みなさま、どうもこんばんは~。そうだいでございます。今日も一日……っていうか、昨日か。昨日も一日お疲れ様でございました!
いや~、今年もきちゃった、年末が……忙しい! 忙しいにも程があるぞ、今年の師走は!!
わたくしの働く職場は、もう10月くらいから来年の年度末まで約半年、毎月の大仕事の連続で常に忙しくなるのですが、特に私、今年度からけっこう大きめな担当を任されることになっちゃったからよう! 大変なんですよ……とは言いましても、なんてったって2年目のペーペーでございますから。
毎日が新しいことの連続で、もうタイヘンなんでごぜぇますよぉ。個人ブログなんだからグチの一つも言わせてくださいやぁ。
ま、そんなこと言っても、つい先日に東京にお芝居を観に行っちゃったんですけどね。
お、お待ちください! 「どこが忙しいんじゃ」と石を投げるのはおやめになって! 今回はど~しても、万障繰り合わせてでも1泊2日の都合をつけて観に行かなければならぬ公演だったのでございます!!
首もしまりますよぉ、そりゃ! 貴重な休日をまるまる使っちゃうんですから。でも、そういうタイトな時の旅行こそ楽しいんですよね~! まぁそこは新宿の片隅にあるビジネスホテル泊りだったわけなんですが、つかの間ながらも、ゆっくりと久しぶりのひとりの時間を楽しむことができました。いい旅だったね……
さて、そうまでして遠出して観に行きましたるお芝居とは、こちら!
城山羊の会プロデュース第19回公演『自己紹介読本』(2016年12月1~11日 下北沢・小劇場B1)
やっぱ、そうなるだろ~! 城山羊の会さん恒例の年末公演。今年の締めも、これで決まりですよね! ちょっと早いか。
前にも他の記事で言ったかもしれませんが、私はこの『長岡京エイリアン』を始める前の、千葉県在の劇団員だった頃から折に触れて城山羊の会さんの公演は拝見させていただいておりまして、確か最初に観たのは第6回公演の『新しい歌 ~tyto nove pisnicky~』(2008年11月20~27日 神楽坂シアター・イワト)だったかと思います。もう8年も前のことになりますか……
それ以来、全公演とは言えないもののお芝居はちょくちょく観に行っておりまして、作・演出を務める山内ケンジさんの映画監督作品も2作、劇場で楽しんでおります。でも、つい先月に公開された第3回監督作品の『 At the terrace テラスにて』(おととしに上演された第16回公演『トロワグロ』の映画化作品)は観てないんだよなぁ! 誠に残念無念なのですが、先ほど申したような現況でしたもので、先月の映画と今月の今作とで天秤にかけざるを得なかったのです……地方暮らしの貧乏人はこりだがらダメだず!
ちなみに、我が『長岡京エイリアン』にて、山内ケンジさん作の諸作についてくっちゃべった記事の一覧は、以下のようになっております。
山内ケンジ第1回映画監督作品『ミツコ感覚』(2011年12月公開)
城山羊の会プロデュース第13回公演『あの山の稜線が崩れてゆく』(2012年11月29日~12月11日上演)
城山羊の会プロデュース第15回公演『ピカレスクロマン 身の引きしまる思い』(2013年11月29日~12月8日上演)
城山羊の会プロデュース第16回公演『トロワグロ』(2014年11月29日~12月9日上演)
城山羊の会プロデュース第17回公演『仲直りするために果物を』(2015年5月29日~6月7日上演)
城山羊の会プロデュース第18回公演『水仙の花 narcissus』(2015年12月4~13日上演)
山内ケンジ第2回映画監督作品『友だちのパパが好き』(2015年12月公開)
ところで私、演劇作品って、生で劇場で観なければその真の面白さが味わえない娯楽だと思うんですよ。
確かに演劇は、映画や TVのように作り手と観客、双方ともなかなか融通の効かない部分が多く、俳優さんがセリフや段取りをトチってもやり直しはできませんし、見ている人だって、尿意を催しても隣の人の鼻息が気になってもガマンして終演まで座っていなければならないという点は映画とおんなじなんですが、当たり前ながら公演回数も劇場数も段違いに小規模だし、しかも観るだけで一回数千円とか……いろいろと敷居が高い!
でも、それなのに。芸術史の中でも屈指にアナクロな芸術なのに、ギリシア悲劇から2500年たった現代でも演劇がすたれないのは(隆盛もしていないかも知れませんが)、やはり劇場という一つの空間の中で、同じ「戻せない時間」を作り手側と観客側とが共有する緊張感があるからなのではないでしょうか。そして、そういうピリピリしたスリルを味わう醍醐味があるからこそ、テキトーに家で寝そべりながらでも楽しめる娯楽だってあるのに、わざわざ時間とお金と手間をかけて劇場にまで足を運びたくなる魅力が生まれるのでしょう。
それに、こうやって演劇を観た感想をブログにあげるという行為は、その公演が終了してしまうと、実際に観た人以外にとっては何の意味も無いですよね。だってその記事の言ってることがホントかどうか、作品を観て確かめることが永久にできないんだもん!
再演とか、公演の記録映像とかいうチャンスもあるわけですが……それは全く別のものになってしまうと思うんだな、空気感が味わえないから。
じゃあ、なんで私は城山羊の会さんのお芝居を観た感想をしょうこりもなくブログにあげてしまうかと言いますと、それはまぁ、ひとえに「あの時なぜ面白く感じたんだ、俺は!?」という疑問を間違いだらけでもいいから自分なりに解決させたいという、自己満足きわまりない欲求からなんでしょうね。
そうなのです、城山羊の会さんの魅力はきわめて「謎」! 謎な面白さなのです。私の脳みそではすぐに面白さの真相を突きとめることは無理ですので、こうしてモーモー牛さんのようにもぐもぐ反芻して謎を解き明かそうとあがく次第。
そんなこんなで、いい加減に今回の公演の感想に入りたいのですが、私なりに今作の内容を一言であらわしますと、
「過程」組と「結論」組、男たちと女たちの紅白大混戦!!
