妻が逝ってからの10年の間、知人の死、とりわけ配偶者を喪ったという知らせに接すると心から痛ましいと思い、あれこれ死ということを考えたが、自分の死についてはだんだん淡白になってきている。
一時期自分は無神論者ではないかと思ったことがある。人は暗黒から生まれ暗黒に還る。死ねば無である。神や仏の世界があるとは思えない。それでいいと思っていた。ところが、妻の死を経験してみると、英国の女流詩人のクリスティーナ・ロゼッティが、「私が死んでも、いとしいあなた」で始まる詩の最後で、
そして日の昇り沈むことのないあの薄明かりの中に夢見ながら
時折はあなたを偲び
また 時に忘れもいたしましょう
と詠ったように、妻は薄明の中でまどろんでいるのではないかと思ったりしたり、時折「どこにいるのかなあ」と考えたりする。自分が死んでもこのようなことはない、無に還るだけだと考えているのに、どうも妻のこととなるとちぐはぐな考えに捉われる。今の私にはいろいろな楽しみがあり、これは妻からのプレゼントだと思ったり、元気で幸せに生きておられるから、きっと奥様は喜んでおられますよなどと言われても素直に受け止められる。また、宗教心の篤い人から「神のご加護を」と言われても有り難く受ける。冗談に妻は良い人間でしたから、きっと天国にいるでしょうし、私はたぶん地獄へ行くでしょうから、あの世では妻には会えないでしょうなどと言ったりするが、あの世や天国、地獄などがあるなどとはまったく信じていない。若い頃は死ぬのが怖かったが、今はとくに恐れもない。生まれてきたからには必ず死ぬことは決まっているし、死はいつかは来るものだと思うようになっている。それに自分の死は体験できるものではないから、その後のことをあれこれ思案しても始まらない。
もう1つ、よく言われる転生、生まれ変わりのこと、これも意外に信じている人は多いようだが私には信じられない。何でも理屈っぽく考えると人から敬遠されるのだろうが、どうも理屈に合わない。すべての人間が人間としての前世を持っているとしたら、人間の数は大昔からまったく変化がなかったことになるし、人間以前の存在などは考えられないから、現在では確立されている生物の進化という考えとも相容れなくなる。
米国には催眠術を使って前世を探るということをやっている学者がいるようで、これを紹介した日本のある大学の教員の本を読むと、もっともらしいのだがどこかおかしい。その学者は被験者が催眠中に話したことを記録しているのだが、その中である女性が「今は紀元前○○年、ここは○○です」と言ってその自分の様子を語るのがある。このくだりを読んで私は何やら胡散臭いと思った。だいたい紀元前に生きていた者が、今が紀元前などということがどうして分かるのか。紀元後のことにしても、今は紀元○○年と言うことが庶民にも知られるようになったのは、かなり後になってからのことだと読んだことがある。
宗教があの世の存在や転生(輪廻)を説くのは分かる。それがなくては宗教の教義は成り立たないのかも知れない。だから宗教に帰依すれば、そういうことも信じるようになるのも分からないでもない。しかし、宗教心から出たものではないようなのに、前世や転生を信じる人も少なくないようだ。もっともそのように信じる根拠は、たいていは曖昧なようで、ただ何となくあると思うというようなものだ。それはおそらくは、そう信じることで、いつかは自分の命が終る虚しさや怖さを紛らわそうとしているのではないかと思ったりする。
あの世のことをあれこれと思い煩うよりも、生きている今を充実させたいと考えている。
一時期自分は無神論者ではないかと思ったことがある。人は暗黒から生まれ暗黒に還る。死ねば無である。神や仏の世界があるとは思えない。それでいいと思っていた。ところが、妻の死を経験してみると、英国の女流詩人のクリスティーナ・ロゼッティが、「私が死んでも、いとしいあなた」で始まる詩の最後で、
そして日の昇り沈むことのないあの薄明かりの中に夢見ながら
時折はあなたを偲び
また 時に忘れもいたしましょう
と詠ったように、妻は薄明の中でまどろんでいるのではないかと思ったりしたり、時折「どこにいるのかなあ」と考えたりする。自分が死んでもこのようなことはない、無に還るだけだと考えているのに、どうも妻のこととなるとちぐはぐな考えに捉われる。今の私にはいろいろな楽しみがあり、これは妻からのプレゼントだと思ったり、元気で幸せに生きておられるから、きっと奥様は喜んでおられますよなどと言われても素直に受け止められる。また、宗教心の篤い人から「神のご加護を」と言われても有り難く受ける。冗談に妻は良い人間でしたから、きっと天国にいるでしょうし、私はたぶん地獄へ行くでしょうから、あの世では妻には会えないでしょうなどと言ったりするが、あの世や天国、地獄などがあるなどとはまったく信じていない。若い頃は死ぬのが怖かったが、今はとくに恐れもない。生まれてきたからには必ず死ぬことは決まっているし、死はいつかは来るものだと思うようになっている。それに自分の死は体験できるものではないから、その後のことをあれこれ思案しても始まらない。
もう1つ、よく言われる転生、生まれ変わりのこと、これも意外に信じている人は多いようだが私には信じられない。何でも理屈っぽく考えると人から敬遠されるのだろうが、どうも理屈に合わない。すべての人間が人間としての前世を持っているとしたら、人間の数は大昔からまったく変化がなかったことになるし、人間以前の存在などは考えられないから、現在では確立されている生物の進化という考えとも相容れなくなる。
米国には催眠術を使って前世を探るということをやっている学者がいるようで、これを紹介した日本のある大学の教員の本を読むと、もっともらしいのだがどこかおかしい。その学者は被験者が催眠中に話したことを記録しているのだが、その中である女性が「今は紀元前○○年、ここは○○です」と言ってその自分の様子を語るのがある。このくだりを読んで私は何やら胡散臭いと思った。だいたい紀元前に生きていた者が、今が紀元前などということがどうして分かるのか。紀元後のことにしても、今は紀元○○年と言うことが庶民にも知られるようになったのは、かなり後になってからのことだと読んだことがある。
宗教があの世の存在や転生(輪廻)を説くのは分かる。それがなくては宗教の教義は成り立たないのかも知れない。だから宗教に帰依すれば、そういうことも信じるようになるのも分からないでもない。しかし、宗教心から出たものではないようなのに、前世や転生を信じる人も少なくないようだ。もっともそのように信じる根拠は、たいていは曖昧なようで、ただ何となくあると思うというようなものだ。それはおそらくは、そう信じることで、いつかは自分の命が終る虚しさや怖さを紛らわそうとしているのではないかと思ったりする。
あの世のことをあれこれと思い煩うよりも、生きている今を充実させたいと考えている。