■(第15話)トロピカル~ジュ!プリキュア「みのりがローラで、ローラがみのり!?」感想
(「トロピカル~ジュ!プリキュア」第15話より)
不慮の事故により、みのりん先輩がアクアポットに吸い込まれました。
察するに「くるるんが文鎮替わりに置かれていたことで、横断幕が「くるるんの所持物」とみなされ、それに巻き込まれた」と思われます。
ポットの中は海水。溺死の危機。
しかしながら幸か不幸か、一緒に突入したローラのおかげかすぐに排出されました。結果、みのりん先輩とローラの精神が入れ替わりましたが。
入れ替わったローラは文字通りに跳ね回り、地上の世界を謳歌します。
同様に、みのりん先輩も海を目指して飛びたっていく。
大変に愉快で楽しい一幕なのですが、「人魚に地上を満喫させる」のは古来より厄介な問題をはらんでいます。
先日ローラは「堂々と顔を出せない」ことを嘆いていました。
でも現実には単純で簡単な方法がある。車いすを使えばいい。戸籍等の問題をクリアできるなら、たったそれだけで登校も可能です。
(参考までに、映画「恋の人魚(Miranda:1948年公開)」は人魚が車いすで地上を出歩く)
ですが、この描写はできない。ローラが足を生やす予定があるなら猶更です。
(1)歩けないことが「悪」かのように映ってしまう。
「車いすだと楽しめない」「足が生えたので解決」のような展開にすると、かなり大きな誤解を招く。
(2)ローラの「尾びれ」はハンデではない。彼女は海中生活に適応している。海中であれば、人間の足こそが不利だ。
これらをデメリットとしてしまうのは、異なる文化の否定につながる。
アンデルセンの「人魚姫」はもちろん、アラビアンナイトやそれ以前から、「人魚」は「異なる存在」をテーマに抱えています。(故に、身体障碍者やLGBTのシンボルにしばしば「人魚」は採用されている)
「人魚姫」の「代償を払って足を生やす」ストーリーも、見方によって意味あいが強烈に変わります。
「主要世界に受け入れてもらうには巨大な代償を払わねばならない」受動的な忍従の話なのか、「リスクを恐れず新世界に飛び込んでいく」積極的なチャレンジの話なのか。
実際にディズニーの「リトル・マーメイド」はジェンダー問題に巻き込まれています。
斯様に「人魚さんに足を生やす」のは難しい課題なので、人魚さんは人魚さんとしての矜持を胸に、尾びれを大切にして欲しいのですが、逆に言えばこの問題に向かい合わないなら、登場人物として人魚を採用する意味が半減するとも。
これまでのローラの描写から「海中より地上が良い」のような方向はなさそう。
ローラが地上を楽しんでいたのは、「今までが不幸だったから」というより異郷への好奇心のように思えます。確かに「不便だった」とは語っていますが、例えるなら「旅先で現地語を知らないせいでストレスが溜まっていたところ、急に言葉が分かるようになった」ような状態というか。
先輩側も、人魚になった機会を活かし「海の中で感動する」描写があったのは嬉しいです。人魚さんは罰ゲームじゃない。
ただ「ローラと比べ、みのりん先輩はそこまででもなさそう」なのが引っかかります。先輩は感情が表に出てこないので、判断が難しいですが。
ラストシーンで「尾びれを見つめるローラ」も何を思ってるのか悩ましい。プラスの感情なのか、マイナスの感情なのかも読めません。
過去の入れ替わり事例「パインとタルト」「ハッピーとキャンディ」と違い、「入れ替わったままでは変身できない」のも気になります。
「肉体と精神がセットで自分」とか、そういう感じだろうか。その観点でいえば、あの状態のローラ(中身は先輩)が試みても変身できなかったんじゃないかな。
そう思うと、上記の諸々の「人魚ならでは」の問題を意識されてるっぽい。
今のところ「ローラに足が生える」ことと「今一番大事なこと」がどうリンクするのかもはっきり分からない。