ということになりますでしょうか。今回も、言うまでもなく非常に面白かった。しかし同時に、急に「ヒエッ……」と戦慄してしまうような恐怖さえ感じてしまう鋭さも持った精巧な傑作だったかと思います。
本作の舞台は、どうやらある都市にある公園の一角のようで、近くにあるらしい工事現場からはドリルの音が断続的にけたたましく鳴り響き、円環状に配置された石かコンクリート製のベンチのそばにある小便小僧のオブジェの噴水は、工事の影響か水が止まった状態になっています。時間は夕刻なのか、舞台照明は最初から最後まで西日のようなオレンジの暮色となっており、本編途中のある一瞬を除いては全く暗転せず、上映時間の約90分と同じリアルタイムの時間が流れる一幕一場作品となっています。
公園の一角という舞台設定からしてそうなのですが、作中には初対面となる人物たちが多く登場し、作品のタイトル通り、それなりの「自己紹介」が必要となる出遭いが交錯します。
まず、互いに初対面のミサオ(演・富田真喜)と増淵(演・岡部たかし)という男女がベンチに距離をあけて座り、増淵からミサオに自己紹介が行われます。その後、ユキ(演・初音映莉子)とカワガリ(演・浅井浩介)という若いカップルが現れるのですがこの2人はミサオと待ち合わせをしていた友人だったため、増淵からせかされる形で2人もしぶしぶ自己紹介をします。
さらにその後、今度は増淵の勤める市役所の後輩という、元自衛隊員の曽根(演・松澤匠)が現れ、増淵もまた待ち合わせで公園に来ていたということが分かります。ここで増淵からのミサオら3人の紹介を受ける形で曽根の自己紹介が行われ、最後に曽根から呼ばれた柏木(演・岩谷健司)と和恵(演・岩本えり)という熟年夫婦が現れ、曽根が先輩の増淵に引き合わせる形で、柏木夫妻もまた自己紹介をするのでした。
まぁ、お話はだいたいこういう骨子のようなのですが、ミサオ・ユキ・カワガリのグループと増淵・曽根・柏木夫妻のグループは、やたら自己紹介をしたがる、させたがるトリックスター増淵の活躍によってぐちゃっと癒合し、「なんやかんやあって」夕食を一緒に食べようという流れになるのでありました。
この「なんやかんやあって」ですよ。ここ! こういう過程の部分は、普通の日常生活の中では真っ先に記憶の中から消去されて、先に言ったような「いついつにだれと会った。」という要旨しか残らないのが常かとは思うのですが、この「なんやかんやあって」の過程を、ファーブルかシートンのように偏執的に観察してクローズアップするのが、城山羊の会さんなのであります。まず、この日常世界で重要になるはずの主食主菜がぽいっとどこかに追いやられて、あってもなくてもいいようなふわふわした何かがお皿の真ん中にドンッと載せて提供されるという主客転倒ぶりがすごいんですよね。脳みそがシャッフルされちゃうぅ!
そして、ここが本作の面白いところであると同時に怖いところなのですが、対峙した初対面の人々は、無責任に相手のことを知りたいし、周りの人にもその人のことを知ってもらいたいという異様な社交性を持つ増淵の活躍によってやたらと感情が衝突しやすくなり、大声を出したり泣き出したり吐き気を催したりと、ちょっと自己紹介をする時点の場とはにわかには信じられない修羅場の様相を呈するのです。なぜ!?
なぜ自己紹介をし合っているだけなのに、登場人物たちが内面のけっこう深いところを暴かれたような気がしてギスギスしてしまうのか。それは、各自が持っている「過程」と「結論」に対する価値観がみごとにバラッバラになっているからなのではありますまいか。
まず、今まで言ったように増淵という人間は、確かに積極的に他人のことを知りたがり、そのために自己紹介を時と場所に関係なくいきなり切り出してくる人ではあるのですが、喜劇的に鈍感なだけで極端に異常な人ではないように見えます。これはつまり、「とにかく知りたい!」というか、相手が誰なのかという「結論」を知ることが最優先で、そのためならば聞いていい頃合いを待つとか距離感を詰めるとかいう「過程」はかなり軽んじてしまう人物であるということでしょう。将棋の香車みたいな人ですね。そのポジティブさはいいのですが、使い勝手が……
しかしその一方で最初に出会うミサオはと言いますと、なにはなくとも「過程」至上主義である生きざまがうかがい知れます。
そのヒントは作中のあらゆる言動に息づいているのですが、その一例を挙げると、彼女は増淵が言い当てた彼女の職業「学校の先生」を、ユキに答え合わせされるまで一貫して「違う」と否定し続けます。
当たっていたはずの増淵をなぜああまで頑なにミサオが否定していたのか? その理由は「質問された時点でミサオは教職を辞していたから」という屁理屈を抜きにすると、それはもう「ミサオのことを順を追って知る」という「過程」をちゃんと踏まずに当てずっぽうだったから。これしかないと思うのです。つまり、ミサオは「結論」が正しかろうが、「過程」が無ければ絶対に認めない人物であることがよくわかります。
ミサオが典型的な「過程」人間であることを考えると、彼女が学校の先生を辞めることになった原因もよくわかりますし、そこから、ミサオと対照的な生き方をしているように見えるユキが、ミサオとは真逆の「結論」人間であることも芋づる式にほの見えてきます。
こと今回のお話でクローズアップされることの多い「男性関係」を例にとってみますと、ミサオはなにかと接触することの多い職場で知り合った生徒さんと交際したがために、社会的に相当まずいことになって教職を辞めることになってしまいます。これは、交際に至るまで相手のことをじっくり知りたい、知った気になりたいという「過程」やシチュエーションを重視するが、その一方でそれがどのような末路をたどるのかという「結論」なぞ知ったことじゃないというミサオの人間性をみごとに言い表しているではありませんか。
