中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

朝の散歩

2012-06-04 20:42:16 | 身辺雑記

 家族で来日した西安の謝俊麗が、帰国した後のチャットで「爺爺イエイエが杖をついているのを見て悲しくなった。散歩でもしてよ」と言われてその気になって始めてから2カ月余りがたちました。雨の日は除いて、今のところは何とか続いています。ブログ友のOjさんのように地球一周の距離を目指して(もう半周の距離は過ぎましたが)雨の日も風の日も歩かれたり、北海道のSさんのように毎日一万歩というような本格的なウォーキングではなく、文字通りの散歩、そぞろ歩きです。それでも朝のさわやかな空気を吸い、太陽の光を受けて歩くのは気持ちのいいものです。

 ある知人によると、光を浴びると、体内にドーパミンという物質ができるのだそうです。ドーパインはノルアドレナリンやセロトニンと並んで、体内で特に重要な役割を果たしている三大神経伝達物質の一つだそうで、人間の精神面に大きな影響与える神経伝達物質で、上半身裸になって散歩するのならともかく、顔や手に当たっただけで効果があるのか疑問ですが、それはともかくとして、朝の太陽の光は気持ちの良いものです。

 また朝早く陽光を浴びると、体内時計も調節されるとのことです。陽が沈むと眠くなり、陽が昇ると目が覚めるのは正常なことですが、以前私は3時、4時頃まで寝付かれないことがよくあり、12時過ぎて寝るのが当たり前で、当然朝寝坊だったのですが、朝の散歩を始めてから、夜は11時頃には消灯するようにするとすぐに寝付いてしまい、朝は6時頃に目が覚めるようになりました。寝付いてからは熟睡し、朝まで一度もトイレに立つことがないこともあります。これから夏に向かうともっと早く目覚めるのかも知れませんが、その時はその時で涼しい時に散歩し、帰って眠くなれば短時間二度寝してもいいかなどと思っています。とにかく朝の散歩が私の生活リズムを変えたのは事実です。

 散歩には大抵カメラを持ち、道端の花などを撮るのがまた楽しく、私の写真技術はデジカメ頼りのまったく大したものではないのですが、それはそれなりに楽しいもので、これで散歩の時間が案外多くかかったりします。

 脚が悪く杖をついていますが、しばらく歩くと右足のふくらはぎが痛くなってくるのが悩みで、これがなかったらもっと歩けるのにと残念です。 

 先日ウォーキングの大先輩のOjさんから「散歩が定着したようですね。そのうちやめられなくなりますよ」というコメントがありました。このことばを励みに、これからもよたよた、よろよろと続けようと思っています。 

 

(朝の散歩から)

花はきれいで目を楽しませてくれますが、若い葉の目の覚めるような緑色もさわやかでいいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


初心忘るべからず

2012-06-04 07:42:41 | 身辺雑記

 ブログで知ったFさんという女性は時々詩を書いていますが、女性らしい優しい繊細なものが多いようです。先日は「初心」という詩でした、それを読んでいて、ふとそのことばの意味を考えました。

 このことばは、普通「初めてその事に携わった時の感動や意気込みを忘れずに物事に当たらなければならない」と解釈されています。例えば、私の次男は小学校の教師ですが、初任以来20年以上になり、もうベテランです。そういう彼が今でも教師になったばかりの時の新鮮な気持ちを常に思い起こして油断なく励まなければならないと、「初心」はこのように解釈されています。

 実はこれは「初心」を文字どおり解釈したもので、本来は「自分はまだまだ未熟だ」ということを自覚することのようです。この「初心不可忘」は現在の能を大成した世阿弥の著した「花鏡」の中にあることばです。世阿弥はこう言っています。

 「しかれば当流に万能一徳の一句あり。 初心忘るべからず。この句、三ヶ条の口伝あり。是非とも初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず。この三、よくよく口伝すべし」

 このことばの解釈について、ネットのYahoo Japanの「知恵袋」というQ&Aのサイトに模範解答として載っていますが、おおよそその受け売りをします。 

 世阿弥のことばから言えるのは、三つの「初心忘れるべからず」があり、その一は「最初の時の芸の未熟さを忘れてはならない」ということです。これは私もかつて何かで知ったことがあり、このことばはそのように解釈するもだと考えていました、それはそれで当たっているのですが、第二、第三の「初心忘れるべからず」があることは知りませんでした。第二のものは芸が上達していく過程でも、その段階段階でそれぞれの「初心」があるはずだと言うのです。最後に、年老いてある程度の芸の極みにまで達しても、これで良いと言えるような到達点はなく、たとえ達人の境地に達したとしても、その境地に足を踏み入れた時点で、それはそれで新たな初心だというわけです。ですから芸事に限らず、何事においても向上を望むのなら、常に初心、すなわち自分は未熟であるという気持ちを持ち続けることが大切だということになります。

 教師として、またそれから後も私自身はどうだったのか、やや忸怩とした思いはありますが、初めて教職に就いた時はとても新鮮ではあったし、それまで勉強していたことがあまりにも乏しいことを痛感して、毎晩夜遅くまで勉強しました、だんだん慣れてきても、性格もあって、そんなに悪慣れしたことはなかったと思っています。たとえば教えるためのノートはカード形式にして毎年更新していました。そういうことで過去についてはあまり悔いがないのですが、しかし特に芸事をするでもない現在の自分の在りようを思うと、三つ目の「初心」は果たしてどうなのかと、今更のように思います。

 この「初心忘るべからず」についていつも思うことがあります。ある大新聞グループの本社代表取締役会長で主筆の人物は、ワンマンとしても傲岸であることでも知られていますが、この人も、入社したばかりでいわゆる「ペイペイ」の記者の時代があったでしょうが、いつからどんな契機で今のような性格、言動の人物になったのでしょうか。ひょっとすると「初心」ということには無縁で出世街道を歩んだのではなかったのかと思います。

 また最近は、あたかも首相になるかのようにもてはやされている大阪市長などは、その人も無げな言動を見聞きするたびに、そもそもこの人には最初から「初心」というものはなかったのではないかと思います。この人がテレビの茶髪黒眼鏡のタレント弁護士から、大阪府知事に転身した時に、果たして世阿弥の言う第一の「初心」があったのか疑問ですし、その後大阪市長になった時やそれ以後に、第二の「初心」というものを絶えず自覚していたかもまったく疑わしく思います。とかく人の耳目を集める言動のある東京都知事についても同じような疑問を抱きます。

 この人達だけでなく、政治家の中には同じような感想を持つことがあります。この近辺の市で大臣になったこともある、ある党のベテラン議員(故人)は、大臣になって日がたつにつれてだんだん頭(ず)が高くなってきたので知人と嗤ったことがありますし、市会議員のレベルでも、なぜそんなに傲岸不遜なのだろうと思うことがありました。特に市の職員に対しては目に余る態度をとる人物もありました。 今大阪では飛ぶ鳥を落とすかのように勢いづいている「大阪維新の会」の議員も例外ではないようで、ある職員は市長にメールを送って告発しました。「維新の議員からの接触が一番程度が低く、露骨」、「内容を言わずに呼びつけ、支持者を連れてきていきなり我々を詰問する」、「特に若い議員、社会人としてのマナーを再教育すべきだ」などです。わが世の春と浮かれている議員の姿が目に浮かぶようです。これに対して市長は謝罪のメールを送ったそうですが、どこまで徹底するのかは疑問です。いったん身に付いた議員根性というものはなかなか治らないような気がします。このような連中に「初心忘るべからず」などと言っても「何、それ?」と言われそうです。

 

(朝の散歩から)