日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

意味は言葉の内にあるのか?

2016-09-07 07:10:49 | 人生の意味

  意味は、言葉の中にあるのか。それとも外にあるのか。薔薇という言葉の意味は、言葉にあるのだろうか。それとも、言葉ではない「実在する薔薇」に存在するのだろうか。

  実在するバラというのが、一つの難点、「薔薇」と呼ばれる花は無数にあるが、「薔薇」そのものは存在しない。
  この時に、バラは名前に過ぎないのか、「薔薇」そのものや、「薔薇」という属性が存在すると考えるのか、これが中世の普遍論争だが、言葉の意味が言葉の中にあるのか、言葉に対応した外部、実在に意味が存在するのか。
  外部に意味がないと考えると、実在は無意味、無味乾燥した世界になる。一方、外部に意味があると考えると、人間の言葉の外に意味があり、人間は外部の実在の意味を読み取るということになる。人間が意味を作るのでなく、予め定められた外部の意味、神があたえた意味を読みとるようなイメージになる。
  薔薇の場合、外部にそれなりに対応したもの、花を見つけることができる。人生とか、生きるという場合、この時の意味、生きるという意味。この時に問われている外部の対象というものは存在するのだろうか。
  生きるとは、今、私が現に生きているのだが、このことを考える時、これは言葉の外部の対象について、考えていることになるのだろうか。ある生物を見つけて、生きるの意味を考える時、この場合、考えることができるのは、個体として生物であって、「生きる」を考えることにはならない。生命活動の特徴を考える時、これは教科書を読むようなことになるのだが、言葉によって他人に意味づけられたとしか言えない。生きるを自分で考えると、その対象となるものを、外部に見つけることはできない。
  人間は、(言葉の外部の世界に存在するのは確かだが、)考える時、言葉の内部にしかなりえない。意味が言葉の外にあるのか、言葉の中にあるのか。
  言葉にも、外部にも意味があると考えると、言葉に対応する外部の存在、真理の(言葉と外部の)対応論になるのだが、この時にはどうしても、外部に与えられた意味が必要になる、若しくは外部にある意味を読み解く、外部に実在に依存することになる。
  人生の意味を考えると、真理対応論でいけば、外部の人生と言うものに意味に対応するものが必要になるのだが、そのようなものを見つけることができるのだろうか。
  人生の意味は、見つけるものでなく、その人が作るものだと考えると、意味は言葉の側にあることになる。その時、客観的意味というものは存在しなくなる。意味は主観的なものになる。
  もう一つの考え方は、人生という言葉自体、意味がない、ありそうでなさそうなもの、そういう言葉もあるのかと
考えるか、ただ、こうして文を書いているんだから人生に意味はありそうな気はするのだが。
 
 
 
 