その一方でユキはというと、よく言えば社交性が高いということになるのでしょうが、交際する男性は職業がなんであろうと国籍がなんであろうと、相手の素性がどうこういう「過程」にはあまり頓着せずに、とりあえず気持ちよくなりたいという「結論」を猪突猛進に追い求めるお人であることがうかがい知れるのです。
牽強付会ですかね……でも、この「過程か結論か」という基準で見れば、ミサオと増淵、ミサオとユキが物語の序盤で全く合わないのも、増淵とユキがなんとな~く呑みに行こうという流れになるのもスッと筋が通るような気がするのです。また、ミサオが中絶手術を経験することとなった「過程」を理解することをすっとばして、中絶ってどうなの?という「結論」だけを手っ取り早く聞き出そうとするユキに、ミサオが会う前から反感を抱いていた理由も、なんとなくわかるような気がします。
そして、なにはなくとも物語のクライマックスで繰り広げられたミサオと増淵の「奇跡のコラボ」が成立したのも、過程(シチュエーション)を大切にするミサオの心を増淵のおふざけがズキュンと射抜いてしまったからなのではないでしょうか。そういう意味で解釈するのならば、本来ならば会わないはずの二人がああなってしまうという奇跡の象徴、それこそが、止まっているはずの小便小僧の尿道から「白い液体」がほとばしるという現象だったことに他なりません。ということは、あの像は小便小僧ではなく、羽根が破損したキューピッドの像だった……?
もう一つ、私の妄説で言えばユキは「結論」派であるわけですが、そんな彼女は作中で、承諾なしに彼女の経歴をなし崩し的に語ってしまうカワガリにかなりイラっときますし、その挙句の果てに、自分の夫に、つまりは実の父親が誰かもわからない生まれ来る子の父代わりになろうとしてくれるという、カワガリの仏さまのような広い心の真意をつかみかねて疑心暗鬼に陥ります。これは要するに、カワガリが「ユキの性生活のことはとやかく言わない」という交際上のルールを順守しながらも、内心ではやっぱり恨みを抱いているのではないかという疑念があるからで、カワガリが口ではいいこと言いながらも、結局はユキの「過程」をほじくり返そうとする非「結論」派のように見えたから、それほどまでに動揺したのではないでしょうか。自分のことを分かってくれてると思っていた人が実はそうではなかった、自分の思い込みに過ぎなかったということに気づいてしまう、この寂しさ、哀しみ!
もっとも、カワガリがほんとのところ「結論」派と「過程」派のどっちなのかは作中では明かされないのですが、もしユキと同じ「結論」派だったのだとしても、ユキの「性の喜び」とカワガリの「心の平安」とで、追い求める「結論」がまるで違うという悲劇が横たわっているのも、実に城山羊の会さんらしい哀しい暗示ではあるのですが。
さて、この作品の前半のトリックスターは申し上げた通り自己紹介一本槍の増淵なのですが、後半に物語の世界をかき乱すのは明らかに、正体不明なうさん臭い権力のにおいのする柏木夫妻です。この「明らかに正体不明」という矛盾しまくりのキャラクターが登場するのも、城山羊の会さんの恒例ですよ! きたきたきた~!! いよいよ世間も師走だねぇ!!
「結論」か「過程」かで言うと、柏木夫妻は明らかに自分たちの欲望や快楽の追求に実に正直な「結論」派ですし、柏木夫妻と増淵を引き合わせようと心づくしの手配をしたのにユキと一緒に呑みに行くというとんでもない理由ですっぽかそうとした増淵の仕打ちに激怒する曽根はカンペキに「過程」派だと思います。曽根、ふんだりけったり!
城山羊の会さんの作品の世界での「夫婦」は、必ず何かしらの形で関係が破綻して冷え切っているようなイメージがあるのですが、それはやっぱりおのおのの人間性が、実際の世の中よりも露骨にむき出しになっているがために、合わない部分がはっきりしてしまうからだと思います。しかしそんな作品世界の中でも、今作に登場する柏木夫妻は、お互いへの不満も冗談めかしてあけすけに指摘し合える円満っぷりを披露していて珍しいな~、と思っていたのですが、その秘訣が「夜の趣味の完全な一致」にあることが終盤に判明するのは見事の一言でしたね。そこかよ! でも、そこなんだろうな~、結局、人間なんて。
もう一つ見事だと私がうなってしまったのは、やはり終盤に明らかになった柏木さんの「職業」でした。いや~、これにはビックラこいた!
だって、柏木さんの職業ほど、「結論」第一というか、むしろ「過程」がゼロでないとお願いできないお仕事なんか、そうそうないじゃないですか! 私は女性じゃないので確たることは言えないのですが、多分あんまり見知った人にはお願いしたくない話ですよね、あのへんって。いくら腕がいいと言っても、知ってる人は絶対ヤダ!!
結局のところ、本作は約90分にわたり一触即発のようなヒリヒリした緊迫状態が公園の一角にて繰り広げられるわけなのですが、実のところ、かつての城山羊の会さんの公演にあったような流血レベルのカタストロフは発生せず、はたから見れば「初対面の人達が意気投合してどこかに食べに行く」という、恐ろしいほど何も起きない終着点を見出します。その中でただ一点、ミサオと増淵があんな関係になっちゃうという変化はあるわけですが、それがミサオと増淵という関係性の上では奇跡的なカップリングだったのだとしても、特に法を犯しているような「劇的な出来事」ではないわけです。いや、ああいう目的で街中の多目的トイレを一時占有するのは犯罪か? それにしても、あの日本の公共施設文化の粋ともいえる多目的トイレが、社会の中にポツンとドス黒い口を開ける無法地帯エアポケットとなるとは……世も末だねぇ!
つまり今回の作品は、「ほんとに何も起きない」という意味で、これまでの城山羊の会さんの公演の中でも最も挑戦的でアグレッシブな作品であると言えます。お客さんの気を引くためにここで面白いハプニングを起こそうとか言う打算が一切なく、ただただひたすら人間の心の闇をあばくというか、一見仲良く互いを知っているかのように見えても結局は個人同士の思い込みのすれ違いでしかないという社会の正体を観察するだけ! でも、それをひとつのやたら面白いエンタテイメントに仕上げてしまう城山羊の会さんの、恐ろしいほどのレベルの高さを堪能させてくれる時間となりました。
そうそう、怖い作品なんですね、これは! もしかしたら、城山羊の会さんの作品の中で、もっとわかりやすく笑えたり楽しめたりするものは別にあるのかも知れません。例えば、人間の無駄に高いプライドのバカバカしさとかもろさを的確に表現してくださる石橋けいさんが出演された作品なんかは、わかりやすい「笑いどころ」を見せてくれるという意味で今回の作品よりよっぽど見やすいと思います。
でも、今回の作品は、今までのどの作品よりも高い地点に駆けあがっているというか、次元が違うところに行っているような気がするんですよね……『万葉集』とか『古今和歌集』じゃなくて、『新古今和歌集』のフェイズにいっちゃった、そんな感じでしょうか。わっかるっかなぁ~!?
映画で言うと、アンドレイ=タルコフスキー的な挑戦っていうんでしょうか。あえて「何も起こさない」勇気と自信!! 常人にできるわざではありません。
こういった「寸止め」の美学を象徴するように、本作で物語を引っ掻き回すトリックスターたる前半の増淵と後半の柏木夫妻は、そのムチャクチャな言動で周囲の人々の心をさんざんヒリヒリさせておきながらも、その実きわめて平和主義者で争いごとを好まず、柏木なんかは増淵と曽根のケンカを何度も身を挺して止めているのです。それなのに、めっちゃ台風の目のような不穏な存在なんですよね……
不穏と言えば、一幕一場もの形式で淡々と進んでいく物語の中で、たった一度だけ、舞台がスポットライトひとつだけの照明に切り替わって、暗闇の中で不安そうな表情を浮かべるユキだけが照射されるカットが数秒入ります。
ほんとに唐突に入るので非常に印象的な演出なのですが、これはそこに行くまでの会話の流れからして、ユキが周囲の男性どもを狂わせるような美女であるがゆえに「常に誰かに見られている」存在であるということを強調する意図があるようです。本当に異性から好奇の目で見られているのかどうかは抜きにしても、ことさらユキのビッチ感を敵視しているミサオの口撃によって、誰が父親なのかわからない子を宿しているユキの心に芽生える不安を表現するこの照明演出は、ミサオもカワガリも味方になってくれないという恐怖を鋭く描いていると思いました。
恐怖と言うのならば、この後のカワガリが柏木夫妻に取り込まれる形で食事に参加しようと言い出す展開も、柏木夫妻の異常な接近の仕方に不審を抱いていたユキにとっては、孤立無援になってしまう恐怖以外の何者でもないと感じました。信用しきっていたカワガリもあっち側へ……これは恐ろしいですね!
私はこの、安心しきっていたおだやかな世界が突如として砂上の楼閣のごとく崩壊してしまう恐怖に、「ゴア(流血)の帝王」と恐れられたハーシェル=ゴードン・ルイス監督の早すぎた伝説のホラー映画『2000人の狂人』(1964年)と全く同種の血なまぐささを嗅ぎ取ってしまいました。こわ~!! いや、誰一人として死なないんですけど、「無理が通れば道理引っ込む」を地で行く同調圧力の恐怖を活写しているという意味で、間違いなく今回の『自己紹介読本』は、「なにかの巨大な悲劇」へと続くはじめの一歩を克明に記しているような気がするのです。予言でしょうか? 杞憂に終わればよいのですが……
ま~こんな感じで、今回もとりとめのないダベリに終始してしまったのですが、今回の城山羊の会さんの公演『自己紹介読本』は、明らかに今までの諸作とは一線を画す円熟期に入った作品であると感じました。大笑いするというよりも、唖然とした後で「はは、ははは……」という恐怖を紛らわせるための乾いた笑いが出てくるといった感じでしょうか。でも、面白さは岡部さん、岩谷さんといった常連俳優陣が十二分に保証してくれる安心のクオリティとなっております。ここが非常に頼もしいですね!
「過程」と「結論」の紅白大合戦と言いましたが、その激闘の行方もまた、白黒はっきりせずになあなあで終わっていいのです。天使と悪魔、にぎみたまとあらみたま、アンパンマンとばいきんまん……終わりのない人間の心と心の闘いは、疲れたら手に手を取り合っての『蛍の光』の斉唱と打ち上げでいいのではないでしょうか。おなかがすくだけですから。
いや~、今回も帰りの新幹線の中で思いッきり脳みそをぐるぐるフル回転させていただきました。城山羊の会さま、いつも高コストパフォーマンスな至福のひとときをありがとうございます!!
それにしましても、ついに「何も起きない90分間」を、「過程と結論のバトル輪舞」という一流のエンタメ作に昇華させてしまった以上、次なる作品は一体那辺の境地にまで旅立ってしまうのか……観るのが怖いようで、めっちゃ楽しみですね~。
なにはなくとも、今年の締めに非常にふさわしい観劇旅行でございました。さぁ~、今年もあともうちょっと。気を引き締めて頑張っていきましょう! くれぐれも、破滅の待つ「結論」にはご注意、ご注意……
いや~、今年もきちゃった、年末が……忙しい! 忙しいにも程があるぞ、今年の師走は!!
