長年、数々の選挙に携わり、「選挙の神様」と呼ばれた選挙プランナーの藤川晋之助(ふじかわ・しんのすけ、本名・藤川基之)さんが11日未明、東京都内の病院で逝去した。71歳。2月中旬までセミナーに出席するなど普段と変わらない様子をみせていたが、その後、入院していたという。
藤川さんは1953年(昭28)10月31日生まれ。国会議員秘書や政党の事務局長などを歴任。大阪市議も務めた。2023年には「藤川選挙戦略研究所」を創設し、昨年7月の東京都知事選では、石丸伸二・前広島県安芸高田市長の選挙を手掛け、3選された小池百合子都知事に次ぐ次点の約165万票を集めた石丸氏の大躍進を支えた。
藤川氏は今年2月、今年7月の参院選に向けて、タレントのデヴィ夫人(85)らが設立した新党「12(ワンニャン)平和党」の設立会見に出席し、選挙対策委員長を務めることを明かしていた。
同党は日本初の犬猫の保護に特化した国政政党を目指すもので、藤川氏は会見で、参院選の比例代表と都市部の選挙区に30人規模を擁立する考えを示し、「最低2~3議席。できれば5議席を取りたい」と、意気込んでいた。
今年4月ごろには第1次公認候補を発表する考えを示していたが、参院選の結果を見届けることができないまま、この世を去った。
国会中継| #衆議院 #総務委員会 〖チャットで語ろう!』3月11日(火)
【緊急ライブ】ウクライナの軍事演習に日本の自衛隊が参加していた?!(原口一博×石田和靖)
防衛省は11日、陸海空3自衛隊を一元的に指揮する「統合作戦司令部」の初代司令官に南雲憲一郎氏、副司令官に俵千城氏を充てる人事を発表した。24日付。
【統合作戦司令官】
南雲 憲一郎氏(なぐも・けんいちろう)防衛大卒。89年航空自衛隊。西部航空方面隊司令官を経て23年3月から統合幕僚副長。59歳。山形県出身。
【統合作戦副司令官】
俵 千城氏(たわら・たてき)防衛大卒。89年海上自衛隊。潜水艦隊司令官を経て23年8月から佐世保地方総監。58歳。島根県出身。
【陸上総隊司令官】
小林 弘樹氏(こばやし・ひろき)防衛大卒。90年陸上自衛隊。陸上幕僚副長を経て24年3月から中部方面総監。58歳。静岡県出身。
【北部方面総監】
井土川 一友氏(いどがわ・かずとも)防衛大卒。91年陸上自衛隊。第15旅団長を経て23年3月から第2師団長。56歳。宮崎県出身。
【中部方面総監】
遠藤 充氏(えんどう・まこと)防衛大卒。91年陸上自衛隊。第7師団長を経て24年3月から防衛大学校副校長。56歳。山形県出身。
2万2千人以上が亡くなった戦後最悪の自然災害、東日本大震災は11日、発生から14年となり岩手、宮城、福島3県では早朝から人々が犠牲者を悼んだ。東京電力福島第1原発事故などで今も約2万8千人が避難し、原発周辺には自由に立ち入れない土地が残る。
「生かされた身だから、これからも震災と向き合っていく」。町職員ら43人が犠牲になった宮城県南三陸町の旧防災対策庁舎で一命を取り留めた職員及川明人さん(62)は現地を訪れ献花。亡き同僚らに「慰霊碑が役場敷地内に建った」と伝えた。
第1原発が立地する福島県大熊町では、避難先で亡くなった住民の名を刻んだ石碑が2月に完成。建立した地元区長が訪れる。
岩手県大船渡市は14年前の津波に続き、2月26日発生の山林火災で大きな被害に遭った。家を失った人たちが避難所暮らしを強いられている。
津波で浸水しながら重大事故を免れた東北電力女川原発(宮城県女川町、石巻市)2号機は昨年秋、被災地で初めて再稼働。11日も発電した。
2011年3月、東日本は壊滅の縁に立たされました。
福島第1原発事故の発生から2週間後の25日、原子力委員会の近藤駿介委員長(当時)は首相官邸の求めに応じて作成した「福島第一原子力発電所の不測事態シナリオの素描」と題する十数枚のリポートを提出しています。いわゆる「最悪のシナリオ」です。その内容は-。
1号機の水素爆発に始まる放射性物質の飛散によって、作業員が総員退避を余儀なくされ、注水冷却ができなくなって、2号機、3号機のメルトダウン(炉心溶融)が進行。定期点検のため1535体の核燃料を収納していた4号機の燃料プールが干上がって、大量の放射性物質をまき散らす。それは、広範囲に降り注いで、原発から半径170キロ圏内の住民は強制移住させなければならない事態になる。その後、放射能の影響が自然のレベルに戻るまでには、数十年を要し…。
もし、それが現実となり、北は盛岡市から南は横浜市、西は新潟県上越市に至るまで、首都圏を含む5千万人の大移動が始まれば、空前の大パニックになっていたのは火を見るよりも明らかです。
実際には「最悪のシナリオ」は免れました。でもそれは作業員らの決死の踏ん張りに加え、いくつかの僥倖(ぎょうこう)、神懸かり的幸運が重なったからだとも言えるでしょう。
現実に2号機は一時、炉内の圧力を低下させるためのベント(排気)も注水もできず制御不能に陥りました。現場で指揮を執った吉田昌郎(まさお)所長(故人)は政府事故調査・検証委員会の聴取に対し「(その時の)われわれのイメージは、東日本壊滅ですよ」と率直に語っています。
「最悪のシナリオ」は本当に紙一重で回避された-。それが現場の偽らざる実感だったのです。
3年後の14年、国は、この過酷事故の恐怖と反省、そして「2030年時点での原発依存度ゼロ」を5割近くが支持した世論調査の結果などを踏まえ、エネルギー政策の骨格となる「第4次エネルギー基本計画」を策定します。
前文のこの一節には「フクシマの教訓」が凝縮されていたと言ってもいいでしょう。「震災前に描いてきたエネルギー戦略は白紙から見直し、原発依存度を可能な限り低減する。ここが、エネルギー政策を再構築するための出発点であることは言を俟(ま)たない」
◆「脱原発依存」の消去
ところが、その誓いが吹き飛びました。先月閣議決定された第7次基本計画で、18年の第5次、21年の第6次と受け継がれてきた「原発依存度を可能な限り低減する」の文言が削除されたのです。それどころか、安全確保を大前提に原発を「最大限活用」するというのですから百八十度の大転換。脱炭素の要請やロシアのウクライナ侵攻に伴うエネルギー安全保障などを名目に、あらためて「原発回帰」の狼煙(のろし)を上げた形です。
国中を恐怖に陥れた、あの過酷事故の教訓がたった十数年で反故(ほご)にされる…。そのあまりの「軽さ」には暗澹(あんたん)となります。
「安全を最優先に…」。福島の事故後に停止した原発を再稼働させるたびに、政府も電力事業者も決まり文句のように繰り返しますが、安全を保証するわけではないし、できるはずもありません。この災害大国・日本で、地震や津波など自然の脅威がどれほど「想定外」の被害をもたらすか、私たちは骨身に染みて知っています。
核燃料プール一つとっても、安心には程遠い。福島事故の際、米国が、半径50マイル(約80キロ)圏内の自国民に避難指示を出すきっかけになったのも、4号機の核燃料プールに保管中の核燃料がメルトダウンし、放射性物質が大量放出されることを恐れたからでした。
そのプールが、全国17カ所の原発などにあって、そこには計約2万トン近くの使用済み核燃料が、安全な最終処分先が決まらぬままに「一時保管」されているのです。脅威は地震や津波だけではありません。格納容器に守られた原子炉本体よりも防護は弱く、テロや落下物に対する備えも十分とは言えません。
◆過去に目を閉ざす者
フクシマの教訓を棚に上げ「安全神話」が復活すれば、「最悪のシナリオ」の恐怖もまた、復活します。「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」。統一ドイツの初代大統領ワイツゼッカー氏の金言をいま一度かみしめたい。過去の教訓を顧みなくなった時、人は過ちを繰り返します。