意味の意味 雑感

2016-07-02 16:25:08 | 人生の意味

  「意味」の意味は何か、意味が分かっているから問うているのだろう。意味が分からずに問うことはできない。かといって、意味を明確に説明することは難しい。

  人は、何らかの意味を尋ねたくなるものだ。何らかの理由があるから、何かが存在しているだとか。何のために、何をしているだとか。生きている上で、何のために生きているのだとか、何のために仕事をしているのだとか。何らかの意味を求めて生きている。実は、何のためでなく、理由はないが生きているというのが、私が思う本当のところなのだが、この本当のところに、何か意味をつけたくなるのだ。
  意味がないということに、意味がないことを受け入れることは、一つの仏教的な態度だと思う。キリスト教的態度であれば、神の栄光を称えるために人が存在しているというような理解になるのだろうが、何も意味がないということを受け入れることは、無常を受け入れることになるだろう。
  この意味のなさを受け入れるということは、頭で分かっても実態として受け入れることは難しい。人にちやほやされたいとか、偉いと思われたいとか、そういうことを求める時に、何か意味をそこにつけてやりたくなるのだ。
  意味がないんじゃない。こんなに意味があるんだと、その時に自分の偉さを自分で認め満足したい、そういうところに意味、生きる意味というものを押し込んでいる。それが、意味がないと考えるのか、社会にとって意味があると考えるのか。自分ひとりの満足で意味を自分で満足できない時、ほぼそうなのだが、社会に、まわりの人に意味を認められたいと考える。そのような、人に認められた思える時に、自分自身で意味を認めることが本当にできるのだろう。それまでは、自分が認めた意味など、自分でも信用できず、意味づけることができていないのだ。
  世界に意味があるとすれば、それは自分が意味をつけるものなのだが、その自分が意味をつけるだけでは、意味をつけることに満足できない。自分の世界における意味なのに、他者の意味付けに依存する。
  別の見方をすれば、他者と自分との意味の共有、それを人生の意味とか、生きる意味とかいうことになるのだろうが、人は、本当の意味で人と一緒に生きることができるのだろうか。それぞれの(自分の)世界に、人は生きている。世界は、人に開示されているが、そこで世界を見ることができるのは、自分ひとりしかいない。横に妻がいても、彼女はそこに違う世界を見ている。同じ世界を共有することはできない。この意味で、世界は無常で移ろう。永遠の一つの世界などなく、その人の世界があるだけだ。
  この世界の意味と、人生の意味、私の存在の意味、意味の意味、
  世界の意味は、意味の意味をしることができれば、それが世界の意味であり、また人生の意味であり、私の存在の意味であろう。
  全てのものに意味があるとすれば、意味の意味は世界の意味を意味することになるだろう。意味が何を意味しているか、それは存在が何を意味するのかを言っているのだと思う。
  ただ、この意味というものも、意味はない。意味という言葉には指示対象がないのだ。抽象的存在者である意味というものも理解しがたい。幻想なのだろうと思う。その時、世界は無常であり、流れ去るものだと思う。
  人は、幻想の中に、意味の中に、意味のプールの中で泳いでいる。この流れは、一つの幻想なのだが、幻想もリアル、現実でもある。
  人は、食べていかなければ生きることはできない。一つの歴然とした現実だが、食べていけてもそこに、何か意味という幻想なしには、また生きていくことも難しい。それが幻想と知りつつも、幻想に意味を、幻想を現実と信じて、幻想ということを忘れやっていく。幻想といえども一つの現実、幻想を幻想と呼ばなければ現実でしかない。
何かを、言葉で意味づける時、それが幻想になるのだが、言葉によらない現実は幻想ではなく、本当の世界、私の世界だろうと思う。子供の笑顔を見るときや、きれいなものを見た時の気持ち、これは幻想ではなく現実である。これも、言葉に直して、噛みしめると幻想になっていく。
 
 
 
 
 

花見

2016-04-02 15:18:30 | 人生の意味

  川べりの桜を見に自転車で出かけた。コンビニでお弁当とお茶を買った。合わせても500円ちょっと。ビールにしようかとも思ったが、1人で外で飲むビールはそんなに美味しくないので、お茶にした。

  何故か、何度か試したのだが外で缶ビールを1人で飲んでも美味しくないのだ。家でなら1人でも美味しいのだが、外で1人でビールを飲むと疎外感みたいな、ひとりぽっち感がして美味しいと思えない。
  桜を、花見をする人を見ながらお弁当を食べた。毎年、桜を見るが、本当に花見をしたのは初めてのような気がする。人の喧騒がいやなので、混むと分かっているところが嫌なので、弁当を持って花見ということはしたことがなかった。子供の頃にしているのかも知れないが、記憶にはない。
  桜を見るたびに何度目の桜だろうと思う。あと何回見ることができるのか。花が咲き、散る。どうもストーリー的なものを感じてしまう。
  今読んでいるマッキンタイアの「美徳なき時代」に書かれていたのだが、人は自分の人生を物語的に解してしか、人生の意味を考えることができない。花が咲き、花が散る。さくらの場合は、種子がほとんどできないが、花の美しさによって、人間の手を借りて繁殖することに成功しているのだから、戦略的に成功している。
  自分の人生を物語り的に語ることができる人は幸せなのだろうと思う。自分がいつどこで生まれて、何をしてきたか、何を目的に、これが語れるということは生きる意味を語ることができるということだ。
  目的論というのだが、何かが何かのために存在している。人間は神の栄光を証するために存在しているとか、神の計画のために存在しているとか、こういう理解は宗教的な目的論だが、人生を目的論で見ると理解がしやすい。何かこれのために存在している。そういうよすがが必要なのかと思う。
  目的論が誤っていることは、存在が目的に依存していることになるのだから、当然に帰結することだと思うのだが、どこかで人は目的論、何かの物語にすがりたくなる。そういう存在なのだろうと思う。
 
 
 
 

