主語と述語について、日本語での文法は、あまり主語、述語関係に関しては習わない。品詞分解は学校で習い、どれが名詞で、形容詞で、副詞がどれということはやる。
日本語では、主語は省略されることが多い、また述語というものにはあまり注目しない。
主語について語られているのが述語であるのだが、日本人は主語を明確にせず、責任をぼかすことに慣れているので、述語という考え方に違和感があるのかもしれない。このことが、雰囲気、空気を読めということに繋がっているのかと思う。
西洋の哲学では、主に分析哲学だが述語というものに注目することが多い。
人間とは何か。人生とは何か。これらを説明するものが述語になる。主語の概念を説明するとそれが述語になる。述語と主語は一体のものだ。主語の概念の中に述語があると言っていい。
述語と主語が一致する場合、それは命題として真になる。人間は生物であり哺乳類である。そして、理性的動物であるとか、何かを説明するものが述語であり、それが主語に一致する場合に述語は真となる。
AはBである。BはAである。A=Bとなる。人生は儚いものである。儚いものは人生である。この場合、人生=儚いものというのが、論理学での命題論理になるが、その命題論理の基底をなすのが、主語、述語の関係になる。
世界は事実の総体とウィトゲンシュタインは言っているのだが、事実とは成立する命題のことであり、命題は主語と述語の関係にある。となれば、世界を構成しているのは主語と述語とも言える。主語や述語のうち、世界で成立しているものはなんであろうか。
三角形は実在するのだろうか。色は、例えば赤色は、お金は実在するのか。三角形や、お金は主語になりえるが、これを説明するには、別の言葉が必要になる。三角形であれば同一直線上にない3点を結んだ線だろうか。このような主語についての説明が、三角形についての述語になるのだが、この述語で提示される対象というものは世界に実在するのだろうか。また、違う言葉、概念を使用して説明しても、いつかは元の語に帰ってくる。このことは辞書を引けばすぐに分かる。基礎的な概念は循環せざるを得ない。愛する→好きなこと 好き→愛すること。こんな感じか。
主語や、述語は世界を構成しているのだが、その語は循環する構造にある。語が語を説明し、その語を語が説明をする。この意味で、述語は何かの主語になりえる語を用いていることになる。この延々の循環が世界を構成しているのであり、人生は何かとか、人間とは何かと言っても、循環構造に陥るだけだろう。この時、循環であれ、議論を構成する中でその時々に意味が構築、練られていくのだろうと思う。
私は、私という主語である。これは私の人生という物語があれば、その物語が私に相当する述語にあたるわけだ。私と言えば簡単だが、私の概念の中には、私の物語そのものが存在しているわけだ。
私という主語、一つの世界は、私の物語という述語により成立している。これが実在するのかというと、また考慮が必要になるが。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます