北部ノルウェーの冷たい海でニシンの大群を襲うシャチの群れ。子どももいる。
シャチは閉経後も長く生き続けるわずか6種類の動物の1種だが、その有益さを科学者たちは解明し始めている。
墨を吐いたり、体の色を変化させたりする動物の能力は、人間から見れば不思議に思えるかもしれない。しかし動物界全体から見れば、「閉経」こそもっとも不可思議な現象であることはご存じだろうか。
「自然界において閉経は非常にまれな特性です」と指摘するのは、英国エクセター大学の動物行動学者チャーリー・グライムス氏だ。閉経し、生殖能力を失ったあとも長く生き続ける動物はたったの6種類。ヒトと5種のハクジラだけだ。
ハクジラ類のシャチもそうした動物の仲間だ。そこで、なぜシャチのメスが閉経を迎えたあとも20年以上生き続けるのか、大規模な調査が行われてきた。
その結果、2023年7月20日付けで学術誌「Current Biology」に発表されたグライムス氏らの論文によると、閉経後のシャチの母親は、自分の息子が他のシャチとの争いに巻き込まれて負傷しないように守っているという。
これはグライムス氏らがシャチの皮膚にある他のシャチの歯で付けられた傷を調べたことで明らかにされた。とはいえメスたちが守るのは息子だけで、娘や孫は対象外だ。
「メスが息子だけをサポートするのは本当に衝撃でした」とグライムス氏は言う。
母親の助けはあったほうがいい
今回の調査は、米国の太平洋岸北西部の沖合で1年のほとんどを過ごし、絶滅も危ぶまれている「南部定住(レジデント)グループ」に焦点を当てたもの。
調査を行ったのはエクセター大学の他、英ヨーク大学、そして米国ワシントン州にある「クジラ研究センター(the Center for Whale Research)」の研究員たちだ。
シャチは最上位の捕食者であり、特にこのグループは魚を餌にしているため、獲物から傷を負わされることはない。「シャチにある傷は群れにいる他のシャチによって付けられたものであることにまず間違いはないでしょう」とグライムス氏は言う。
南部定住グル
ープを47年間追い続けてきたクジラ研究センターは、グループに属する103頭のシャチの写真を7000枚近く保有している。ここの研究員は1頭1頭のシャチを背びれと背びれの根本付近にある白い模様で識別できるという。
今回の調査では傷の密度が調べられた。結果、閉経後の母親を持つオスは、繁殖可能な母親を持つオスに比べ、傷が少ないことが分かった。一方で、繁殖可能な母親を持つオスと母親のいないオスの間に目立った違いはなかった。
尾ひれを海面にたたきつけ、ジャンプしようとするシャチ(Orcinus orca)。尾ひれにはかまれた痕が見られる。調査の結果、閉経後の母親を持つシャチにはかみ傷が少ないことが分かった。それは年長の母親が子どもを守っているためと考えられる。
「調査結果には驚きました」と話すのは米国でシャチの保護活動を進める非営利団体「ワイルドオルカ」の主任研究員デボラ・ジャイルス氏だ。「私も母親がカギだと考えたでしょう」
繁殖可能な母親は「今抱えている子どもの世話で手いっぱいだと思います。その点、閉経後のメスには時間もあり、自分が産んだ子どもへの関心も高いと考えられます」とジャイルス氏は続けた。なおジャイルス氏は今回の調査には参加していない。
「皮膚の傷は動物に重大な結果をもたらし得ます」と、米海洋大気局(NOAA)の野生生物学者ブラッド・ハンソン氏は言い、今回の調査は「シャチの社会の複雑性やその戦略、閉経後のメスの重要性について新たな知識を授けてくれました」と続けた。ハンソン氏も今回の調査に参加していない。
なぜ息子だけ特別扱い?
今回の調査では、母親の繁殖能力の有無に関係なく、若いメスの傷の状態に差がなかった。つまり母親が娘を特別に保護することはないようだ。
同じシャチのグループを対象にした以前の調査でも、シャチの母系社会において閉経後のメスが担う他の役割で似たような現象が報告されている。
例えば群れを餌場に導くのは閉経後のメスだが、閉経後のメスは捕まえたサーモンを2つに食いちぎり、半分を息子に与えるという。
この行動は特に主たる餌であるサーモンが不足した時、顕著になり、息子が成長したあとも続く。一方、娘は性的に成熟すると母親から自立するようになる。
南部定住グループでは、息子も娘も生涯を同じ群れで過ごす。ただし、オスは別の群れの複数のメスと交尾する。
つまり生まれた子どもの世話は交尾相手のメスが属する群れが担うことになり、オスが属する群れにとってはいわばコスト削減になる。さらに、母親にとっては、娘より息子の方が、自分の遺伝子を多く伝えてくれる。
「オスの方がメスに比べ生殖の機会が多く、メスは交尾相手として年長の体の大きいオスを好みます」とジャイルス氏は説明する。
「もし閉経後のメスが息子に十分な食料を与え、争いごとから守ってやれれば、オスはそれだけ年齢を重ね、大きく成長できる可能性が出てきます」
今回の調査結果は「メスが成長した息子を優先的に世話するのは、息子が繁殖により成功するようにして、自分の遺伝子を伝えるためだとするシナリオを裏付けるものとなりました」とジャイルス氏は言う。
では孫についてはどうだろうか? 閉経後のメスが孫に対し、餌場など生活環境に関する知識を授けることはあるものの、祖母がそばについているからと言って、孫たちの体についた傷の数が少なくはない。
さらに興味深いことに、息子の傷が少ないのは、閉経後の母親が体を張って息子を暴力から守るわけではないようだ。
体に傷が一番少ないのは閉経後のメスだということが以前の調査から分かっている。
つまり、年長のメスは自分の豊富な社会的な知識を使って、争いを回避したり、「息子が危険な行動をとったりしないよう合図を送っているようです」とグライムス氏は言う。
ではシャチのメスはいつ閉経するのか? 人間の女性の場合、40歳から50歳の間だが、シャチも40歳ごろから閉経に近づくとグライムス氏は言う。
閉経する人間は動物界では例外的な存在かもしれないが、シャチとはちょっとした仲間のようだ。
文=LIZ LANGLEY/訳=三好由美子(ナショナル ジオグラフィック日本版サイトで7月24日公開)
日経記事 2023.08.16より引用