飛騨の山猿マーベリック新聞

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◆日曜版新年合併号 新春対談 核兵器も戦争もなくそう 祝 ノーベル平和賞 日本被団協受賞 日本被団協代表委員 田中熙巳さん 日本共産党委員長 田村智子さん&石破内閣閣僚の政治資金パーティー

2025年01月01日 15時08分06秒 | ●YAMACHANの雑記帳

赤旗電子版紙面

日曜版新年合併号 新春対談 核兵器も戦争もなくそう

祝 ノーベル平和賞 日本被団協受賞

日本被団協代表委員 田中熙巳さん

日本共産党委員長 田村智子さん

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 ことし、2025年は戦後・被爆80年です。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)は昨年、被爆の実相を世界に広げ、核兵器禁止条約へのうねりをつくり出してきた活動が認められてノーベル平和賞を受賞しました。「入党のきっかけは核廃絶運動だった」という日本共産党の田村智子委員長と日本被団協代表委員の田中熙巳(てるみ)さんが、草の根の運動で、平和・核廃絶の大きなうねりをつくろうと語り合いました。


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(写真)ノーベル平和賞の授賞式に登壇した日本被団協の代表委員の(左から)田中熙巳、田中重光、箕牧智之の各氏=2024年12月10日、オスロ(加來恵子記者撮影)

 田村 ノーベル平和賞の受賞おめでとうございます。授賞式(12月10日)での田中さんの演説には本当に心を動かされました。

 田中 ありがとうございます。被爆者全員でいただいた賞だと思っています。スピーチには私自身の被爆体験を含めて被爆者運動の歴史を知ってほしいと思いを込めました。

 田村 核戦争の恐怖が世界をおおう国際情勢のもとでの被団協の受賞は、世界の人々に大きな希望となったと思います。

 田中 人類と核は共存できません。「核兵器は使用されてはならない」という「核タブー」で終わらせず、核兵器をなくし、戦争もない社会を目指したいです。

 田村 私が日本共産党に入党した原点も、地球上から全ての核兵器をなくしたいという思いからでした。被爆者の皆さんとともに、核兵器禁止条約の誕生(2017年)を国連の場で喜びあった政党として、被爆80年のことし、日本政府に核兵器禁止条約への参加を強く求めていきたい。参加しないというなら、私たちの手で禁止条約に参加する政府をつくる、そういう希望ある政治の流れをつくっていきたいです。

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高校の時に原爆資料館訪れ 悲惨さに動けなくなった。署名運動で絶望が希望に

日本共産党委員長 田村智子さん

たむら・ともこ=1965年7月、長野県小諸市生まれ。早稲田大学卒。国政選挙6度目の挑戦で2010年に初当選、参院議員3期。24年1月から日本共産党委員長。同年11月衆院議員初当選

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受賞スピーチは被爆者を打ち捨ててきた政府への「たたかいのメッセージ」です

日本被団協代表委員 田中熙巳さん

たなか・てるみ=1932年4月、中国東北部(旧満州)生まれ。13歳の時に長崎市で被爆。東京理科大学卒。元東北大工学部助教授。被団協事務局長を計20年務める。2017年から代表委員

 田村 ノーベル平和賞授賞式のスピーチを胸を熱くして聞きました。どういう思いで臨まれたのでしょうか。

 田中 被団協の運動、被爆者の草の根の運動の歴史を参列している各国の方々に知ってもらうことを大事にしました。20分の原稿を作るのに2~3週間かかりました。

機内アナウンス うれしい驚き

 田村 世界の人たちも心を動かされたと思います。帰国の飛行機で驚くようなアナウンスがあったと聞きました。

 田中 びっくりしました(笑い)。飛行機に乗るときに機長から謝辞が述べられました。機内では「生涯をかけて行ってきた貴重な活動に深く感謝し、核兵器も戦争もない平和な世界が一日も早く訪れるよう、心から祈ります」とアナウンスがあり、みなさんの温かい拍手に包まれました。

