キッシンジャー・元米国務長官
【ワシントン=坂口幸裕】
米ニクソン、フォード政権で国務長官などを務めたヘンリー・キッシンジャー氏が11月29日、死去した。100歳だった。
ニクソン政権で大統領補佐官(国家安全保障担当)に就き、1971年に当時国交がなかった中国を極秘に訪れて79年の米中国交正常化に道を開いた。73年には泥沼化していたベトナム戦争の和平交渉をまとめ、ノーベル平和賞を受賞した。
1923年にドイツでユダヤ系ドイツ人の家庭に生まれたが、反ユダヤ政策をとったナチス政権の誕生を受けて38年に米国に移った。
米ハーバード大で博士号を取得し、同大で教壇にも立った。68年の大統領選で勝利したニクソン氏に請われて大統領補佐官に起用され、外交を仕切った。
71年7月に同盟国の日本にも知らせず北京を訪れ、共産圏の中国の周恩来首相(当時)と会談した。ニクソン大統領(同)が72年2月に米大統領として初めて訪中する地ならしとなり、79年の正常化につなげた。
それは当時、米国の最大の敵だったソ連との関係を優位にするための現実主義に立った判断だった。
保守派の反共主義者として知られたキッシンジャー氏による中国接近は中ソ関係にくさびを打ち込み、デタント(緊張緩和)への譲歩を引き出す狙いがあった。その後の米ソによる第1次戦略兵器制限条約(SALT1)調印などにつなげた。
米中国交正常化は現在の台湾問題の起点になった。米国は中国と国交を結ぶ一方で台湾と断交した。中国大陸と台湾が1つの国に属するという「一つの中国」政策はバイデン政権を含む歴代の米政権が踏襲する。
米国が「関与政策」を続けた結果、中国は経済、軍事の両面で最大の脅威となり、トランプ前政権以降の対中政策は転換を迫られた。経済支援や国際秩序への取り込みを通じて発展を促せば、中国の政治体制も変化して将来の民主化につながるとの戦略は失敗した。
ベトナム戦争の終結にも尽力した。フォード政権では国務長官を兼務し、北ベトナムと秘密交渉にあたった。73年1月の停戦協定と米軍撤退に結びつけ、ベトナム戦争は終結した。第一線を退いた後はコンサルティング会社「キッシンジャー・アソシエーツ」を設立し、外交政策を積極的に提言。外国首脳との仲介役も担った。
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日経記事 2023.1130より引用
分析・考察
2010年代にワシントンでキッシンジャー氏の講演を何度か聴講しました。90代になってもよく通る低い声で明快に国際情勢を語り続けた同氏には、講演の度に感銘を受けました
。また、そうした講演の前方の席の多くを占め、講演後にはキッシンジャー氏を崇拝するかのような様子で取り囲む中国系と思われる人々の多さに当惑したことも覚えています。もちろん、同氏が主導した米国の対中関与政策から中国が受けた恩恵の大きさを考えれば十分理解はできます。
それだけにキッシンジャー氏自身から、民主化しなかった中国、2010年代後半からの米国の関与政策の転換をどう評価するかも聞きたかったところです。