日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

希望

2011-06-10 22:03:29 | 原発問題
  コンクリートと鉄できた巨大な箱が爆発し粉砕された。この箱からは文字通りに災厄が飛び出し、日本を、世界中を汚染した。そして、この残骸にも希望が残っていた。
  日本のIAEAへの報告に見られるように「地震は大丈夫、津波が悪い。」「津波対策すれば大丈夫。」 これが私に提示された希望である。

  福島原発の事故が想定外であったように、今回の事故を反省して対応したとしても、新しい想定外が生まれるだろう。目をつむりたいものからは逃避して、想定したものにお金をかけることが嫌気がすれば結局は想定しなかったことにする。原子力はコストと相対した安全を提供する。原子力は安全です。これが今回、箱に残った希望である。

  パンドラの箱の希望の意味は何を意味しているのだろう。希望には、無根拠、無反省であること、事実と期待の間には因果関係がないことが含意されているのであれば、希望とは更なるに災厄を生み出すための種、災厄を循環、継続するための罠となりうる。希望はもとより災厄の一つとして箱に封じ込められていたのではないだろうか。

  ドイツは、コンクリートと鉄の残骸に安全への無根拠を見つけだした。日本はこのコンクリートと鉄で作られた箱の残滓に安全を見つづけようとしている。福島原発と同じ規模、これ以上の事故がさらに起きたとき、日本は 貧しい国となるだろう。この時には更なる箱が連鎖的に開かれていくだろう。
 日本周辺土地と海は汚染され、多くの子供が命を失い、世界は日本のモラルと技術を信用しなくなるだろう、国債は売れず、日本はこれまでの借金を返すことに汲々とし、もはや復興への余力は残っていない。
  原発が1基でも破壊されれば、その破壊は土地、海、人へと伝播していく。今回の事故は災厄を世界中にまき散らしたが、想定される最悪の事故ではない。1基で核爆発が始まり、作業員も避難し、そうする内に次の1基で核爆発が起こるこのような事態も想定できた。そして今もこの可能性は、福島でも他の原発施設でもアクシデントがあれば起こりえるものと思う。
  箱の中には反省が残されていれば良かったと思う。この私の希望にも、もちろん根拠はない。


風評

2011-04-30 18:32:45 | 原発問題
  風評被害が今問題になっているが、風評被害の最大の犠牲者は福島周辺の子供だと思う。 
福島の学校での放射能汚染の基準については、やはり変更をしないということだ。風評被害は事実に反する理解による被害と考えるが、事実としては、確率的に子供が死ぬということだ。
  この確率は被曝する量に応じて上昇する。死について確率的な係数が、1ミリシーベルトと20ミリシーベルトだが、数量が多い方が、単純に多くの子供が死ぬということだ。誰が死ぬかは、決まっていないし、死んだ者は被曝の影響で死んだかどうかは分からない。
  これでは科学的な因果関係は立証しようがないので、死ぬ者にとっては、健康にただちに影響がないことは当然である。影響は確率的に子供の全体数に対して、数十年に渡って表れる。この影響も広域で観測しない限りは現れない。
  誰が死ぬか分からないことを理由に、また、死ぬ者が増えることは子供の全体数からみて影響がないことを理由に子供は係数を受け入れなければならない。
  福島の風評被害をいう場合には、真っ先に安全を検討すべきであるが、野菜の場合では基準値以下となったそれだけである。基準値以下よりも何もない方を選ぶに決まっている。この点で消費者は正しい選択をしていると思う。
  親の気持ちとして、子供の安全を考えるならば、基準値以下よりも何もない方を選択することが正しい。無農薬野菜を買う消費者は農薬についての風評被害を起こしているのだろうか。
  政府は学校での被曝量を20ミリシーベルトを相当程度に下回ることを予想しているが、その根拠の説明はない。文部科学省の積算を計算しても、呼吸による内部被曝と食物からの内部被曝については含まれていない。この点では、まさに子供は安全というプロパガンダによる風評被害者である。








ニュースピーク

2011-04-23 07:31:14 | 原発問題
  原発事故以来、安全が多く語られているが、この言葉の意味は逆転しつつある。安全を語ることは、危険を語ることである。健康を語ることは、疾病を語ることである。
  これまでに安全を語ってきた者は危険をもたらした。安全を語る者に疑問を持たない人は、自らに危険を受容することとなった。
  今、危難の際に安全の基準を変更し、これまで危険と考えてきた事象を安全の側に振り分ける。そこで、安全を宣言する。事象自体には変化がなく、受け止め手の考え方を変更しただけで安全となる。安全と危険の境界は確かに、受け止め手の考え方しだいである。危険という言葉は概念に過ぎない。ただそのままに事象がある。
  何故、今、安全を語るのだろうか。
  安全を語る目的を考える。社会には、一定の犠牲が必要である。これは、交通事故の死亡者と社会での利便との対比で語られるとおり。便利な社会を享受するには、確率的に死亡者が発生することを受容しなければならない。
  安全の基準を変更することは、便利な社会の維持に必要な一定の犠牲者数を変更することである。犠牲者は確率的に発生をするので、集団を構成する人員に必要な係数をかけることによって算出される。今、安全を語ることはこの係数をどの値でとるかを考えることである。
  便利な社会を享受している人、その中で係数の算定に指導的な役割を持つ者が、この係数を変更し、必要な犠牲者数を社会的に提供する。そしてその計算をする者は、自分はその母数の中には含まれないことを承知している。
  この母数の一員となるか否かは、ケースによっては自分で選択が可能である。これまで、安全を言葉の意味そのままに受け入れてきたがこれは失敗である。語られた安全について評価をしない者は、安全を語る者の目的に自身を差し出すこととなる。安全を語るものは説明をしない。これは安全を語る者の裏のメッセージである。私が提供する安全に満足できない者は自身で判断せよ。
 
