中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

死ぬということ

2012-06-07 07:21:46 | 身辺雑記

 私より2歳年下のある女性は,2年ほど前に夫を亡くしたそうですが、何も思い出したり懐かしんだりすることはないと言っています。それどころか悪しざまに罵ることもあり、よほど仲が悪かったのかなと思ったりさせられます。

 私などは妻を失って13年になりますが、いまでもいろいろのことを思い出しますし、最近はよく夢にも出てきます。私にとってはまだ妻は生きている存在です。そう言うとその女性は感心したようにヘエと言い、死んだら何も思い出さないと言いますが、私はそんなものかなと思います。悪しざまにけなすということは、その女性は心の中ではまだ夫が存在しているのでしょう。そうするとその夫はまだ彼女の中では生きていることになります。

 人は必ず死に、やがては忘れ去られてしまいます。しかし子や孫が死者の生きていた時のことを何かにつけて思い出すということは、その人はまだ生きているのではないかと思います。そうして歳月がたち、身内や知人が誰も思い出さなくなった時に、その人は本当に死んだことになるのではないでしょうか。

 私のような平凡な一庶民ならともかく、有名人は歴史や伝記などでいつまでも語り継がれます。中には映画になったりもします。そういう人たちは不死なのでしょうか、私にはそうは思われません。やはりその人を実際に知っている人が、生きている間にその人のことを思ったり語ったりしている間が、その人が生きているのではないか、後で語られる姿は、しばしば虚実入り混じったものだと思います。

 私は妻が死んでからは、自分が死ぬということに淡白な気持ちになりましたし、子どもや孫たちにしても、いずれは私のことをめったに思い出さないようになるでしょう。私が見られるかどうかは分からないひ孫になれば私のことなど、たまに話に聞くだけで何も知ることはないでしょう。それが薄情だとも無情だとは思いません。むしろ自然なことです。仏壇や祭壇に祀られて祈られても、その人の生前の生き生きした姿を思い出さなければ、単なる死者への儀式なのではないでしょうか。もちろんそういう行為を嗤ったり否定したり、無意味だと考えたりするつもりはありません。ただ人が「死ぬ」ということはどんなことなのかと、ふと考えただけです。

 

(朝の散歩から)

 咲いている花たちを撮るのは、花たちへの朝の挨拶だなと思います。