昭和天皇とその時代第一巻 企画・製作:日本記録映画社
💗419 ・津吹みゆさん・望郷さんさ・2018 フルコーラス
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広島平和記念式典~被爆75年 未来へ~(RCC中国放送制作)
語り継ぐ 母の分まで 原爆語り部の森さん
2020/08/06 11:09産経新聞
語り継ぐ 母の分まで 原爆語り部の森さん
大阪府遺族代表として平和記念式典に参列した森容香さん=6日午前、広島市中区(須谷友郁撮影)
(産経新聞)
長らく、被爆者であることを秘めて生きてきた。75年がたった今、ようやく語れるようになったのは、体験を口にすることなくこの世を去った母ら多くの被爆者の姿に背中を押されたからだ。
「今、原爆の語り部として頑張っているよ。もっと早くにお母さんの話を聞いておけばよかったな。子や孫たちに私たちのような目を絶対にあわせないようにしないといけないね」
6日朝、大阪府遺族代表として平和記念式典に参列した森容香(ようこ)さん(80)=同府枚方市=は、母、立浪ハツエさんの面影をしのび原爆死没者慰霊碑に向かって黙祷(もくとう)をささげた。
5歳だった75年前、爆心地から1・8キロの広島市西区楠木町の自宅で、ハツエさんと4人のきょうだいとともに被爆した。
突然、閃光(せんこう)に包まれ家の下敷きに。がれきの中を必死にはい出ると、目の前には変わり果てた街があった。「水、水」とうめく声、ぼろぼろの服とただれた皮膚をぶら下げながらさまよう人々−。地面に転がる遺体をまたぎ、泣きながらはだしで逃げ惑った。
幸い、家族は無事だったが、待ち受けていたのは極貧生活だった。県北の親類宅に避難するも、出征していた父は戦後しばらく帰らなかった。その後、川沿いにバラック小屋を建てて移り住み、わずかなコメを分けてもらうため、ハツエさんは朝から晩まで農作業の手伝いをした。夏は蛍を瓶に集めて明かりにし、川の水を飲んで暮らした。小学校では同級生らに「ピカドン」と呼ばれ、いじめられた。
森さんは生活費を稼ぐため、中学卒業と同時に大阪の企業に就職した。だが、大阪でも被爆者と知った男性から「結婚の対象外やな」との言葉を投げつけられた。「被爆者と言わない方がいい」と繰り返したハツエさんとの約束を守り、決して体験は語るまいと心に決めた。結婚相手には被爆の事実を隠し、子供にも黙っていた。
ハツエさんも大阪に転居していたが、原因不明の体調不良で入退院を繰り返し、昭和35年ごろ、甲状腺機能低下症による原爆症と認定を受けた。「こんなつらい目は二度とあってはならない」と病床で語り、平成元年に77歳で亡くなった。
森さんも同じ病に苦しみ、人生を狂わせた原爆を憎み続けた。一方で5年前、所属する枚方市原爆被害者の会から、会長就任と語り部活動への参加を打診された。戸惑ったが、高齢の被爆者らが次々と亡くなり、語り部の先輩たちが認知症で話せなくなっていくさまを、そばで見てきた。「このままでいいのだろうか」。焦燥感が背中を押した。
小学校などで語り部活動を始めたが、当時の体験を思い出すと、今でも涙がこみ上げる。だが、「森さんの話をこれから私たちが語り継いでいく」との子供たちの感想文は宝物になった。地元の被爆者らへの語り部参加の呼びかけも始め、仏壇の母に活動を報告してきた。それが今年はコロナ禍で中断を余儀なくされたこともあり、もっと早く話していればとの後悔の念が森さんを駆り立てる。
「生き残った者が語らなければ被爆の実相は伝わらない。口、手足が動く限り、母や、語ることができなかった被爆者の分も後世に体験をつないでいきたい。それが私の最後のつとめだと思っています」(有年由貴子)
語り継ぐ 母の分まで 原爆語り部の森さん
2020/08/06 11:09産経新聞
語り継ぐ 母の分まで 原爆語り部の森さん
大阪府遺族代表として平和記念式典に参列した森容香さん=6日午前、広島市中区(須谷友郁撮影)
(産経新聞)
長らく、被爆者であることを秘めて生きてきた。75年がたった今、ようやく語れるようになったのは、体験を口にすることなくこの世を去った母ら多くの被爆者の姿に背中を押されたからだ。
「今、原爆の語り部として頑張っているよ。もっと早くにお母さんの話を聞いておけばよかったな。子や孫たちに私たちのような目を絶対にあわせないようにしないといけないね」
6日朝、大阪府遺族代表として平和記念式典に参列した森容香(ようこ)さん(80)=同府枚方市=は、母、立浪ハツエさんの面影をしのび原爆死没者慰霊碑に向かって黙祷(もくとう)をささげた。
5歳だった75年前、爆心地から1・8キロの広島市西区楠木町の自宅で、ハツエさんと4人のきょうだいとともに被爆した。
突然、閃光(せんこう)に包まれ家の下敷きに。がれきの中を必死にはい出ると、目の前には変わり果てた街があった。「水、水」とうめく声、ぼろぼろの服とただれた皮膚をぶら下げながらさまよう人々−。地面に転がる遺体をまたぎ、泣きながらはだしで逃げ惑った。
幸い、家族は無事だったが、待ち受けていたのは極貧生活だった。県北の親類宅に避難するも、出征していた父は戦後しばらく帰らなかった。その後、川沿いにバラック小屋を建てて移り住み、わずかなコメを分けてもらうため、ハツエさんは朝から晩まで農作業の手伝いをした。夏は蛍を瓶に集めて明かりにし、川の水を飲んで暮らした。小学校では同級生らに「ピカドン」と呼ばれ、いじめられた。
森さんは生活費を稼ぐため、中学卒業と同時に大阪の企業に就職した。だが、大阪でも被爆者と知った男性から「結婚の対象外やな」との言葉を投げつけられた。「被爆者と言わない方がいい」と繰り返したハツエさんとの約束を守り、決して体験は語るまいと心に決めた。結婚相手には被爆の事実を隠し、子供にも黙っていた。
ハツエさんも大阪に転居していたが、原因不明の体調不良で入退院を繰り返し、昭和35年ごろ、甲状腺機能低下症による原爆症と認定を受けた。「こんなつらい目は二度とあってはならない」と病床で語り、平成元年に77歳で亡くなった。
森さんも同じ病に苦しみ、人生を狂わせた原爆を憎み続けた。一方で5年前、所属する枚方市原爆被害者の会から、会長就任と語り部活動への参加を打診された。戸惑ったが、高齢の被爆者らが次々と亡くなり、語り部の先輩たちが認知症で話せなくなっていくさまを、そばで見てきた。「このままでいいのだろうか」。焦燥感が背中を押した。
小学校などで語り部活動を始めたが、当時の体験を思い出すと、今でも涙がこみ上げる。だが、「森さんの話をこれから私たちが語り継いでいく」との子供たちの感想文は宝物になった。地元の被爆者らへの語り部参加の呼びかけも始め、仏壇の母に活動を報告してきた。それが今年はコロナ禍で中断を余儀なくされたこともあり、もっと早く話していればとの後悔の念が森さんを駆り立てる。
「生き残った者が語らなければ被爆の実相は伝わらない。口、手足が動く限り、母や、語ることができなかった被爆者の分も後世に体験をつないでいきたい。それが私の最後のつとめだと思っています」(有年由貴子)