<<東條英樹と反目した奇才の生涯>>
戦争責任が無いとは、言えないと思うが(^^
ちょっと興味があったので、近所にオープンした古本屋で購入。
連休の合間に、引っ張ってきて読んでみるかな(^^
(笑い
石原 莞爾(いしわら かんじ、1889年1月18日 (戸籍の上では17日)- 1949年8月15日)は、昭和の大日本帝国陸軍軍人。第16師団長、舞鶴要塞司令官、関東軍参謀副長兼駐満武官などを歴任し、階級は陸軍中将勲一等功三級に至る。
山形県鶴岡市に旧庄内藩士、飯能警察署長の石原啓介とカネイの次男として生まれる。南部氏に認められその援助を得て陸軍大学校を第二位の成績で卒業、ドイツへ留学(南部氏ドイツ別邸宿泊)する。若い頃から、ナポレオンやフリードリヒ大王らの伝記を読みあさった。また、日蓮宗系の新宗教国柱会の熱心な信者として知られる。1923年、国柱会が政治団体の立憲養正会を設立すると、国柱会の田中智学は政権獲得の大決心があってのことだろうから、「(田中)大先生ノ御言葉ガ、間違イナクンバ(法華の教えによる国立戒壇建立と政権獲得の)時ハ来レル也」と日記に書き残している。
陸大創設以来かつてない頭脳の持ち主と言われ、関東軍作戦主任参謀に就任し、1931年に板垣征四郎らと満州事変を実行した。満州事変をきっかけに行った満州国の建国では「王道楽土」、「五族協和」をスローガンとし、満蒙領有論を唱えるも、途中から満蒙独立論へ転向していく。石原が目指した満州国は「東洋のアメリカ」だったといわれる。1937年の日中戦争開始時には参謀本部作戦部長。戦線が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱え、東条英機ら陸軍中枢と対立した。
大東亜戦争前に東条英機との確執から予備役に回される。『世界最終戦論』(後、[最終戦争論]と改題)を唱え東亜連盟構想を提案し、戦後の右翼思想にも影響を与える。熱心な日蓮主義者でもあり、最終戦論では戦争を正法流布の戦争ととらえていた事は余り知られていない。
東条との対立が有利に働き、極東軍事裁判においては戦犯の指名から外れ、戦後は東亜連盟を指導しながらマッカーサーやトルーマンら批判。日本国憲法第9条を武器とし、最終戦争なしに世界が一つとなるべきだと主張した。
東亜連盟は日本人のみならず、中国人や朝鮮人からも多くの支持者がおり、東亜連盟等を通じて石原莞爾に師事したものに大山倍達(極真会館の創設者)、武田邦太郎(農政と平和研究所所長、参議院議員)、橘撲(ジャーナリスト・中国研究家、中国社会研究の先駆者)、曹寧柱(在日本大韓民国民団会長、剛柔流空手道師範)、木村武雄(政治家、建設大臣)、小澤開作(歯科医師、指揮者小澤征爾の父)、辻政信(陸軍参謀、参議院議員)等がいる。
元衆議院議員の加藤精三、元防衛庁長官で加藤の乱首謀者の加藤紘一は親戚にあたる
戦争責任が無いとは、言えないと思うが(^^
ちょっと興味があったので、近所にオープンした古本屋で購入。
連休の合間に、引っ張ってきて読んでみるかな(^^
(笑い
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石原 莞爾(いしわら かんじ、1889年1月18日 (戸籍の上では17日)- 1949年8月15日)は、昭和の大日本帝国陸軍軍人。第16師団長、舞鶴要塞司令官、関東軍参謀副長兼駐満武官などを歴任し、階級は陸軍中将勲一等功三級に至る。
山形県鶴岡市に旧庄内藩士、飯能警察署長の石原啓介とカネイの次男として生まれる。南部氏に認められその援助を得て陸軍大学校を第二位の成績で卒業、ドイツへ留学(南部氏ドイツ別邸宿泊)する。若い頃から、ナポレオンやフリードリヒ大王らの伝記を読みあさった。また、日蓮宗系の新宗教国柱会の熱心な信者として知られる。1923年、国柱会が政治団体の立憲養正会を設立すると、国柱会の田中智学は政権獲得の大決心があってのことだろうから、「(田中)大先生ノ御言葉ガ、間違イナクンバ(法華の教えによる国立戒壇建立と政権獲得の)時ハ来レル也」と日記に書き残している。
陸大創設以来かつてない頭脳の持ち主と言われ、関東軍作戦主任参謀に就任し、1931年に板垣征四郎らと満州事変を実行した。満州事変をきっかけに行った満州国の建国では「王道楽土」、「五族協和」をスローガンとし、満蒙領有論を唱えるも、途中から満蒙独立論へ転向していく。石原が目指した満州国は「東洋のアメリカ」だったといわれる。1937年の日中戦争開始時には参謀本部作戦部長。戦線が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱え、東条英機ら陸軍中枢と対立した。
大東亜戦争前に東条英機との確執から予備役に回される。『世界最終戦論』(後、[最終戦争論]と改題)を唱え東亜連盟構想を提案し、戦後の右翼思想にも影響を与える。熱心な日蓮主義者でもあり、最終戦論では戦争を正法流布の戦争ととらえていた事は余り知られていない。
東条との対立が有利に働き、極東軍事裁判においては戦犯の指名から外れ、戦後は東亜連盟を指導しながらマッカーサーやトルーマンら批判。日本国憲法第9条を武器とし、最終戦争なしに世界が一つとなるべきだと主張した。
東亜連盟は日本人のみならず、中国人や朝鮮人からも多くの支持者がおり、東亜連盟等を通じて石原莞爾に師事したものに大山倍達(極真会館の創設者)、武田邦太郎(農政と平和研究所所長、参議院議員)、橘撲(ジャーナリスト・中国研究家、中国社会研究の先駆者)、曹寧柱(在日本大韓民国民団会長、剛柔流空手道師範)、木村武雄(政治家、建設大臣)、小澤開作(歯科医師、指揮者小澤征爾の父)、辻政信(陸軍参謀、参議院議員)等がいる。
元衆議院議員の加藤精三、元防衛庁長官で加藤の乱首謀者の加藤紘一は親戚にあたる