嫡男・伊達政宗(18歳)に譲り隠居する。
十一月
 最上地方の鮭延城主・鮭延典膳秀綱(22歳)、最上義光の侵攻を撃退する。
 羽柴秀吉(48歳)、小牧長久手合戦を経て徳川家康(42歳)と講和する。
十二月
 庄内地方の大名・大宝寺家の家老・東禅寺筑前守義長(41歳)、山形義光に秘密裏に接近する。

天正十三(1585)年
二月
 天童家遺臣の瀧口某・浅岡某が川原子(現・天童市)で蜂起するが鎮圧される。
四月
 庄内地方の大名・大宝寺家の家老・東禅寺筑前守義長(42歳)、鮭延城包囲のために築いた内町陣城に在陣する山形義光(40歳)に大宝寺義氏の遺刀を贈り同盟関係を結ぶ。
五月
 鮭延典膳秀綱(23歳)、山形義光に降伏する。
六月
 大浦城主・大宝寺義興(32歳)、最上方の清水城を攻撃するが撃退される。
 芦名・最上・相馬・二階堂・佐竹・大崎家ら東北地方の諸大名、連合して伊達家に対抗する伊達家包囲網を展開する。
七月
 東禅寺義長、大宝寺義興と対立し戦闘する。
 陸奥国大名・伊達輝宗(42歳)、重臣・遠藤基信(54歳)を使者として摂津国大坂城の羽柴秀吉(49歳)に馬を贈る。
 羽柴秀吉、関白に叙任される。
九月
 関白・羽柴秀吉、朝廷より「豊臣」姓を賜る。
十月
 関白・豊臣秀吉、九州大名・島津義久(53歳)に停戦令をくだす。

天正十四(1586)年
正月
 最上出羽守義光(41歳)、庄内地方の大浦城主・大宝寺義興(33歳)と戦闘する東禅寺城主・東禅寺筑前守義長(43歳)に援軍を送る。
五月
 最上出羽守義光、仙北地方の大名・小野寺家と出羽国有屋峠で合戦する。
六月
 北陸大名・上杉景勝(31歳)、摂津国大坂城で関白・豊臣秀吉(50歳)に拝謁し服属する。
七月
 伊達家、相馬家の仲裁により芦名・佐竹家と和睦する(奥口総和)。
十月
 東海大名・徳川家康(44歳)、摂津国大坂城で関白・豊臣秀吉に拝謁し服属する。
十一月
 最上義光、伊達政宗(20歳)の仲介により大宝寺義興と和睦する。
 最上義光、大宝寺義興に呼応して挙兵した出羽国白岩城主・白岩八郎四郎広教(?歳)を滅ぼす。
十二月
 大浦城主・大宝寺義興、東禅寺城主・東禅寺筑前守義長と和睦する。
 関白・豊臣秀吉、関東・東北地方に惣無事令をくだす。
 豊臣秀吉、太政大臣に叙任される。

天正十五(1587)年
正月
 関東大名・北条氏直(26歳)、相模国小田原城の大改修を始める。
二月
 陸奥国大名・伊達政宗(21歳)、館山城(現・米沢市)の建造を開始する(館山城は天正十九年の伊達家岩手沢移封により未完)。
五月
 大浦城主・大宝寺義興(34歳)、最上義光(42歳)の支援を受け実権を掌握する家老・東禅寺筑前守義長(44歳)と再び戦闘状態に入る。
 関白・豊臣秀吉(51歳)、九州大名・島津義久(55歳)を降伏させ九州地方を平定する。
六月
 関白・豊臣秀吉、バテレン追放令を発令する。
八月
 出羽国庄内地方の観音寺城主・来次出雲守氏秀(?歳)、最上家と戦闘する。
九月
 出羽国仙北地方(現・秋田県横手地方)の大名・小野寺家、六郷家、金沢家との間に戦闘が起こる(仙北干戈)。
 伊達政宗の仲介により大宝寺義興と東禅寺義長、和睦する。
十月
 大宝寺義興、東禅寺義長に降伏し最上領の谷地城に送られ自害する(34歳)。最上家家臣・中山玄蕃頭朝正(?歳)、大浦城番となる。
 仙北地方の小野寺家、六郷家、金沢家、最上義光の仲介により和睦する。
 伊達政宗、出羽国鮎貝城主・鮎貝盛次(33歳)と宗信(?歳)父子の対立に乗じて侵攻し鮎貝城(現・白鷹町)を攻略する。鮎貝宗信、最上領に亡命する。
 越後国本庄城主・本庄繁長(48歳)、新発田重家(41歳)を討ち新発田城(現・新潟県新発田市)を攻略する。