わたくしの働く職場は、もう10月くらいから来年の年度末まで約半年、毎月の大仕事の連続で常に忙しくなるのですが、特に私、今年度からけっこう大きめな担当を任されることになっちゃったからよう! 大変なんですよ……とは言いましても、なんてったって2年目のペーペーでございますから。
毎日が新しいことの連続で、もうタイヘンなんでごぜぇますよぉ。個人ブログなんだからグチの一つも言わせてくださいやぁ。
ま、そんなこと言っても、つい先日に東京にお芝居を観に行っちゃったんですけどね。
お、お待ちください! 「どこが忙しいんじゃ」と石を投げるのはおやめになって! 今回はど~しても、万障繰り合わせてでも1泊2日の都合をつけて観に行かなければならぬ公演だったのでございます!!
首もしまりますよぉ、そりゃ! 貴重な休日をまるまる使っちゃうんですから。でも、そういうタイトな時の旅行こそ楽しいんですよね~! まぁそこは新宿の片隅にあるビジネスホテル泊りだったわけなんですが、つかの間ながらも、ゆっくりと久しぶりのひとりの時間を楽しむことができました。いい旅だったね……
さて、そうまでして遠出して観に行きましたるお芝居とは、こちら!
城山羊の会プロデュース第19回公演『自己紹介読本』(2016年12月1~11日 下北沢・小劇場B1)
やっぱ、そうなるだろ~! 城山羊の会さん恒例の年末公演。今年の締めも、これで決まりですよね! ちょっと早いか。
前にも他の記事で言ったかもしれませんが、私はこの『長岡京エイリアン』を始める前の、千葉県在の劇団員だった頃から折に触れて城山羊の会さんの公演は拝見させていただいておりまして、確か最初に観たのは第6回公演の『新しい歌 ~tyto nove pisnicky~』(2008年11月20~27日 神楽坂シアター・イワト)だったかと思います。もう8年も前のことになりますか……
それ以来、全公演とは言えないもののお芝居はちょくちょく観に行っておりまして、作・演出を務める山内ケンジさんの映画監督作品も2作、劇場で楽しんでおります。でも、つい先月に公開された第3回監督作品の『 At the terrace テラスにて』(おととしに上演された第16回公演『トロワグロ』の映画化作品)は観てないんだよなぁ! 誠に残念無念なのですが、先ほど申したような現況でしたもので、先月の映画と今月の今作とで天秤にかけざるを得なかったのです……地方暮らしの貧乏人はこりだがらダメだず!
ちなみに、我が『長岡京エイリアン』にて、山内ケンジさん作の諸作についてくっちゃべった記事の一覧は、以下のようになっております。
山内ケンジ第1回映画監督作品『ミツコ感覚』(2011年12月公開)
城山羊の会プロデュース第13回公演『あの山の稜線が崩れてゆく』(2012年11月29日~12月11日上演)
城山羊の会プロデュース第15回公演『ピカレスクロマン 身の引きしまる思い』(2013年11月29日~12月8日上演)
城山羊の会プロデュース第16回公演『トロワグロ』(2014年11月29日~12月9日上演)
城山羊の会プロデュース第17回公演『仲直りするために果物を』(2015年5月29日~6月7日上演)
城山羊の会プロデュース第18回公演『水仙の花 narcissus』(2015年12月4~13日上演)
山内ケンジ第2回映画監督作品『友だちのパパが好き』(2015年12月公開)
ところで私、演劇作品って、生で劇場で観なければその真の面白さが味わえない娯楽だと思うんですよ。
確かに演劇は、映画や TVのように作り手と観客、双方ともなかなか融通の効かない部分が多く、俳優さんがセリフや段取りをトチってもやり直しはできませんし、見ている人だって、尿意を催しても隣の人の鼻息が気になってもガマンして終演まで座っていなければならないという点は映画とおんなじなんですが、当たり前ながら公演回数も劇場数も段違いに小規模だし、しかも観るだけで一回数千円とか……いろいろと敷居が高い!
でも、それなのに。芸術史の中でも屈指にアナクロな芸術なのに、ギリシア悲劇から2500年たった現代でも演劇がすたれないのは(隆盛もしていないかも知れませんが)、やはり劇場という一つの空間の中で、同じ「戻せない時間」を作り手側と観客側とが共有する緊張感があるからなのではないでしょうか。そして、そういうピリピリしたスリルを味わう醍醐味があるからこそ、テキトーに家で寝そべりながらでも楽しめる娯楽だってあるのに、わざわざ時間とお金と手間をかけて劇場にまで足を運びたくなる魅力が生まれるのでしょう。
それに、こうやって演劇を観た感想をブログにあげるという行為は、その公演が終了してしまうと、実際に観た人以外にとっては何の意味も無いですよね。だってその記事の言ってることがホントかどうか、作品を観て確かめることが永久にできないんだもん!
再演とか、公演の記録映像とかいうチャンスもあるわけですが……それは全く別のものになってしまうと思うんだな、空気感が味わえないから。
じゃあ、なんで私は城山羊の会さんのお芝居を観た感想をしょうこりもなくブログにあげてしまうかと言いますと、それはまぁ、ひとえに「あの時なぜ面白く感じたんだ、俺は!?」という疑問を間違いだらけでもいいから自分なりに解決させたいという、自己満足きわまりない欲求からなんでしょうね。
そうなのです、城山羊の会さんの魅力はきわめて「謎」! 謎な面白さなのです。私の脳みそではすぐに面白さの真相を突きとめることは無理ですので、こうしてモーモー牛さんのようにもぐもぐ反芻して謎を解き明かそうとあがく次第。
そんなこんなで、いい加減に今回の公演の感想に入りたいのですが、私なりに今作の内容を一言であらわしますと、
「過程」組と「結論」組、男たちと女たちの紅白大混戦!!