 田村 今回の受賞理由は、核兵器の非人道性を訴え、核兵器を二度と使わせてはならないという世論を国際的に築き、戦後約80年間、戦争で核兵器を使わせてこなかったというものです。今日の国際情勢のもと、この意義はとても重いですね。

 田中 ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザの爆撃が行われています。両国の為政者が核兵器を使う可能性に触れ、核兵器の使用判断の敷居が低くなっていると思います。ノーベル委員会も危機をひしひしと感じ、それが今回の受賞につながったと思います。

 田村 ノーベル委員会のフリードネス委員長が、授賞式で核兵器の使用を許さない世論を私たち皆で強めていこう、「私たちの生存は、それにかかっている」と呼びかけた。危機感とともに核兵器使用を絶対に許してはならないという決意を感じました。核使用を許さない唯一の保障は核兵器をなくすことです。

心を閉じ遺体の間を無言で歩いた

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(写真)原爆投下で焼け落ちた浦上天主堂=長崎市、撮影日時不明(長崎原爆資料館所蔵、米戦略爆撃調査団「USSBS」撮影)

 田村 核兵器の非人道性について、私は特に、核兵器は“人が人として死ぬことさえ許さなかった”ということに衝撃を受けました。高校の修学旅行で広島平和記念資料館を訪ねた時、ものすごい熱線で周りの物と溶け合った人の骨が展示されていて、しばらく動けなくなりました。「どれだけ悲惨に殺されたのか」と。

 田中 私が授賞式で訴えた「たとえ戦争といえどもこんな殺し方、傷つけ方をしてはいけないと強く感じました」の部分と重なります。私は感性に訴える展示や証言を続ければ、話を聞いた人は質的に変わると思っています。田村さんはそういう場面に遭遇されたんだと思います。

感性揺さぶられ

 田村 まさに感性が揺り動かされた瞬間でした。田中さんは当時の被爆体験を思い出すと声が出なくなることがあると聞きました。

 田中 私自身は、長崎の爆心地から3・2キロメートルの自宅で被爆しました。奇跡的に無傷で助かりました。惨状を見たのは、原爆投下から3日後です。親族らが住んでいた爆心地帯を捜し歩きました。レンガづくりの大きな教会・浦上天主堂は崩れ落ち、みるかげもありませんでした。遺体が放置され、大やけどを負いながらもなお生きているのに、何の救援もない多くの人びと…。私は人間らしい心も閉じ、ひたすら無言で歩きました。伯母といとこは炭のようになって自宅跡に転がっていました。もう一人の伯母の遺体の火葬後、人の形をした骨だけが残り、骨を拾い終わった途端、閉じていた心が破れて爆発し、うわーっと泣き崩れました。この話をする際には突然、そのときの情景がぱっと頭に浮かぶときがあるんです。しばらくは声が出ず、立っているのもつらい。以前原水爆禁止世界大会のスピーチでそれが起き、しばらく黙ってしまったことがあります。聞いていた人の席がシーンとなりました。「すごく心に響きました」と言われました。

 田村 沈黙が聞く人の心に突き刺さったのですね。私は街頭演説で、被爆者の「命がけの訴え」にこたえ、核兵器のない世界をつくろうと呼びかけています。田中さんのように身内を捜した経験を被爆者の方が証言された時、「はじめは遺体を踏まないようにと歩いていた。けれどあまりにたくさんの遺体があり、そのうち心がなくなり踏んでも平気になっていた」とお聞きしました。

 田中 そうです。私は亡くなった人を見るだけでそうなっていた。

 田村 その方は「あのときの自分は人間ではなかった。踏んでしまった人たちに本当に申し訳ない」と話してくれました。被爆の証言は、閉じようとしている傷のかさぶたを何度も何度も自らはがすという、まさに「命がけの訴え」なのだと受け止めています。