人生の意味

2015-11-14 17:07:28 | 人生の意味

  人生の意味が、行為の後についてくる。行為は一つ一つに意味があり、行為の後に意味が付与される。付与される意味は、人が付けるものだ。この意味では、一つの物語がなされることになる。分かりにくければ、解釈がくだされ、それが言葉になる。意味は人がつけるものであって、何か意味を付ける前に意味なるものが存在するわけではない。こういう意味では、意味は実在ではない。一つの語りなのだ。

  人生に意味があるとすれば、それは実在ではなく、一つの語りである。人生の意味なるものが、初めから実在するのでなく、その人の人生に対する語り、それが人生の意味になる。私の人生に意味があるのか、ないのか、そういうことを考えても、語る者がいなければ、意味は存在しない。語られる者が有名人であるならば、語る者も多数いるだろう。それぞれに意味を語ることになり、その数だけ意味が存在する。私は有名人ではないので語る者はほとんどいない。私自身が私について語ることになるだろう。それも独白のようなものだ。
  他人が私について語る人生の意味など、無意味なものだ。私の独白は、私が聴くことになるのだが、これが私が私の人生についての意味を付与することになるのだろう。
  私が人生について、何か意味を付与するとき、そのときは行為について意味を付与するわけだが、まず行為があり、それについて意味を付与していくことになる。人生で何かの意味をなすために、何かをする訳ではない。生きること、それ自体が行為なのであり、目的なのだ。
  私は、生というもの自体には、先に言うように意味があるとは思わない。生における行為、これが意味を持つ。私がしたこと、行為とは何らかの意味を有さざるを得ない。人は、過去を見れば必ずそこに意味を照らしだす。照らし出された意味こそが、私の人生の意味となる。
  私が、過去を見る時、多くの過去が忘却の彼方にある。忘却した過去は意味を失い、思い出された過去だけが意味を持つ、現在は過去の積み重ねから現在の環境というものがあるので、次々とある行為は過去の積み重ねでもある。そして回想可能な過去が意味を新たに持つことになり、時間は継続していく。
  いつかは、私が消滅することは必然のことであり、意味をいつまでも持ち続けることはできない。人生の意味を持つのは、私の人生の間、すなわち行為の間でしかない。この意味で、私の人生の意味は、生きる行為の後に、意味が続いていくものだ。
  大きな人生の目的や、生きる目的、生きることの意味というものは、存在しない、そう考えると何か気が楽になるような気がするが、勘違いなのであろうか。私には、人生を何か他人に与えられる、教えてもらうような意味よりも、そのようなものなど初めからないと考える方が平和なように思う。
 
 
 

意味と目的

2015-11-13 22:57:14 | 人生の意味

  今日、電車でハンナ・アーレントを読んでいたのだが、彼女の指摘に意味と目的の同一視ということがあった。

  意味は、行為の意味であり、意味は行為の後に生じる。そのことは、目的と同じではない。何らかの目的のために行為をしているという理解は、あらゆる行為は意味を持つのだが、その意味がとたんに目的、最終の目的にすりかえられる。塗り替えられると言ってもいいだろう。行為は、人が後から見て、何か意味を考えるのだが、それが未来へと眼を向けたとたんに、意味は目的に転化する。目的は、成就すれば、新しい目的へと向かう。成就した目的は手段へと格下げがなされ、より上位の目的の手段になる。
  意味は、同様に目的と化した時にその意味を失う。私の人生の意味を考えるのは、私が死んだ後、私以外の人が考えてくれるかもしれないし、自分が死ぬ間際に回想するのかもしれない。私の人生の行為は何らかの意味を付与されるのだ。しかし、私の人生の目的を考える時、私の人生の行為の一つ一つの意味は失われ、何らかの目的への手段であったと、より高次の目的が私の人生の意味、それは目的への手段に過ぎなくなる。
  私が、現在や過去のまなざしを持つ時、私の人生の意味を考える、付与することができるだろう。私が、未来へのまなざし、未来に何らかの目的があるとした時に、私の人生はこの目的の手段へと化す。
  私の人生は、何かの手段であるとは思わない。私の生そのものが目的であり、意味である。これよりも、高次の目的や意味を考える時、私の人生の意味は失われるであろう。
  私の人生の意味が何であるかは、私の行為によって後に評価されるのだろう。その前方に何か目的があるというのは、イカロスの望みのようなものかもしれない。