これまで丁寧に扱ってくれているので、次回や次々回が楽しみです。
(「トロピカル~ジュ!プリキュア」第15話より)
不慮の事故により、みのりん先輩がアクアポットに吸い込まれました。
察するに「くるるんが文鎮替わりに置かれていたことで、横断幕が「くるるんの所持物」とみなされ、それに巻き込まれた」と思われます。
ポットの中は海水。溺死の危機。
しかしながら幸か不幸か、一緒に突入したローラのおかげかすぐに排出されました。結果、みのりん先輩とローラの精神が入れ替わりましたが。
入れ替わったローラは文字通りに跳ね回り、地上の世界を謳歌します。
同様に、みのりん先輩も海を目指して飛びたっていく。
大変に愉快で楽しい一幕なのですが、「人魚に地上を満喫させる」のは古来より厄介な問題をはらんでいます。
先日ローラは「堂々と顔を出せない」ことを嘆いていました。
でも現実には単純で簡単な方法がある。車いすを使えばいい。戸籍等の問題をクリアできるなら、たったそれだけで登校も可能です。
(参考までに、映画「恋の人魚(Miranda:1948年公開)」は人魚が車いすで地上を出歩く)
ですが、この描写はできない。ローラが足を生やす予定があるなら猶更です。
(1)歩けないことが「悪」かのように映ってしまう。
「車いすだと楽しめない」「足が生えたので解決」のような展開にすると、かなり大きな誤解を招く。
(2)ローラの「尾びれ」はハンデではない。彼女は海中生活に適応している。海中であれば、人間の足こそが不利だ。
これらをデメリットとしてしまうのは、異なる文化の否定につながる。
アンデルセンの「人魚姫」はもちろん、アラビアンナイトやそれ以前から、「人魚」は「異なる存在」をテーマに抱えています。(故に、身体障碍者やLGBTのシンボルにしばしば「人魚」は採用されている)
「人魚姫」の「代償を払って足を生やす」ストーリーも、見方によって意味あいが強烈に変わります。
「主要世界に受け入れてもらうには巨大な代償を払わねばならない」受動的な忍従の話なのか、「リスクを恐れず新世界に飛び込んでいく」積極的なチャレンジの話なのか。
実際にディズニーの「リトル・マーメイド」はジェンダー問題に巻き込まれています。
斯様に「人魚さんに足を生やす」のは難しい課題なので、人魚さんは人魚さんとしての矜持を胸に、尾びれを大切にして欲しいのですが、逆に言えばこの問題に向かい合わないなら、登場人物として人魚を採用する意味が半減するとも。
これまでのローラの描写から「海中より地上が良い」のような方向はなさそう。
ローラが地上を楽しんでいたのは、「今までが不幸だったから」というより異郷への好奇心のように思えます。確かに「不便だった」とは語っていますが、例えるなら「旅先で現地語を知らないせいでストレスが溜まっていたところ、急に言葉が分かるようになった」ような状態というか。
先輩側も、人魚になった機会を活かし「海の中で感動する」描写があったのは嬉しいです。人魚さんは罰ゲームじゃない。
ただ「ローラと比べ、みのりん先輩はそこまででもなさそう」なのが引っかかります。先輩は感情が表に出てこないので、判断が難しいですが。
ラストシーンで「尾びれを見つめるローラ」も何を思ってるのか悩ましい。プラスの感情なのか、マイナスの感情なのかも読めません。
過去の入れ替わり事例「パインとタルト」「ハッピーとキャンディ」と違い、「入れ替わったままでは変身できない」のも気になります。
「肉体と精神がセットで自分」とか、そういう感じだろうか。その観点でいえば、あの状態のローラ(中身は先輩)が試みても変身できなかったんじゃないかな。
そう思うと、上記の諸々の「人魚ならでは」の問題を意識されてるっぽい。
今のところ「ローラに足が生える」ことと「今一番大事なこと」がどうリンクするのかもはっきり分からない。
これまで丁寧に扱ってくれているので、次回や次々回が楽しみです。