日本政府は償いを一切していない

 田村 戦後もしばらく被爆者は沈黙を強いられたんですね。

 田中 そうです。アメリカは原爆の被害を隠し、独立後の日本政府も追随しました。1954年のアメリカによる太平洋ビキニ環礁での水爆実験による被災を機に始まった運動が盛り上がり、原水爆禁止世界大会が開かれ、この運動に励まされて被団協が結成(56年)されました。結成宣言で「自らを救うとともに、私たちの体験を通して人類の危機を救おう」と決意をのべ「核兵器の廃絶と原爆被害に対する国の補償」を求めて立ち上がりました。運動してきた経緯を、ノーベル賞授賞式のスピーチでも語りました。

 田村 私が最も感動したのが、現在進行形の「たたかいのスピーチ」だということでした。

 田中 そうです。被爆者を打ち捨ててきた政治に対する「たたかいのメッセージ」です。スピーチでは、「何十万人という死者に対する補償は一切なく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けてきた」と発言しました。その直後、原稿にはありませんでしたが、「もう一度繰り返します。原爆で亡くなった死者に対する償いは、日本政府は全くしていない」と加えました。このことを強調したくて、とっさに繰り返しました。スピーチ後、海外の記者から「どうして強調したのか」と声をかけられました。戦争を起こした国が国民の被害に補償をしないことが許されていると、これからも戦争が簡単に繰り返されるとの思いが頭にあったからです。

 田村 とても注目された発言でしたね。戦後直後、被爆者を打ち捨てた日本政府の姿勢は国内でもほとんど知られていないと思います。私も日本共産党に入ってから、被爆の実態をも知らせることが許されず、被爆者が何の支援もなく放置されていたことを知り、怒りに震えました。田中さんはどんな思いで運動に関わるようになったんですか。

 田中 私は中学1年生(13歳)で被爆し、祖父や伯父など5人の親族を圧焼死、大やけど、放射能などで失いました。戦後は死亡軍人(父親)の遺族扶助料が出なくなり、貧乏で、何日も固形物を食べられないことがしばしばありました。それでも私は幸いにも大きなけがもなく働けましたが、病気で働けない人たちが多くいました。

 1957年被爆者健康手帳が交付されるようになって、被爆者の健康診断を受診していましたが、働くことができました。このころでも、生活が大変な被爆者がいました。「自分にできることがあれば大変な仲間に手を差し伸べたい」という思いで被爆者運動に参加しました。被団協は結成直後から被爆者の救援・救済、国の補償を求め、これまで被爆者手帳の発行、被爆者の健診制度の創設や拡充などに取り組み、今日まで活動をしてきました。

「受忍論」の政府

 田村 日本政府は今でも「戦争の苦しみは国民が受け入れるべきだ」という「受忍論」の立場です。被爆者だけでなく空襲被害者などの救済も門前払いしています。戦争の苦しみを受け入れろという冷たい姿勢は、戦争への無反省とも言えるものだと思います。

 田中 私は、民主主義の国で、戦争開始を決定する政府が国民に被害の受忍を強いて、市民が強いられる関係でいいのか、と問いたい。国民が声を大にして要求していかないといけないと思います。

被爆証言があって非人道性伝わる

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(写真)政府に禁止条約参加を求めて宣伝する田中代表委員(奥中央)=10月24日、埼玉県志木駅前

 田村 核兵器の非人道性が、核兵器全面禁止・廃絶へとつながってこそ、希望が生まれます。私が10代の頃は、米ソ核軍拡競争の真っただ中で、これほど悲惨なことが起きたのにどうしてという思いから“人類はもう滅びるしかない”と絶望していました。

 大学生のとき、世界の反核平和運動の代表が核兵器の全面禁止・廃絶を求める「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」(85年)を呼びかけたことを知りました。核兵器全面禁止・廃絶を求める国際条約をつくろうという呼びかけは、絶望を希望へと一変させるものでした。核兵器は人類がつくったものである以上、人類の英知によって廃絶できる、日本共産党の主張と運動も知って入党を決意しました。

 学生時代は、署名をどうやったら広げることができるかいつも考えていましたね。

 田中 あの頃、ヨーロッパで運動が盛り上がりましたね。何万、何十万人の集会でした。各国から被団協に証言の要請がありました。やはり証言が大事です。絶望だけではなく必死に生きている被爆者たちの姿を見ていただかなくちゃいけない。

