2011年3月、東日本は壊滅の縁に立たされました。
福島第1原発事故の発生から2週間後の25日、原子力委員会の近藤駿介委員長(当時)は首相官邸の求めに応じて作成した「福島第一原子力発電所の不測事態シナリオの素描」と題する十数枚のリポートを提出しています。いわゆる「最悪のシナリオ」です。その内容は-。
1号機の水素爆発に始まる放射性物質の飛散によって、作業員が総員退避を余儀なくされ、注水冷却ができなくなって、2号機、3号機のメルトダウン(炉心溶融)が進行。定期点検のため1535体の核燃料を収納していた4号機の燃料プールが干上がって、大量の放射性物質をまき散らす。それは、広範囲に降り注いで、原発から半径170キロ圏内の住民は強制移住させなければならない事態になる。その後、放射能の影響が自然のレベルに戻るまでには、数十年を要し…。
もし、それが現実となり、北は盛岡市から南は横浜市、西は新潟県上越市に至るまで、首都圏を含む5千万人の大移動が始まれば、空前の大パニックになっていたのは火を見るよりも明らかです。
実際には「最悪のシナリオ」は免れました。でもそれは作業員らの決死の踏ん張りに加え、いくつかの僥倖(ぎょうこう)、神懸かり的幸運が重なったからだとも言えるでしょう。
現実に2号機は一時、炉内の圧力を低下させるためのベント(排気)も注水もできず制御不能に陥りました。現場で指揮を執った吉田昌郎(まさお)所長(故人)は政府事故調査・検証委員会の聴取に対し「(その時の)われわれのイメージは、東日本壊滅ですよ」と率直に語っています。
「最悪のシナリオ」は本当に紙一重で回避された-。それが現場の偽らざる実感だったのです。
3年後の14年、国は、この過酷事故の恐怖と反省、そして「2030年時点での原発依存度ゼロ」を5割近くが支持した世論調査の結果などを踏まえ、エネルギー政策の骨格となる「第4次エネルギー基本計画」を策定します。
前文のこの一節には「フクシマの教訓」が凝縮されていたと言ってもいいでしょう。「震災前に描いてきたエネルギー戦略は白紙から見直し、原発依存度を可能な限り低減する。ここが、エネルギー政策を再構築するための出発点であることは言を俟(ま)たない」
◆「脱原発依存」の消去
ところが、その誓いが吹き飛びました。先月閣議決定された第7次基本計画で、18年の第5次、21年の第6次と受け継がれてきた「原発依存度を可能な限り低減する」の文言が削除されたのです。それどころか、安全確保を大前提に原発を「最大限活用」するというのですから百八十度の大転換。脱炭素の要請やロシアのウクライナ侵攻に伴うエネルギー安全保障などを名目に、あらためて「原発回帰」の狼煙(のろし)を上げた形です。
国中を恐怖に陥れた、あの過酷事故の教訓がたった十数年で反故(ほご)にされる…。そのあまりの「軽さ」には暗澹(あんたん)となります。
「安全を最優先に…」。福島の事故後に停止した原発を再稼働させるたびに、政府も電力事業者も決まり文句のように繰り返しますが、安全を保証するわけではないし、できるはずもありません。この災害大国・日本で、地震や津波など自然の脅威がどれほど「想定外」の被害をもたらすか、私たちは骨身に染みて知っています。
核燃料プール一つとっても、安心には程遠い。福島事故の際、米国が、半径50マイル(約80キロ)圏内の自国民に避難指示を出すきっかけになったのも、4号機の核燃料プールに保管中の核燃料がメルトダウンし、放射性物質が大量放出されることを恐れたからでした。
そのプールが、全国17カ所の原発などにあって、そこには計約2万トン近くの使用済み核燃料が、安全な最終処分先が決まらぬままに「一時保管」されているのです。脅威は地震や津波だけではありません。格納容器に守られた原子炉本体よりも防護は弱く、テロや落下物に対する備えも十分とは言えません。
◆過去に目を閉ざす者
フクシマの教訓を棚に上げ「安全神話」が復活すれば、「最悪のシナリオ」の恐怖もまた、復活します。「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」。統一ドイツの初代大統領ワイツゼッカー氏の金言をいま一度かみしめたい。過去の教訓を顧みなくなった時、人は過ちを繰り返します。
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