天正十六(1588)年
二月
 伊達政宗(22歳)、大崎地方の大名・大崎義隆(40歳)の中新田城を攻撃するが大敗する。
 最上出羽守義光(43歳)、庄内・最上地方の家臣に対して秋田・仙北地方からの侵攻に備えるように指令する。
三月
 伊達政宗、出羽国中山城(現・南陽市、別名・岩部山城)を改修し、最上義光と対立する。
 最上義光、伊達政宗の中山城改修に対抗し虚空蔵山に高楯城(現・上山市)を建造する。
 関東大名・徳川家康(46歳)、最上義光に伊達政宗との和平を勧告する。
四月
 伊達政宗、最上領との国境に位置する出羽国鮎貝城(現・白鷹町)を改修する。
 伊達軍と最上軍、狸森(現・上山市)などで戦闘を繰り返す。
 最上義光、伊達領の陸奥国秋保(現・秋保町)に侵攻するが撃退される。
 本庄繁長(49歳)、次男・大宝寺義勝(15歳)と共に出羽国に侵攻し最上軍との戦闘を開始する。
閏五月
 関白・豊臣秀吉(52歳)の使者・金山宗洗(?歳)、山形城に到着し最上領内を視察する。
六月
 最上義光と伊達政宗、義光の妹で政宗生母の保春院義姫(41歳)の仲介により和睦する。
 伊達政宗、陸奥国郡山に侵攻し芦名・佐竹連合軍と戦闘する。
七月
 伊達政宗、相馬・白河家の仲裁により芦名・佐竹家と和睦する。
八月
 関東大名・北条氏直(27歳)の叔父・氏規(44歳)、上洛し京・聚楽第で関白・豊臣秀吉に拝謁し講和する。
九月
 関白・豊臣秀吉の使者・金山宗洗、米沢城に到着し伊達領内を視察して京へ帰る。
十月
 本庄繁長と次男・大宝寺義勝、十五里ヶ原合戦で東禅寺筑前守義長(45歳)を討つ。
 本庄繁長、最上家家臣・中山玄蕃朝正の大浦城を落城させ庄内地方を制圧する。
 最上義光、本庄繁長と大宝寺義勝の軍事行動を惣無事令違反であると豊臣秀吉に訴えるが、上杉景勝(33歳)の差配により事実上黙殺される。
 最上義光、出羽国仙北地方からの小野寺家の侵攻に備えて神室山麓に支城(片平城、落城、小倉城など)を構築する。

天正十七(1589)年
正月
 関白・豊臣秀吉(53歳)、使者・金山宗洗(?歳)を出羽国米沢城に遣わし伊達政宗(23歳)の上洛を要請する。
五月
 最上領の名川城(現・鶴岡市)、上杉軍の攻撃を受け落城する。
六月
 伊達政宗、芦名・佐竹家との和睦を破断し、摺上原合戦に勝利して芦名家を滅亡させ陸奥国黒川城(現・福島県会津若松市)を領有する。
七月
 上杉景勝(34歳)の内意を受けた大浦城主・大宝寺義勝(16歳)、上洛して関白・豊臣秀吉により出羽守に叙任される(最上義光の出羽守職の剥奪)。
十月
 伊達政宗、須賀川城(現・福島県須賀川市)を攻め落とし二階堂家を滅亡させる。
十一月
 関白・豊臣秀吉、上野国沼田の領土問題で名胡桃城(現・群馬県水上町)を占拠した北条家に違反があったとして北条家討伐を決定する。