ということになりますでしょうか。今回も、言うまでもなく非常に面白かった。しかし同時に、急に「ヒエッ……」と戦慄してしまうような恐怖さえ感じてしまう鋭さも持った精巧な傑作だったかと思います。
本作の舞台は、どうやらある都市にある公園の一角のようで、近くにあるらしい工事現場からはドリルの音が断続的にけたたましく鳴り響き、円環状に配置された石かコンクリート製のベンチのそばにある小便小僧のオブジェの噴水は、工事の影響か水が止まった状態になっています。時間は夕刻なのか、舞台照明は最初から最後まで西日のようなオレンジの暮色となっており、本編途中のある一瞬を除いては全く暗転せず、上映時間の約90分と同じリアルタイムの時間が流れる一幕一場作品となっています。
公園の一角という舞台設定からしてそうなのですが、作中には初対面となる人物たちが多く登場し、作品のタイトル通り、それなりの「自己紹介」が必要となる出遭いが交錯します。
まず、互いに初対面のミサオ(演・富田真喜)と増淵(演・岡部たかし)という男女がベンチに距離をあけて座り、増淵からミサオに自己紹介が行われます。その後、ユキ(演・初音映莉子)とカワガリ(演・浅井浩介)という若いカップルが現れるのですがこの2人はミサオと待ち合わせをしていた友人だったため、増淵からせかされる形で2人もしぶしぶ自己紹介をします。
さらにその後、今度は増淵の勤める市役所の後輩という、元自衛隊員の曽根(演・松澤匠)が現れ、増淵もまた待ち合わせで公園に来ていたということが分かります。ここで増淵からのミサオら3人の紹介を受ける形で曽根の自己紹介が行われ、最後に曽根から呼ばれた柏木(演・岩谷健司)と和恵(演・岩本えり)という熟年夫婦が現れ、曽根が先輩の増淵に引き合わせる形で、柏木夫妻もまた自己紹介をするのでした。
まぁ、お話はだいたいこういう骨子のようなのですが、ミサオ・ユキ・カワガリのグループと増淵・曽根・柏木夫妻のグループは、やたら自己紹介をしたがる、させたがるトリックスター増淵の活躍によってぐちゃっと癒合し、「なんやかんやあって」夕食を一緒に食べようという流れになるのでありました。
この「なんやかんやあって」ですよ。ここ! こういう過程の部分は、普通の日常生活の中では真っ先に記憶の中から消去されて、先に言ったような「いついつにだれと会った。」という要旨しか残らないのが常かとは思うのですが、この「なんやかんやあって」の過程を、ファーブルかシートンのように偏執的に観察してクローズアップするのが、城山羊の会さんなのであります。まず、この日常世界で重要になるはずの主食主菜がぽいっとどこかに追いやられて、あってもなくてもいいようなふわふわした何かがお皿の真ん中にドンッと載せて提供されるという主客転倒ぶりがすごいんですよね。脳みそがシャッフルされちゃうぅ!
そして、ここが本作の面白いところであると同時に怖いところなのですが、対峙した初対面の人々は、無責任に相手のことを知りたいし、周りの人にもその人のことを知ってもらいたいという異様な社交性を持つ増淵の活躍によってやたらと感情が衝突しやすくなり、大声を出したり泣き出したり吐き気を催したりと、ちょっと自己紹介をする時点の場とはにわかには信じられない修羅場の様相を呈するのです。なぜ!?
なぜ自己紹介をし合っているだけなのに、登場人物たちが内面のけっこう深いところを暴かれたような気がしてギスギスしてしまうのか。それは、各自が持っている「過程」と「結論」に対する価値観がみごとにバラッバラになっているからなのではありますまいか。
まず、今まで言ったように増淵という人間は、確かに積極的に他人のことを知りたがり、そのために自己紹介を時と場所に関係なくいきなり切り出してくる人ではあるのですが、喜劇的に鈍感なだけで極端に異常な人ではないように見えます。これはつまり、「とにかく知りたい!」というか、相手が誰なのかという「結論」を知ることが最優先で、そのためならば聞いていい頃合いを待つとか距離感を詰めるとかいう「過程」はかなり軽んじてしまう人物であるということでしょう。将棋の香車みたいな人ですね。そのポジティブさはいいのですが、使い勝手が……
しかしその一方で最初に出会うミサオはと言いますと、なにはなくとも「過程」至上主義である生きざまがうかがい知れます。
そのヒントは作中のあらゆる言動に息づいているのですが、その一例を挙げると、彼女は増淵が言い当てた彼女の職業「学校の先生」を、ユキに答え合わせされるまで一貫して「違う」と否定し続けます。
当たっていたはずの増淵をなぜああまで頑なにミサオが否定していたのか? その理由は「質問された時点でミサオは教職を辞していたから」という屁理屈を抜きにすると、それはもう「ミサオのことを順を追って知る」という「過程」をちゃんと踏まずに当てずっぽうだったから。これしかないと思うのです。つまり、ミサオは「結論」が正しかろうが、「過程」が無ければ絶対に認めない人物であることがよくわかります。
ミサオが典型的な「過程」人間であることを考えると、彼女が学校の先生を辞めることになった原因もよくわかりますし、そこから、ミサオと対照的な生き方をしているように見えるユキが、ミサオとは真逆の「結論」人間であることも芋づる式にほの見えてきます。
こと今回のお話でクローズアップされることの多い「男性関係」を例にとってみますと、ミサオはなにかと接触することの多い職場で知り合った生徒さんと交際したがために、社会的に相当まずいことになって教職を辞めることになってしまいます。これは、交際に至るまで相手のことをじっくり知りたい、知った気になりたいという「過程」やシチュエーションを重視するが、その一方でそれがどのような末路をたどるのかという「結論」なぞ知ったことじゃないというミサオの人間性をみごとに言い表しているではありませんか。
その一方でユキはというと、よく言えば社交性が高いということになるのでしょうが、交際する男性は職業がなんであろうと国籍がなんであろうと、相手の素性がどうこういう「過程」にはあまり頓着せずに、とりあえず気持ちよくなりたいという「結論」を猪突猛進に追い求めるお人であることがうかがい知れるのです。
牽強付会ですかね……でも、この「過程か結論か」という基準で見れば、ミサオと増淵、ミサオとユキが物語の序盤で全く合わないのも、増淵とユキがなんとな~く呑みに行こうという流れになるのもスッと筋が通るような気がするのです。また、ミサオが中絶手術を経験することとなった「過程」を理解することをすっとばして、中絶ってどうなの?という「結論」だけを手っ取り早く聞き出そうとするユキに、ミサオが会う前から反感を抱いていた理由も、なんとなくわかるような気がします。
そして、なにはなくとも物語のクライマックスで繰り広げられたミサオと増淵の「奇跡のコラボ」が成立したのも、過程(シチュエーション)を大切にするミサオの心を増淵のおふざけがズキュンと射抜いてしまったからなのではないでしょうか。そういう意味で解釈するのならば、本来ならば会わないはずの二人がああなってしまうという奇跡の象徴、それこそが、止まっているはずの小便小僧の尿道から「白い液体」がほとばしるという現象だったことに他なりません。ということは、あの像は小便小僧ではなく、羽根が破損したキューピッドの像だった……?