 田村 国際署名を集めるために原爆パネル展も全国に広がりました。被爆の実相に向き合うことが、運動の力になっていきました。

 田中 あれは大きかった。被爆証言と同時に、被害の写真や、原爆の体験を描いた市民の絵を見てもらうと、やはり違います。

 田村 証言をされている方が「写真には色と臭いがありません」と言われたんです。私は衝撃を受けました。やはり被爆者の皆さんの証言があって初めて非人道性が生々しく伝わると感じました。

「核抑止」論こそ廃絶の最大の障害

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(写真)オスロ大学での日本被団協の被爆証言会=12月11日、オスロ市内(吉本博美記者撮影)

 田中 「非人道性」という言葉は軽々しく使うんじゃなくて、非人道性とはどういうことか、その意味する内容を思い浮かべながら、よく考えて使ってほしいという思いもあります。

 田村 石破茂首相は「唯一の戦争被爆国として世界に非人道性を伝える」のが日本政府の立場だと言います。総選挙後の衆議院の代表質問で、非人道性を認めることと、アメリカの核抑止の強化というのは矛盾するではないかと石破首相に質問しました。しかし、首相から答えがありませんでした。

 田中 受賞が決まった当日に石破首相から「おめでとう」と電話がありました。私は「核共有なんていうのはよくないですよ」と言いました。首相の方から会って話し合いたいとの申し出がありました。「核抑止」「核共有」の考え方は間違っていると徹底的に議論したいと思います。

 田村 「核抑止」は、いざとなったら核兵器を使うぞと恐怖を与えて自国を守るということです。「核兵器のない世界」を実現する最大の障害になってきたのが「核抑止」論です。核兵器は絶対に使ってはならない悪の兵器だという立場に立つならば「核の傘」「核抑止」から抜け出すことを真剣に考えるべきです。

 田中 そうだと思います。脅かすんじゃなくて、やっぱり話し合いをしてほしい。日本はそのために努力しなくちゃいけない。

 田村 とりわけ、アメリカは核兵器先制使用の戦略を持っています。唯一の戦争被爆国である日本は、アメリカに対しても「核兵器は使ってはならない」というべきですし、核兵器廃絶をすべての核保有国に迫るべきです。

 田中 そうなんですよ。日本政府や石破首相は、「核共有」や「核の傘」「拡大抑止」など、逆のことを言いますからね。

 田村 いま国会でも「核抑止」を正面から批判しているのが日本共産党です。被爆80年のことし、「核抑止」は核兵器の非人道性と矛盾するということを国内外で大いに議論しなければなりません。

 田中 そういう意味では、受賞を機に、年明けから国の内外で世界的に大激論をしてほしい、というのがノーベル委員会の狙いでもある。私もまだまだ頑張らなくちゃいけない。

禁止条約に沈黙続ける政府に憤り

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 田村 もう一つ石破首相の答弁でおかしいのは、核兵器禁止条約とNPT(核不拡散条約)を対立させて、禁止条約ではなく核五大国が参加するNPTが重要だと繰り返していることです。NPT第6条は、核軍備の縮小・撤廃を、核保有国を含む締約国に義務付けています。それを進めるために核兵器禁止条約が誕生した。NPTと禁止条約は補完しあうものです。これを対立させることは道理がありません。

 田中 そうなんですよ。なんで矛盾するんですかと問いたい。保有国が積極的に減らそうとしない。それだったら先に禁止する努力を始める方が早いでしょう。

 田村 そもそもNPTを前に動かすため、被爆者を先頭にした市民社会の運動が禁止条約を誕生させ、21世紀の希望になっています。国際政治の主役が、一部の大国から、圧倒的多数の非核兵器国と市民社会に交代した。このことが、条約を採択した国連会議でもはっきり表れました。