天正十八(1590)年
 最上出羽守義光(45歳)、立石寺日枝神社を改修する。
五月
 最上義光の父・栄林、死去(70歳)。
六月
 伊達政宗(24歳)、豊臣秀吉(54歳)の小田原陣へ到着する。
 最上義光、父・栄林の葬儀により関白・豊臣秀吉の小田原陣への到着が遅れる。
七月
 関東大名・北条氏直(29歳)、相模国小田原城を開城し豊臣秀吉に降伏する。
 豊臣秀吉、北条家の領地を没収し関東大名・徳川家康(48歳)に移封する。
 豊臣秀吉、東北地方平定のために下野国宇都宮城に入城する。
八月
 豊臣秀吉、相馬・佐竹・伊達・最上家ら小田原陣に参加した諸大名の所領を安堵し、参陣しなかった大崎・葛西家ら諸大名を改易する。
 豊臣秀吉、出羽国庄内地方の領有権を上杉景勝(35歳)に与え、本庄繁長(51歳)・大宝寺義勝(17歳)父子の所有権を認めず。
 豊臣秀吉、陸奥国黒川城に入城し東北地方の検地と刀狩りの実施を命ずる(撫切令)。
 上杉景勝、出羽国庄内地方の検地を開始し、観音寺城主・来次出雲守氏秀(?歳)を越後国高田に移封させ、上杉家家臣・寺尾伝左衛門を城番とする。
 豊臣秀吉、伊達政宗(24歳)と最上義光(45歳)に妻子の上洛を命ずる。
 最上義光、豊臣軍の出羽国仙北地方進出への先鋒を任され、家臣・鮭延典膳秀綱(28歳)を湯沢城(現・秋田県湯沢市)の城番におく。
 伊達家の米沢城下、豊臣軍の進出を恐れ大混乱に陥る。
九月
 陸奥国大崎(現在の宮城県北部)、葛西(現在の岩手県南部)、出羽国庄内、仙北など東北各地で豊臣軍の検地・刀狩りに抵抗する一揆が発生する。
 出羽国庄内地方の一揆勢、観音寺城を占拠し城主・寺尾伝左衛門(?歳)を討ち取るが上杉軍により鎮圧され、観音寺城は破却される。
十月
 陸奥国大崎、葛西で蜂起した一揆勢、豊臣家臣・木村吉清(?歳)の籠城する佐沼城(現・宮城県登米市)を包囲する。
 伊達政宗と豊臣家臣・蒲生氏郷(35歳)、一揆勢を鎮圧し佐沼城を救援するが、伊達政宗が一揆勢に通じていたとする疑惑が流れる。
十二月
 豊臣秀吉、陸奥国北部で発生した九戸政実(55歳)の乱と東北各地の一揆の鎮圧のために、甥・豊臣秀次(23歳)を総大将とする奥羽平定軍(徳川家康・上杉景勝・蒲生氏郷・佐竹義宣・石田三成ら)を派遣する。
 豊臣秀吉、大宝寺義勝に信濃国川中島の知行を与える。義勝は京に移住する(ただし大浦城下に大宝寺家領2500石は残される)。

天正十九(1891)年
正月
 伊達政宗(25歳)、上洛し関白・豊臣秀吉(55歳)に大崎・葛西一揆勢との関係否定の釈明をする。
 最上義光(46歳)、上洛し侍従に叙任される。伊達政宗、奥州探題、侍従に叙任される。
 関白・豊臣秀吉、肥前国名護屋城の建造を始める(唐入りの開始)。
二月
 豊臣秀吉、伊達政宗に大崎・葛西領を与える代わりに会津領を没収する。
 最上侍従義光、出羽国仙北地方の領土分配をめぐり横手城主・小野寺義道(26歳)と対立する。
五月
 上杉家重臣・直江兼続(32歳)、上杉家領となった出羽国庄内地方に入り一揆勢を鎮圧する。
 上杉家家臣・下対馬守秀久(?歳)、出羽国大浦城主となる。
六月
 伊達政宗、新たに領地となった大崎・葛西の一揆を鎮圧するために出兵する。
七月
 関白・豊臣秀吉の甥・豊臣秀次(24歳)を総大将とする奥羽平定軍、陸奥国佐沼城合戦で一揆勢を壊滅させ平定を終了する。
 豊臣秀吉、伊達家の領地を陸奥国大崎・葛西のみに減封する。
九月
 伊達政宗、陸奥国岩出山城(現・宮城県大崎市)に入城する。
 豊臣家臣・蒲生氏郷(36歳)、陸奥国米沢城に入城する。
 蒲生家重臣・蒲生郷可(?歳)、出羽国中山1万3千石の領主となり、伊達家の旧中山城(別名・岩部山城)を破却し、近隣の小山に天守閣を有する新たな中山城を建造する。
十二月
 豊臣秀吉、関白位を甥・秀次に譲る。

文禄元(1592)年
正月
 最上侍従義光(47歳)、伊達侍従政宗(26歳)、蒲生氏郷(37歳)ら東北地方の諸大名、唐入りのために肥前国に向けて出陣する。
三月
 最上義光、肥前国から山形城の大改修と城下町・街道の拡張計画を指示する。
四月
 豊臣軍、渡海し朝鮮王国への侵攻を開始する(文禄の役)。