もう一つ、私の妄説で言えばユキは「結論」派であるわけですが、そんな彼女は作中で、承諾なしに彼女の経歴をなし崩し的に語ってしまうカワガリにかなりイラっときますし、その挙句の果てに、自分の夫に、つまりは実の父親が誰かもわからない生まれ来る子の父代わりになろうとしてくれるという、カワガリの仏さまのような広い心の真意をつかみかねて疑心暗鬼に陥ります。これは要するに、カワガリが「ユキの性生活のことはとやかく言わない」という交際上のルールを順守しながらも、内心ではやっぱり恨みを抱いているのではないかという疑念があるからで、カワガリが口ではいいこと言いながらも、結局はユキの「過程」をほじくり返そうとする非「結論」派のように見えたから、それほどまでに動揺したのではないでしょうか。自分のことを分かってくれてると思っていた人が実はそうではなかった、自分の思い込みに過ぎなかったということに気づいてしまう、この寂しさ、哀しみ!
もっとも、カワガリがほんとのところ「結論」派と「過程」派のどっちなのかは作中では明かされないのですが、もしユキと同じ「結論」派だったのだとしても、ユキの「性の喜び」とカワガリの「心の平安」とで、追い求める「結論」がまるで違うという悲劇が横たわっているのも、実に城山羊の会さんらしい哀しい暗示ではあるのですが。
さて、この作品の前半のトリックスターは申し上げた通り自己紹介一本槍の増淵なのですが、後半に物語の世界をかき乱すのは明らかに、正体不明なうさん臭い権力のにおいのする柏木夫妻です。この「明らかに正体不明」という矛盾しまくりのキャラクターが登場するのも、城山羊の会さんの恒例ですよ! きたきたきた~!! いよいよ世間も師走だねぇ!!
「結論」か「過程」かで言うと、柏木夫妻は明らかに自分たちの欲望や快楽の追求に実に正直な「結論」派ですし、柏木夫妻と増淵を引き合わせようと心づくしの手配をしたのにユキと一緒に呑みに行くというとんでもない理由ですっぽかそうとした増淵の仕打ちに激怒する曽根はカンペキに「過程」派だと思います。曽根、ふんだりけったり!
城山羊の会さんの作品の世界での「夫婦」は、必ず何かしらの形で関係が破綻して冷え切っているようなイメージがあるのですが、それはやっぱりおのおのの人間性が、実際の世の中よりも露骨にむき出しになっているがために、合わない部分がはっきりしてしまうからだと思います。しかしそんな作品世界の中でも、今作に登場する柏木夫妻は、お互いへの不満も冗談めかしてあけすけに指摘し合える円満っぷりを披露していて珍しいな~、と思っていたのですが、その秘訣が「夜の趣味の完全な一致」にあることが終盤に判明するのは見事の一言でしたね。そこかよ! でも、そこなんだろうな~、結局、人間なんて。
もう一つ見事だと私がうなってしまったのは、やはり終盤に明らかになった柏木さんの「職業」でした。いや~、これにはビックラこいた!
だって、柏木さんの職業ほど、「結論」第一というか、むしろ「過程」がゼロでないとお願いできないお仕事なんか、そうそうないじゃないですか! 私は女性じゃないので確たることは言えないのですが、多分あんまり見知った人にはお願いしたくない話ですよね、あのへんって。いくら腕がいいと言っても、知ってる人は絶対ヤダ!!
結局のところ、本作は約90分にわたり一触即発のようなヒリヒリした緊迫状態が公園の一角にて繰り広げられるわけなのですが、実のところ、かつての城山羊の会さんの公演にあったような流血レベルのカタストロフは発生せず、はたから見れば「初対面の人達が意気投合してどこかに食べに行く」という、恐ろしいほど何も起きない終着点を見出します。その中でただ一点、ミサオと増淵があんな関係になっちゃうという変化はあるわけですが、それがミサオと増淵という関係性の上では奇跡的なカップリングだったのだとしても、特に法を犯しているような「劇的な出来事」ではないわけです。いや、ああいう目的で街中の多目的トイレを一時占有するのは犯罪か? それにしても、あの日本の公共施設文化の粋ともいえる多目的トイレが、社会の中にポツンとドス黒い口を開ける無法地帯エアポケットとなるとは……世も末だねぇ!
