思考は、常に過去に過ぎ行くものであり現在にはない。
現在が長さを持たない点だとすると、思考は常に過去のものになる。自分が意識しているのは、現在の点でなく、現在から見ると、少しだが前、過去になる。
また、言葉は、過去からの歴史的遺物であり、現在使っているとしても、それは既に、過去の考え、概念がそのままにそこにある。現在に考えていると思うことは、その実、過去の概念に基づいて考えている。
今、考えていることは、過去の反映であり、その考える内容は過去について、又は過去を投影した未来についてであり、思考を超える実体がそこ、思考にあるわけではない。
思考は、本質的に過去のものであり、今ではない。
人は、本質的に過去を基に生きているのだろう。
時間は、感覚的には出来事の連続して捉えられるが、出来事は原因と結果に基づいた理解、文節であり、それは、因果という考え方に依存している。
因果の連続が出来事であり、出来事の連続が因果である。その出来事も、因果の観点から、原因と結果にわけられ、その原因は、また原因と結果に分割することができる。
時間は、出来事の連続、出来事間の因果関係に基づく理解、思考だ。
逆の言い方をすれば、思考こそが、時間をもたらしている。
現在は、人により捉えることはできない。
人に出会い、その人の名を思い出す。そこにあるのはその名に付随したイメージ、その人の現在と出会うことはない。初めて会う人であっても、常に、過去の体験からその人についてのイメージを作る。
過去の体験から、未来への不安を感じ、現在を生きる。その生きている今は、一瞬のうちに過去、その一瞬についても過去についての記憶や未来への不安でしかない。
人が、今、この瞬間を捉えることは難しい。人は、今を生きているのだが、その今は過去に基づき、過去を投影しているから。
偏見なく、イメージなくものを見ることは、私にはおそらくできないだろう。ものを見る時に、花を花としてみるのでなく、その姿をそのままにみることなどできるだろうか。
過去をひきずることなく、また未来を恐れずに生きる。過去や未来は思考の本質のように思うが、その時に私は自分がしていることに気づくことができるだろうか。