文禄二(1593)年
二月
 肥前国名護屋城に在陣中の最上侍従義光(48歳)、京の連歌師の要請により家臣・江口五兵衛光清(?歳)を使者として自身と家老・氏家尾張守守棟(60歳)の句を送る。
八月
 太閤・豊臣秀吉(57歳)の三男・拾丸(のちの豊臣秀頼)、誕生。

文禄三(1594)年
八月
 最上侍従義光(49歳)の次男・家親(13歳)、元服し駿河守に叙任される(徳川家康から「家」の偏諱を賜る)。
十一月
 伊達侍従政宗(28歳)の生母・最上保春院義姫(47歳)、政宗の肥前名護屋城出陣中に陸奥国岩出山城を出奔し実家の出羽国山形城に寄寓する。

文禄四(1595)年
五月
 最上侍従義光(50歳)の三女・駒姫(15歳)、関白・豊臣秀次(28歳)の側室に入室することが決まり、京に向けて出発する。
七月
 太閤・豊臣秀吉(59歳)、甥の関白・豊臣秀次に謀反の疑いありとして高野山に追放し自害させる。
 最上侍従義光(50歳)や伊達侍従政宗(29歳)、豊臣秀次の謀反に関係する疑いありとして京・聚楽第に謹慎させられる。
八月
 豊臣秀次の妻子30名、京・三条河原で処刑される。この時、秀次の側室候補として上洛したばかりだった最上駒姫(15歳)も連座して処刑される。
 義光と共に聚楽第で謹慎していた正室・大崎御前、死去(?歳 駒姫の処刑を追っての自害である可能性が高い)。

慶長元(1596)年
 最上侍従義光(51歳)の次男・最上駿河守家親(15歳)、江戸城に出仕して徳川家康(54歳)に仕える。
七月
 最上侍従義光、『源氏物語』への深い教養を反映した連歌解説書『連歌新式』を著述する。
九月
 太閤・豊臣秀吉(60歳)と明帝国大使、摂津国大坂城で会見するが交渉が決裂し再度の唐入りが決定する。
十二月
 最上駿河守家親、歌人・里村紹巴(73歳)から和歌書『三部抄』を贈られる。

慶長二(1597)年
 伊達侍従政宗(31歳)、右近衛権少将に叙任される。
五月
 豊臣軍、再び渡海し朝鮮王国への侵攻を開始する(慶長の役)。

慶長三(1598)年
正月
 北陸大名・上杉景勝(43歳)、所領を越後国から陸奥国会津120万石に転封される。
 上杉家家臣・横田式部少輔旨俊(?歳)、最上領との国境に位置する中山城(現・上山市)の城番となる。
八月
 太閤・豊臣秀吉、死去(62歳)。
十一月
 豊臣軍、朝鮮半島から撤退し唐入りを終結させる。

慶長四(1599)年
閏三月
 大老・前田利家、摂津国大坂城で死去(62歳)。
 奉行筆頭・石田三成(40歳)の失脚により、大老・徳川家康(57歳)が豊臣政権の主導権を握る。
九月
 大老・徳川家康、摂津国大坂城に入城し豊臣政権を掌握する。
 大老・上杉景勝(44歳)、京から陸奥国会津に帰国する。
十月
 上杉景勝、領国国境の防備を強化する。

