日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

意味

2014-12-06 17:36:50 | 人生の意味

意味が何であるか、意味が何を意味しているのか。仕事の意味や、人生の意味、自分の意味、そして意味の意味。

  何にでも、意味を問いたくなるのが、言語を使う条件となっているのだろうか。会話の意味、言葉の意味を確認する。考える作業が習慣になっている。どんなものにでも、意味があるのだろうと思う。言葉で、何かを考える時、ある対象を考えると、その対象には意味がなければならない。
  人生を考えると、対象である人生には意味がなければならない。「人生」という語の意味を考えるのも、そうであるが、ここでは「自分の」という前提がついてくる。それに意味があるかどうかは、分からないのだが、言葉で考えると意味がなければならない。そういう意味では、語りなのだと思う。「人生」語り、私なら私の語りが、誰かに聞かせたい、自分で自分に聞かせたい語りなのだろう。
  誰も、人生という事実は持っていない。生の事実、出来事、そのようなものはない。現に、今、体験していることでも、私の解釈に基づいた事実、出来事だ。解釈的事実というものを自分自身で、語っているのだ。私に関する事実が、私の語りの上で事実であろうとも、それは語りということに変わりない。
  この語りが、意味であろうと思うのだが、そう考えると、この意味というものは無色透明なものだ。人生の意味や意味の意味であろうが、語ろうとするところが意味であれば、意味という意味は無色でしかない。そのときおりに語られるものだ。
 
 
 

意味と私

2011-06-21 21:32:45 | 人生の意味
  以前に生きる意味を考えた。で、今日は意味について考えよう。
  意味を考えろ。意味ねえ。何の意味があるの。意味について、日常でも自分がやっていることの意味を考える時がある。仕事に行く前には、働く意味について考える。簡単に言えば、働くのが嫌でそれでも働かねばならない。働くために自分なりの理由を見つけようとしている。自己合理化の作業をしながら通勤をしている。
  私は何故意味を求めるのだろう。そもそも意味とは何だろうか。昔にも一度考えたことがあり、その時は意味とは、対象における最も重要なものを意味するという文をどこかで見つけ満足していた。意味が何を意味しているかは面白そうだが、今回はこれを意味の意味としておく。私は何故、時間の意味から、生きる意味、働く意味、そのほか色々、何に対しても意味を求めているのか、この点をここでは考えたい。

  私は、世界を解釈しつつ生きている。あらゆる情報を解釈し、意味を考えずにはいられない。料理を見ても盛り付けの意味を見る。きれいに盛り付けられている。盛り付けが汚い。食べても意味を見る。味付けの良し悪し、美味しい不味い、これらは感覚と意味が相互的にミックスされた状態であるが、何かしらの解釈を意味を見ているように思う。私は、何かしらの解釈なしに、食事することもままならない。
  ここで、「人は何故意味を求めるのか。」に戻ると、「私は世界を解釈する。」という人のあり方に意味を求める原因があるのでないかと思う。人は、何を見ても、聞いても、感じるところがあれば、解釈をし、そのことについて分析を行う。「あついな」という言葉をきけば、その人を見て「暑いな」「熱いな」どちらの意味か考え判断する。生活の中に意味があふれており、意味を考えずに、又は行為に意味を与えずに行為ができない。電気ポットの意味を考えずに生活はできないし、掃除機についてもそうである。意味を考えずに過ごしているつもりであっても、私の行為は、自然に意味を有している。(これができないと生活不適応者となってしまう。他人から見て私の行為は無意味と思われることも沢山あるが。)
  意味とは、人の行為に、行為そのものにあり、行為と意味は切り離すことはできない。

  次に物には意味があるのだろうか。何かしらの意味が具体の物の中に存在しそうに思うが、物自体には意味は存在しない。例えば、自転車の意味を考えよう。個別の自転車、仮に私が所有する自転車「物体X」に意味が含まれているかを見れば、アルミと鉄とゴムで構成された物体Xがあるだけであって、仮に物体Xを切り刻んでみても意味というような構成物が見つかることはない。これは、自転車を知らない人に物体Xを見せても意味が分からないことから結論できる。
  私の物体X自体には意味がないのだが、私は物体Xを自転車と呼び、妻に自転車で出かけてくると言えば、意味が通じる。この様子を見れば、意味とは物自体にあるのではなく、人が物体Xに意味を与えていることが分かる。物体Xでは意味は物体であることとXと呼ばれていること以上のことは分からないが、物体Xを自転車と呼ぶことによって、物体Xに自転車としての意味を付与している。物体X自体に自転車の意味が含まれているのではなく、これを自転車と呼ぶときに、物体Xには自転車としての意味が与えられるのである。物にではなく、人の語に意味があり、語によって意味は構成されている。