愛の反対は無関心。私の子が学校で覚えてきた。
  今新しいスローガンを、安全の反対は無関心。安全は危険、真理は嘘







2011-04-17 22:50:17 | 原発問題
  今日、原発からの風が吹いている。ここ数日間、風の方向と放射性物質の状況を確認することが日課になった。
  私が住むところは、福島からは遠く離れている。それでも風の向きには注意をすることにしている。今のところ、これ以上の悪化はないようにも思えるが、最悪のケースの可能性もある。アメリカの評価は、今のところ変わらない。日本の発表よりも、アメリカの評価とドイツやイギリスの天気予報が役に立つ。
  どうしてこんなことになったのだろうかと思う。安全な原子力はどこへいったのだろうか。このことを訴えていたCMもめっきり見なくなった。CMに出演したタレントは今何を考えているのだろう。自身への信用を売り物にして原子力の信用をアピールしたのだが。タレントも原子力については、よく考えていなかったのだろう。
  多くの学者がテレビで解説をしているが、彼らは今までに何をなしてきたのだろう。本当に安全だと思ってきたのだろうか。だとすれば、バカに過ぎない。用意した答えは想定外だが、それでも責任はとらなくても良い。彼らは賢い、強いものになびいただけだろう。そして今テレビの前で説明をしている。それでも彼らに責任はない。
  東京電力の誰も責任はとらないだろう。最悪でも株主代表訴訟で個人資産を吐き出す人が数名でるだけだろう。
  今回の事故は、人道に対する罪と思うが、直接に起訴されるべき人は見出せないシステムが作られていることだろう。誰もが巧妙に責任を逃れていくことだろう。このことに責任を取れる人もいないことは、はっきりとしている。
  多くの責任は、現場で働く労働者に押し付けられるだろう。彼らが得るものは小さいだろう。彼らの健康管理は、これから国の責任で行うことが発表されたが、この記録も全てアメリカやフランスへと流れていくだろう。彼らは、初めての長期的被爆についての貴重な観察対象となるだろう。250ミリシーベルト以下で、直ちに健康に影響がないはずの直ちでない確率的影響を観察することができるのだろう。
  私は、この事故を観察しつづけているが、テレビで大きな声をしている人は言う必要がないことを言っているにすぎない。安全です。危険だから事故なのだろう。危険だから報道しているのだろう。危険を回避することを説明する人は、ネット上で個人的に発言しているに過ぎない。マスメディアとして、危険を報じることはとても少ないと感じる。危険であることを考えなかったが故にこのような状態になったにもかかわらず。
  反省のない人達は、また多くの事故を引き起こしていくことだろう。今避けることができる危機について、危険でなく安全を強調し続けることだろう。
  今、CMは普通に戻りつつある。誰も危険を感じることが少なくなりつつあるのだろう。ACのCMも役に立った。そして原子力発電のCMもいつかは戻ってくるだろう。そしていつかは原子力にも安心するのだろう。
 

















いつか冷たい雨が

2011-04-10 19:55:15 | 原発問題
  明日から子の新学期が始まる。いつもなら桜が咲きのどかな季節と思うところだが、今年はそれだけではない。この天気もいつまで続くのだろうかと思う。
 いつか冷たい雨が降るのではないだろうか、、、、、
 福島県の校庭での被爆線量を年20ミリシーベルトまでとすることで文部科学省が方針を固めたという報道があった。さらに悲観的にならざるを得ない。
 この20ミリの基準についても、内部被爆が加味されているのだろうか。子供であれば、校庭で遊び、運動をすれば粉塵を巻き上げる。運動をすれば通常以上に呼吸も増える余計に粉塵を吸い込むことになるだろう。直ちに健康に影響のない校庭で、運動会で家族そろってお弁当を食べる姿は、想像したくない光景だ。
 何故、これまで成人で1年1ミリ限度が、いきなり子供で20ミリまでOKとなるのだろう。子供の放射能への感受性が高いことは、既に指摘されていることだ。白血病の増加が起こることは予想されないのだろうか。  
 福島の子供達は、文部科学省の方針があれば、直ちに成人の20倍の被爆の耐性を持つことができるのだろうか。
 20ミリを限度とするということは、毎日、子供の被爆量を測定し、はい今日で、ちょうど20ミリシーベルトになりました。今日から避難を始めます。と子供達に言うのだろうか。何故、初めから避難しないのだろう。一年経てば、被爆量がチャラになると考えているのだろうか。
 この20ミリの基準があれば、自分の仕事が楽になる人は出てくるだろう。自分が責任を負わなくてよくなる人が出てくるのだろう。しかし、20ミリの基準の結果責任は誰が負うのだろう。
 原発事故の責任は、結局誰もとらないだろう。年20ミリを限度に被爆する子供達への責任について誰が責任をとるのだろうか。
 子供達への結果は、親が信じるものこれに左右される。今何を信じるのか考えよう。