つまり今回の作品は、「ほんとに何も起きない」という意味で、これまでの城山羊の会さんの公演の中でも最も挑戦的でアグレッシブな作品であると言えます。お客さんの気を引くためにここで面白いハプニングを起こそうとか言う打算が一切なく、ただただひたすら人間の心の闇をあばくというか、一見仲良く互いを知っているかのように見えても結局は個人同士の思い込みのすれ違いでしかないという社会の正体を観察するだけ! でも、それをひとつのやたら面白いエンタテイメントに仕上げてしまう城山羊の会さんの、恐ろしいほどのレベルの高さを堪能させてくれる時間となりました。
そうそう、怖い作品なんですね、これは! もしかしたら、城山羊の会さんの作品の中で、もっとわかりやすく笑えたり楽しめたりするものは別にあるのかも知れません。例えば、人間の無駄に高いプライドのバカバカしさとかもろさを的確に表現してくださる石橋けいさんが出演された作品なんかは、わかりやすい「笑いどころ」を見せてくれるという意味で今回の作品よりよっぽど見やすいと思います。
でも、今回の作品は、今までのどの作品よりも高い地点に駆けあがっているというか、次元が違うところに行っているような気がするんですよね……『万葉集』とか『古今和歌集』じゃなくて、『新古今和歌集』のフェイズにいっちゃった、そんな感じでしょうか。わっかるっかなぁ~!?
映画で言うと、アンドレイ=タルコフスキー的な挑戦っていうんでしょうか。あえて「何も起こさない」勇気と自信!! 常人にできるわざではありません。
こういった「寸止め」の美学を象徴するように、本作で物語を引っ掻き回すトリックスターたる前半の増淵と後半の柏木夫妻は、そのムチャクチャな言動で周囲の人々の心をさんざんヒリヒリさせておきながらも、その実きわめて平和主義者で争いごとを好まず、柏木なんかは増淵と曽根のケンカを何度も身を挺して止めているのです。それなのに、めっちゃ台風の目のような不穏な存在なんですよね……
不穏と言えば、一幕一場もの形式で淡々と進んでいく物語の中で、たった一度だけ、舞台がスポットライトひとつだけの照明に切り替わって、暗闇の中で不安そうな表情を浮かべるユキだけが照射されるカットが数秒入ります。
ほんとに唐突に入るので非常に印象的な演出なのですが、これはそこに行くまでの会話の流れからして、ユキが周囲の男性どもを狂わせるような美女であるがゆえに「常に誰かに見られている」存在であるということを強調する意図があるようです。本当に異性から好奇の目で見られているのかどうかは抜きにしても、ことさらユキのビッチ感を敵視しているミサオの口撃によって、誰が父親なのかわからない子を宿しているユキの心に芽生える不安を表現するこの照明演出は、ミサオもカワガリも味方になってくれないという恐怖を鋭く描いていると思いました。
恐怖と言うのならば、この後のカワガリが柏木夫妻に取り込まれる形で食事に参加しようと言い出す展開も、柏木夫妻の異常な接近の仕方に不審を抱いていたユキにとっては、孤立無援になってしまう恐怖以外の何者でもないと感じました。信用しきっていたカワガリもあっち側へ……これは恐ろしいですね!
私はこの、安心しきっていたおだやかな世界が突如として砂上の楼閣のごとく崩壊してしまう恐怖に、「ゴア(流血)の帝王」と恐れられたハーシェル=ゴードン・ルイス監督の早すぎた伝説のホラー映画『2000人の狂人』(1964年)と全く同種の血なまぐささを嗅ぎ取ってしまいました。こわ~!! いや、誰一人として死なないんですけど、「無理が通れば道理引っ込む」を地で行く同調圧力の恐怖を活写しているという意味で、間違いなく今回の『自己紹介読本』は、「なにかの巨大な悲劇」へと続くはじめの一歩を克明に記しているような気がするのです。予言でしょうか? 杞憂に終わればよいのですが……
ま~こんな感じで、今回もとりとめのないダベリに終始してしまったのですが、今回の城山羊の会さんの公演『自己紹介読本』は、明らかに今までの諸作とは一線を画す円熟期に入った作品であると感じました。大笑いするというよりも、唖然とした後で「はは、ははは……」という恐怖を紛らわせるための乾いた笑いが出てくるといった感じでしょうか。でも、面白さは岡部さん、岩谷さんといった常連俳優陣が十二分に保証してくれる安心のクオリティとなっております。ここが非常に頼もしいですね!
「過程」と「結論」の紅白大合戦と言いましたが、その激闘の行方もまた、白黒はっきりせずになあなあで終わっていいのです。天使と悪魔、にぎみたまとあらみたま、アンパンマンとばいきんまん……終わりのない人間の心と心の闘いは、疲れたら手に手を取り合っての『蛍の光』の斉唱と打ち上げでいいのではないでしょうか。おなかがすくだけですから。
いや~、今回も帰りの新幹線の中で思いッきり脳みそをぐるぐるフル回転させていただきました。城山羊の会さま、いつも高コストパフォーマンスな至福のひとときをありがとうございます!!
それにしましても、ついに「何も起きない90分間」を、「過程と結論のバトル輪舞」という一流のエンタメ作に昇華させてしまった以上、次なる作品は一体那辺の境地にまで旅立ってしまうのか……観るのが怖いようで、めっちゃ楽しみですね~。
なにはなくとも、今年の締めに非常にふさわしい観劇旅行でございました。さぁ~、今年もあともうちょっと。気を引き締めて頑張っていきましょう! くれぐれも、破滅の待つ「結論」にはご注意、ご注意……
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます