米国の名優アル・パチーノさんが盲目の退役軍人スレード中佐を演じた映画『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』では、中佐がレストランのような所で、若い女性と見事にタンゴを踊るシーンが有名ですが、ほかにも一つ、妙に印象に残っている場面があります。
気骨はあるが頑固な中佐と、アルバイトで中佐の世話役を引き受けた心優しい青年が言い争いになった時、中佐が、半ば軽口のようにこう言うのです。「議論じゃ、勝てっこない。こっちは銃を持っているんだから」
銃のような「力」が持ち出されると、議論や法のような「言葉」は引っ込むしかない-。今も記憶にあるのは、その冷徹な対比が鮮烈だったからだと思います。
◆「銃」を構えて、「売れ」
つい先日、2度目の米大統領職をスタートさせたトランプ氏。就任前に表明した「暴論」には心底驚きました。グリーンランド買収とパナマ運河の管理権を返還させるという話。デンマークやパナマが反発したのは当然ですが、さらに暗然となったのは、この無体な要求を実現するため、軍事力や経済的圧力を用いる可能性について「やらないとは保証できない」と述べたことです。
実際、デンマーク首相と電話会談した際も、買収案を拒否されると「輸入品に高関税をかける」とすごんだとか。いわば、銃を構えた相手です。まっとうな議論が通じるはずもなく、首相は「深刻な状況だ」と縮み上がっています。なぜデンマークがこんな目に遭わなければならないのでしょう。
どれほどグリーンランドに地下資源が豊富で、どれほど地政学的に重要性が増しているとしても、「だから米国のものに」という理屈が成り立つはずがない。まるで拳を振り上げ、年少の子から欲しいおもちゃを奪おうとする幼稚園児のようです。
古代ギリシャの歴史家トゥーキュディデースがペロポネソス戦争(紀元前431~404年)の模様をつづった『戦史』には、強国アテナイの使節が、征服を狙うメーロス島の統治者に「隷属か、滅ぼされるか」と迫って、こう告げるくだりがあります。<正義か否かは彼我の勢力伯仲のとき定めがつくもの。強者と弱者の間では、強きがいかに大をなし得、弱きがいかに小なる譲歩をもって脱し得るか、その可能性しか問題となり得ないのだ>(岩波文庫版)
◆大統領と目を合わせるな
よく言われる<力こそ正義>という言葉、考え方の淵源(えんげん)はこの辺りにあるようですが、今は、やはりロシアとウクライナを重ねてしまいます。身勝手な理屈で強国が他国に武力侵攻するなど、国際法無視の蛮行そのもの。特に小国から「<力こそ正義>を許すな」の声が上がったのも当然でしょう。無論、戦争は早期の終結が望ましい。でも、ロシアが何の報いも受けぬまま終わって<力こそ正義>が現実になるというのでは、やはり間尺に合いません。
グリーンランドの件など考えれば、この野蛮なドグマ(教義)を信奉しているとしか思えぬ点で、トランプ氏とプーチン・ロシア大統領には何らの違いもない。就任後、停戦に向け、ロシアに圧力をかけてはいますが、かねてプーチン氏への共感を隠さぬ人。結局はロシアが<いかに大をなし得>るかを優先し<弱き>は従え、とウクライナに無理に譲歩を強いる可能性も小さくありません。
それにしても、この21世紀に、世界最強の武力と経済力を持ち、民主主義世界をリードする大国の指導者の行動原理が、はるか紀元前のアテナイ人並み、いや、利かん気の幼稚園児みたいだなんて…。誰か、これは悪い夢だと言ってくれないものでしょうか。
まさか、本当にデンマークやパナマを武力で脅すとは思いませんが、少なくとも大好きな「関税」という「力」を、銃よろしく振り回し、「米国第一」に反するとみれば、どの国であれ標的にすることは間違いないでしょう。当然、日本を含む他国は今後、虎の尾を踏まぬよう、ビクビクし続けることに。まるで、治安の悪い街の裏通りを歩くようなものです。言い掛かりをつけられぬよう、なるべく大柄な金髪の男とは目を合わせないようにして…。
◆「弱肉強食」でいいのか
乱発している大統領令しかり、トランプ氏再登板に憂慮の種は山ほどありますが、やはり一番警戒が必要なことの一つは、<力こそ正義>の瀰漫(びまん)だと思います。武力や銃のような「力」でなく議論や法のような「言葉」で物事を決する。この土台が崩れたら、強国の横暴も貧富の差拡大も許容されてしまう。この世界を、強者が好きに弱者の肉を食らうジャングルに戻すわけにはいきません。
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