  物には意味がなく、行為には意味がある。人は何らかの行為なしに生きることができない。思考そのものが行為であり、行為があるところに意味が生まれる。物の存在に人はなることができない。意味を求めないということは、人の在りようが、物の存在、物体Xのように言葉による解釈を使用しない、経ない在り方ということになる。何故、人は意味を求めるのか。それは行為が人として生きることの前提であり、行為を成立させるために意味を求め、この行為の在り方が、意味を求めるという姿をしているが故に、私は何事にしても意味を求めているのである。

  おまけ
  もし、この意味のない行為(為すという時点で意味があるが。)があるのであれば、意味を求めない生き方に繋がるが、仮に人が意味を求めない行為を探求した時には、それが本当に意味を求めない行為であるかは疑問である。もし、意味がない行為を行う(これも変だが)のであれば、探求することなしに即座に無意味でなくてはならない。
  この状態になると、もはや論理では追求できない世界であるので私には無理であるし、そのような世界があるとしても、私には夢のない眠りと違いがないようにも思う。

   生きる意味が分からないということは、私は自然に、当然に今、生きているので、その行為の連続が地と図の関係の地(背景)となり、生きるということを図として認識できなくなっているのだろう。これが当たり前でなくなった時、今まさに命が終わろうという時に生きる意味を図として認識するのかもしれない。そして、その時に、生きること自体が意味であり目的であると私は考えるかもしれない。 このことを実感する時は、私はどのような姿をしているのだろう。



生きる意味3

2011-05-15 18:09:27 | 人生の意味
  人間は生物として、他の動植物よりも高い価値を持つというのは、人間固有の価値判断に過ぎない。この点では生きる意味は動植物と人間は同価値である。
  生きる意味を問うということは、このような意味を訊ねている訳でない。むしろ、生命現象から離れた、人の活動の意味を問うている。集団内での個人、世界における自分自身の位置づけ、これが生きる意味を問うことの意味である。
  私の世界、解釈の中で、私自身の位置づけ、価値が生きる意味である。自分の位置が特定できない。また位置に価値を自身で見出せないと生きる意味を喪失してしまう。
  私は、自分の世界(私が解釈しているこの世界、風景)の中で、自分を重要な存在と確かめたい。そのために、金銭、名声、地位を得ようと活動している。
  自分の世界の中で、自分を重要と認めたいがために、私と他人との比較、関係によってそれを確かめる。この行為の中に、生きる意味を見出そうともがいている。 私が世界の中で、私をどのように位置づけようと全て自由であるはずなのだが、実際には、私は社会的な価値、位置づけをすることに満足をする。(価値ということ自体が社会性が必要であり、社会性のない価値は価値が喪失していまう。)
  生きる意味を見つけようとすることは、自身の生の全体に対する解釈というよりも、この点では自身の社会での位置付け、場所取りをしようとすること、この実践、活動が生きる意味としての意味内容である。
  私の消滅によっても、私が生きてきた意味というものが残るという、この幻想、評価、私の物語を求めるが故に私の位置を求めるのだろう。
  私の信じる結果もいつかは波紋が消えるように消えいくこと、忘れ去られることは必然であるが、それでも私が解釈を欲してしまう。私が私を評価する活動、これが私の生きる意味を問う構造である。そしてその評価が私の生きる意味である。

 
 

生まれたことの意味

2011-05-08 11:17:24 | 人生の意味
「生まれたことの意味」
私の子、高校生の宿題のテーマである。詩を読んでの感想文ということだが、先週に私が生きる意味を考えた後であったので、少し驚いた。再度考えてみようと思う。

  私が生まれたことは、物語の始まり。私は自分の物語を「語る」ために生まれた。と仮定しよう。 
  私の物語を語る時、それは私が世界で体験したことから切り出した創作、私なりの解釈である。
  私の物語の全体は、膨大な事実と心象の積み重ねである。物語として語り、削り出される可能性としてはそこにあるのだが、全体としては語られることのない物語でもある。イメージ的には巨石から石像が生み出されるように、私がそこから削り出し、語ることによって、初めて形をともなった物語となる。
  この可能性としての物語の全体は、私の消滅とともに消滅をする。
  人の死は、可能性としての物語の消滅である。偉人で凡人であれ、物語として削り出されるのは、ほんの一部であり、それは創出である。どのような形であれ、物語が作品として残るのは可能性としての全体の一部にすぎない。可能性としての物語は、その人の消滅とともに消滅し、その人が秩序づけた膨大な意味、情報が消滅する。そうして無意味に帰する。
  私がこのように文を作ることは、一つの語りであるが、日々の生活の会話であっても、私の物語の削り出しである。会話は、記録されないものがほとんどであるが、一部が記憶され、記録されれば削り出された物語となる。この文がそうであるように。
  私の可能性としての物語、私が削り出す物語がいつまで続くは分からないが、私がいる限りに物語は存在する。
  人が生まれたことだけでは、意味は生まれてはいない。人は語ることによって初めて意味を保持する。人は死ぬことによって無意味に帰するが、もとよりそのような存在である。生物は、無秩序の中での連関を生み出し、そして無秩序に帰る。人もそのような在り方でしかないように思う。
  そして、このことを否定的に取る必要はないと思う。私は無秩序に帰ること、この事実に整然としてありたい。無秩序の中で秩序を作り続けることを楽しみとし、その秩序を時折に眺めたい。

  生まれたことの意味は、無意味の中で意味を見つけ、そして無意味へと帰していくことである。
  私なりの生まれたことの意味であるが、高校生は何を見つけだすのであろう。


生きる意味の意味

2011-04-30 11:14:39 | 人生の意味
  日々の生活に飽き、休みに入ってやっと一息、生活を振り返って生きる意味を考えよう。
  これまでに何度か考えたが最終的な結論は、生きる意味はない。 
  言い方を代えれば、生きる意味についての意味ある回答はない。

  生きる意味を生物が問い尋ねる。答えるのは誰か。生物が、生きることについて外部的に意味づけをしたいとすれば、非生物に答えてもらうのが簡単であるが、「意味」は言葉であり、「言葉」は人が使う道具である。人が使う道具について、人でないものに答えを求めても回答はありはしない。言葉で解答があるのであれば、それは人が生み出したものである。

  言葉として「生きる意味」は、それ自体では機能はしない。走る意味とか、食べる意味とかと違いはない。この場合の意味は走ること、食べることの目的であるが、これは個々の文脈から解答できる。しかし、生きるという普遍的な事実についての目的を生物が生物に問い尋ねてみても、私は気が付けば生存していたというだけである。

 私は、生きる意味を自身が訊ね答えることはできない。私は、生きる意味とは言葉に過ぎないことを指摘するだけだ。言葉には意味があるが対象となる事物が必要だ。言葉が持つ「音」だけで成立する意味などない。「イキルイミ」という「音」には「生きる」という事物がなければならない。「生きる」という事物は私である。生きる意味を訊ねる者がその答えという結果となる。これでは答えがないのも当然である。私は意味を訊ね続けることはできても、私が問い訊ねる限りは、私には永遠に解答が帰ってこない。
  先の「食べる意味」のように目的としての意味とは異なり、私が私に生きる意味を問い訊ねても、目的としての意味は帰ってこない。むしろ、この場合は私が意味を付与せざるを得ない。だから私が訊ねている間に意味が帰ってこない。
  生きる意味とは、対象としての事物としての意味しか有さない。食べる意味であれば、生存を維持するためであり、会話を楽しむ契機であり、食べることを楽しむ(食べることに苦しむ)こと等々であるが、生きる意味の場合には、何々のために食べるという食べることの上に位置する目的としての意味がない。
  誰でも、目的としての意味を生きることに付与することはできるが、それは食べる意味に目的としての意味を付け加えることと同様であって、その人の理解に過ぎない。
  生きる意味の場合は、食べる意味よりも、皆が共通して意味として了解される目的が現代では喪失している。そこで、普遍的に生きる意味を問い訊ねても見つけることはできない。問い訊ねてる限りは、見つからない構造は先のとおりである。
  私は、「食べる意味」とは食べることを楽しむ(食べることを苦しむ)という、食べる行為自体が意味であると考えているが、「生きる意味」についても同様に生きることを楽しむ(生きることを苦しむ)という生きる行為自体が意味と思う。生きるという行為に、後から目的を付与してみても、それはあとのせに過ぎない。

  生きる意味の対象は、生きること。生きる意味は生きることの中にあるのであって他所に探しても見つかりはしない。私が、生きる意味という無色透明なものを、世界の中で探しても何も見つからない。結局は、生きることという無色透明なものに、私が色をつけ、形を持たせるない限り、意味は生まれないと思う。
  そして私自身には、その色や形は、私が生きている限り見えないと予想をしている。私が色を塗りつけている間は、そのキャンバスを眺めることはできないだろうし、私にはキャンバスを眺める視点と視力はない。この点で、自分の色と形を見ることが出来る人がいるとすれば羨ましくも思うが、私は自分自身ではそのことは信用していない。

  私は、生きること以上に生きる意味がないことを承知し、生きる。加えて言えば、私は、見聞きするものの意味を自身に訊ね、関心を持ち、それを楽しみ(苦しみ)に生きる。
  この意味では、私の生きる意味・目的は関心とも言えるが、関心は生物が生きることの最低条件であり、関心のない生物はいないとも思う。
  「生きる意味」に意味がないことを言いながら、私が生きることで、生きる意味を創出しつつ生きている。そしてその創出の姿も見ることはできない。私はこの今を意識することしかできない。
  ここから始めれば、生きる意味は、この今を意識することであるが、私は、今を意識し、生きる意味をかみ締めて生きたりはしない。
  時々に、今のように考えるだけだ。
  そして私には、生きる意味は、訊ねても経過は面白いが意味ある回答にならない。
  それでも時々訊ねる意味はあると思う。