 田中 「核兵器のない世界へ」私たち被団協も国連という組織をフルに活用しようと頑張ってきました。国連ではNGO(非政府組織)が発言できます。国連軍縮特別総会やNPT再検討会議などで被団協は、必ず被爆の実相を伝える発言ができるよう努力しました。NPTの強化だけではなく、やはり禁止条約や廃絶条約を結んで核兵器を廃絶しないとダメだと言い続けました。原爆展もニューヨークの国連本部の総会場ロビーの中でやって成功しました。政治家、観光や見学に来た人たちも見ることができ、大きな反響をよびました。そうしたことが核兵器禁止条約に実ったことは大きな喜びです。(12月現在、批准国73、署名国94)

共産党も力発揮

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(写真)国連本部ロビーで開かれた原爆展=2010年5月24日、ニューヨーク

 田村 2010年のNPT再検討会議には日本共産党も、志位和夫委員長(当時)をはじめ代表が参加し、市民団体の皆さんとともに各国代表への要請活動にも取り組みました。17年に2回にわたり開かれた核兵器禁止条約交渉の国連会議にも党代表団が参加し、志位さんが国連の場でスピーチすることができました。アジアや欧州訪問でも核兵器禁止条約の推進を繰り返し提起してきました。

 私も12月の臨時国会の代表質問で「被爆者の命がけの訴えで誕生したのが核兵器禁止条約だ。唯一の戦争被爆国として被爆者とともに歩む責務がある」として条約参加と締約国会議へのオブザーバー参加を石破首相に迫りました。

 政府は日米同盟を絶対視して、禁止条約に背を向けていますが、私たちの行動と主張こそ、多くの国民の思いと響き合うものだと思います。

 田中 ノルウェーのストーレ首相と会ったとき、NATO(北大西洋条約機構)加盟の国だからすぐに批准はできないけれど、NATO諸国とも話し合い、オブザーバーで参加して頑張ります、とおっしゃった。日本も頑張らなきゃいけないでしょう、と言いました。

 田村 条約批准は、「核の傘」から抜け出すと約束することが求められますが、締約国会議へのオブザーバー参加は、すぐにでも可能なはずです。自民党以外の多くの党が求めています。自民党は“参加できない”という答えが先にあり、参加しない道理ある説明ができない。ここでも追い詰められています。

 田中 もともとやる気がない。やっぱり国民が「おかしいよ」と大きな声で言わなくちゃいけない。

 田村 そう思います。唯一の戦争被爆国がなぜオブザーバー参加の決断もできないのか。「日米同盟絶対」で、アメリカの顔色ばかりうかがっているのは、あまりに恥ずかしい。それで良いのかと、大きな世論を起こしたいです。

被爆80年 希望もって核廃絶訴える

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(写真)核兵器廃絶と核兵器禁止条約の交渉開始を求めるパレードの出発集会に参加した人たち=2015年4月26日、ニューヨーク(島田峰隆記者撮影)

 田村 被爆80年のことし、田中さんはどんな年にしたいですか。

 田中 私たち被爆者は「核兵器と人類は共存できない」と叫び続けてきました。核兵器がある限り、被爆者が経験したことが未来に起こりえます。私の一番好きな言葉は「希望」です。核兵器の使用の危険が迫っています。そうしたなかでも希望を常にもって努力さえすれば実現する。若い人たちに「これからの世界は皆さんの世界です。どうするか皆さんで考えてほしい」と呼びかけたい。

 そして伝える際の言葉が大事です。たとえば「人権」という言葉。私は、幸せに生きるということをお互いに認め合うことが人権だ、と伝えています。そうすると、それは守らなきゃいけない、となるわけです。最近、日本語を大事にしないといけない、わかりやすく伝えていきたいと強く感じています。

 田村 私は、被爆者の皆さんが命がけで証言してこられた「核兵器の非人道性」を、いかに次の世代が感性をもって訴えていくか、これに挑戦していきたい。何よりも日本が核兵器禁止条約に参加する年にしなければいけないと思います。それが被爆80年にふさわしい日本の行動です。

 いま自民党政治のもと、5年間で43兆円もの大軍拡、敵基地攻撃能力の保有、沖縄での米軍辺野古新基地建設、そして日米一体で「核抑止」の拡大・強化を進めようとしています。こうした「戦争国家」づくりを止めなければなりません。