慶長五(1600)年
二月
 陸奥国大名・上杉景勝(45歳)、領国内の諸城の改修を命じ、重臣・直江山城守兼続(41歳)に神指城(現・福島県会津若松市)の建造を命ずる。
四月
 上杉家、大老・徳川家康(58歳)に対して十五ヶ条の「直江状」を送付し対立が決定的となる。
七月
 徳川家康、全国の諸大名に上杉景勝追討の動員令をくだし、最上侍従義光(55歳)、佐竹義宣(31歳)ら東北地方の諸大名にも出兵を命じる。
 伊達政宗(34歳)、上杉家領の陸奥国白石城(現・宮城県白石市)を攻め落とす。
 徳川家康、江戸城を出陣し下野国小山城に入城するが、京・大坂での石田三成(41歳)挙兵の報を知り上杉家追討を一時停止して今後の動向を合議する(小山評定)。
 最上義光の次男・最上駿河守家親(19歳)、徳川秀忠(22歳)に従い下野国宇都宮城に入城し、その後信濃国の真田家攻撃に参加する。
八月
 徳川家康、東北地方の諸大名の出兵を解き江戸城に帰陣する。
 上杉景勝、佐竹義宣、相馬家、小野寺家と密かに通じ家康派の最上家の孤立化をはかる。
九月
 直江山城守兼続を総大将とする上杉軍2万、最上領に侵攻して宇津野城(現・朝日町)の関三郎兵衛(?歳)と畑谷城(現・山辺町)の江口五兵衛光清(?歳)を討ち、菅沢(現・山形市)に陣をしき長谷堂城(現・山形市)を包囲する。
 上杉家臣の出羽国大浦城主・下対馬守秀久(?歳)、最上家の出羽国谷地城を攻め落とす。
 上杉軍、長谷堂城と同時に上山の上山城と高楯城を攻撃するが攻め落とせず。
 最上義光、嫡男・最上修理大夫義康(26歳)を使者として伊達政宗に援軍を要請する。
 下次右衛門、太平山麓に平城を建造し大浦城を破却する。
 伊達政宗、上杉家領の陸奥国湯ノ原城(現・宮城県七ヶ宿町)を攻め落とし出羽国新宿(現・上山市)まで進撃する。
十月
 直江兼続率いる上杉軍、関ヶ原合戦での徳川家康の勝利の報を受けて、最上軍の長谷堂城の包囲を解き陸奥国に撤退する。
 出羽国谷地城を占拠していた上杉家臣・下対馬守秀久、最上軍に投降し最上家家臣となる。
 最上義光、上杉家領の出羽国大浦城を攻め落とす。
 最上義光、最上家に投降した下対馬守秀久を先鋒として庄内地方に出兵させる。
 上杉家、重臣・本庄越前守繁長(61歳)を使者として上洛し徳川家康に降伏する。

慶長六(1601)年
四月
 鮭延典膳秀綱(39歳)らが率いる最上軍、上杉方である庄内地方の菅野城(現・遊佐町)と東禅寺城(現・酒田市、別名・亀ヶ崎城)を攻め落とす。
 最上侍従義光(56歳)、眼病により執政を嫡男・最上修理大夫義康(27歳)に一時委任する。
 最上義光、上洛して徳川家康(59歳)に拝謁し名刀「大黒正宗」を拝領する。
七月
 陸奥国大名・上杉景勝(46歳)、上洛して徳川家康に拝謁する。
八月
 上杉景勝、所領を120万石から30万石に減封される。上杉家と同盟した小野寺義道(36歳)、改易される(石見国津和野藩預かり)。
十一月
 最上義光、江戸城で徳川家康に拝謁し出羽国庄内地方の領有権を認められ、石高24万石から57万石の大名となる。
 最上義光の甥・白岩備前守光広(13歳 白岩広教の養子)、稲荷山城を建造し寒河江地方を支配する。

慶長七(1602)年
 徳川家康(60歳)、佐竹家を出羽国秋田に転封し、その他の上杉派大名も転封処分にする。

慶長八(1603)年
三月
 徳川家康(61歳)、上洛し江戸幕府初代征夷大将軍に叙任される。
 最上侍従義光(58歳)、徳川家康に供奉し上洛する。
八月
 最上侍従義光、自身を隠居させて家督を相続する動きありと見た嫡男・最上修理大夫義康(29歳)、高野山での出家を命じる。
 最上修理大夫義康、高野山に向かう途上の庄内地方・松原(現・鶴岡市)で、義光派の家臣に火縄銃で撃たれ暗殺される(29歳)。

慶長九(1604)年
閏八月
 最上侍従義光(59歳)、江戸に上京する。

慶長十(1605)年
四月
 徳川秀忠(27歳)、上洛し江戸幕府第二代征夷大将軍に叙任される。最上侍従義光(60歳)、上杉景勝(50歳)、伊達政宗(39歳)ら全国の諸大名も供奉して上洛する。
 最上駿河守家親(24歳)、侍従に叙任される。

慶長十二(1607)年
二月
 最上侍従義光(61歳)、上杉家・伊達家・佐竹家と共に江戸城大改修の堀普請を任される。
三月
 最上侍従義光、大御所・徳川家康(65歳)の隠居城として改修が完了した駿河国駿府城を訪れ徳川家康に拝謁する。

慶長十三(1608)年
 伊達右近衛権少将政宗(42歳)、陸奥守に叙任される。

慶長十四(1609)年
六月
 陸奥国大名・上杉景勝(54歳)、極秘裏に伊達家時代の未完成の城・舘山城(現・米沢市)を改修し江戸幕府との戦闘に備える。

慶長十五(1610)年
 最上侍従家親(29歳)、琉球国国王が来日した際に奏者を務める。
 最上侍従義光(65歳)、山形城に五層の天守閣の建造を検討するが、軍師・山名一吽軒の進言により取り止める。