 田中 私もそう思います。いま、アメリカのいいなりに日本は戦争をやりそうな国になりつつあります。

 田村 軍事対軍事、「抑止力」強化という対立と分断ではなく、地域全体を包摂する対話と協力の関係をつくろうという流れが、アジアの中には息づいています。国連憲章と国際法によって平和を築こうという流れは、力強く前へと進んでいます。

 日本でも自民・公明が少数与党になるという大激動が起きたもとで、自民党政治に代わる新しい政治への模索と探求が始まっています。アメリカいいなりで核兵器禁止条約への参加ができない政府はもう変えようという市民の運動を巻き起こす1年にしていきたいと思います。

 今日はありがとうございました。

 田中 ありがとうございました。

日本被団協のあゆみ
1945年 広島、長崎に原爆投下。終戦
54年 米の太平洋ビキニ環礁での水爆実験で第五福竜丸など被災
55年 第1回原水爆禁止世界大会(広島)
56年 日本被団協結成。第2回原水爆禁止世界大会(長崎)
63年 東京地裁、「原爆裁判」で「原爆投下は国際法違反」の判決
77年 NGO被爆者問題国際シンポジウム-原爆被害を全面的に解明
78年 第1回国連軍縮特別総会に日本被団協代表38人が参加
82年 第2回国連軍縮特別総会で、山口仙二日本被団協代表委員が演説。ニューヨークで100万人大行進
96年 国際司法裁判所が勧告的意見「核兵器の使用と威嚇は一般的には国際法違反」
2005年 日本被団協ニューヨーク行動
10年 日本被団協ニューヨーク行動。国連本部で原爆展
15年 日本被団協ニューヨーク行動。国連本部で原爆展
16年 「ヒロシマ・ナガサキの被爆者が訴える核兵器廃絶国際署名」発表
17年 核兵器禁止条約が国連会議で採択
21年 核兵器禁止条約が発効
24年 ノーベル平和賞受賞

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石破内閣閣僚の政治資金パーティー

収入2000万円以上が13人

透明度1割以下 利益率8~9割

隠れた企業・団体献金

 昨年末の臨時国会で、自民党、石破茂首相は政治資金パーティーを含む企業・団体献金の禁止に一貫して背を向けました。直近の政治資金収支報告書(2023年分)で石破内閣の閣僚のパーティーによるカネ集めの実態を調べると、13人が収入2000万円以上。しかも、大半が利益率は8~9割台で、購入者が判明している“透明度”は1割以下でした(表参照)。パーティーが隠れた企業・団体献金であり、裏金づくりの温床ともなっていることを浮き彫りにしました。(藤沢忠明)


 収入が一番多かったのは、加藤勝信財務相。資金管理団体で、「日本の未来を語る会」、自らが支部長の政党支部で、「明日の日本を語る会」などを開催、1億2000万円を超す収入を上げました。開催費用は2749万円で利益率は、64・7%でした。厚労相経験があり、20万円以上購入した日本医師連盟、製薬産業政治連盟、日本薬剤師連盟などの名前を報告していますが、“透明度”は6・8%にとどまりました。

 林芳正官房長官も資金管理団体が「セミナー」「朝食勉強会」など13回のパーティーを開き、約1億400万円の収入。利益率は78・2%、日本医師連盟、日本チェーンドラッグストア協会などが大口購入者で透明度は5・0%でした。

 石破首相は、資金管理団体で「セミナー」「囲む会」を開催、2991万円の収入。利益率は79・4%。ニトリホールディングスが100万円購入するなど、透明度は6・7%。

 4000万円超の収入があった鈴木馨祐(けいすけ)法相はじめ、江藤拓農水相、武藤容治経産相、岩屋毅外相は、購入者名を一切報告しておらず、透明度ゼロ。政治資金パーティーが隠れた企業・団体献金であることを示しています。

 石破首相は、企業・団体献金について、「禁止よりも公開だ」などといっていますが、これで「公開」とは…。

表:石破内閣閣僚の政治資金集めパーティー(2000万円以上)

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