慶長十六(1611)年
三月
 最上侍従義光(66歳)、左近衛少将に叙任される。
 最上少将義光、江戸城改修や京の内裏改修に参加する。
八月
 最上少将義光、駿河国駿府城の大御所・徳川家康(69歳)にヒシクイ(鴨の一種)を献上する。
九月
 最上侍従家親(30歳)、駿河城の大御所・徳川家康に鷹を献上する。

慶長十七(1612)年
五月
 最上少将義光(67歳)、眼病が悪化し外出が困難になる。

慶長十八(1613)年
正月
 最上少将義光(68歳)、眼病の悪化により駿府城と江戸城への年始参賀を使者で済ませる。
四月
 最上少将義光、体調の回復により上京し江戸城の将軍・徳川秀忠(35歳)に拝謁する。
九月
 最上少将義光、駿河国駿府城の大御所・徳川家康(71歳)に拝謁する。

慶長十九(1614)年
 最上家、庄内地方の亀ヶ崎城の城下町と酒田湊の拡大整備を行う。
正月
 最上少将義光、死去(69歳)。
二月
 次男・最上侍従家親(33歳)、江戸城から出羽国山形城に帰国し最上家の家督を相続する。
三月
 最上侍従家親、将軍・徳川秀忠(36歳)の弟・松平忠輝(23歳)の居城である越後国高田城の普請の加勢に越後国に入る。
六月
 清水義親(最上家親の異母弟)派の添川城主・一栗兵部少輔高春(?歳)、挙兵して家親重臣の大山城主・下対馬守秀実(?歳 下秀久の嫡男)と亀ヶ崎城主・志村光惟(?歳 志村光安の嫡男)を討ち取るが、鶴岡城主・新関因幡守久正(47歳)の軍勢により討ち取られる。
九月
 最上家親、大坂冬の陣の開戦に備えて江戸城留守居役として江戸城を防衛する。
十月
 最上家親、駿河国駿府城の大御所・徳川家康(72歳)に拝謁し最上家相続の礼を述べる。
 最上家親、一栗高春による下秀実・志村光惟暗殺事件の首謀者として、清水城主・清水大蔵大夫義親(33歳 家親の異母弟)を攻撃し自刃させる。
 最上家、最上川の舟運を統括し活性化させる。

元和元(1615)年
正月
 最上侍従家親(34歳)、家臣の出羽国上山城主・坂紀伊守光秀(?歳)を使者として駿河国駿府城の大御所・徳川家康(73歳)に白鳥と黒馬を献上する。
四月
 大坂夏の陣により豊臣家、滅亡する。
閏六月
 伊達陸奥守政宗(49歳)、参議に叙任される。

元和二(1616)年
四月
 大御所・徳川家康、死去(74歳)。

元和三(1617)年
三月
 最上侍従家親、山形城で急死(36歳 毒殺説や江戸城で死去した説など異説あり)。後継は家親の嫡男・最上源五郎家信(13歳 のちの義俊)。
五月
 江戸幕府老中・土井大炊頭利勝(45歳)、最上家に対して藩主家信を補佐していくよう強く指示する七ヶ条の御条目を通達する。

元和八(1622)年
 出羽国松根城主・松根備前守光広(34歳 最上義光の甥)、最上家親の急死の真相が家親の叔父・楯岡光直(64歳)による毒殺であると江戸幕府老中・酒井雅楽頭忠世(51歳)に訴える。
 江戸幕府、最上家親の死因を調査するが楯岡光直の関与を立証できず、松根光広を筑後国柳川藩預かりとして追放する。
八月
 最上源五郎家信(18歳)、最上騒動の責任を取り近江国大森藩1万石に改易される(改易後、最上義俊に改名する)。
九月
 伊達参議政宗(56歳)、最上家に寄寓していた生母・最上保春院義姫(75歳)を陸奥国仙台城に迎える。

元和九(1623)年
五月
 伊達参議政宗(57歳)、将軍・徳川秀忠(45歳)の上洛に供奉する。
七月
 伊達参議政宗の生母・最上保春院義姫、死去(76歳)。

寛永三(1626)年
 伊達参議政宗(60歳)、権中納言に叙任される。

寛永八(1631)年
十一月
 近江国大森藩主・最上源五郎義俊、死去(27歳)。義俊の嫡男・善智(1歳)より、最上家は5000石取りの旗本交代寄合家となる。

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