サヨコの独り言

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《 小幡春生の世界展 》 -成田ゆかりの芸術家-

2023年06月13日 | 展覧会

成田市(旧大栄町)生まれの画家、「小幡春生」(おばた しゅんせい 1920-2006)の展覧会が成田の「スカイタウンギャラリー」で開催されていました。「日本画家」でありながら、油絵にも非凡な技量を持ち、仏画・人物画・美人画・風景画・歴史画・民話画など、多彩なジャンルの作品に取り組みました。美術学校に行ったことも無く、技術力は模写で身につけたものです。多くの模写を駆使して「春生」の画法が確立されました。瞬間に見た光景を3ヶ月間忘れないというのも脅威の能力です。「山下清」?

「小幡春生」は少年の頃に出征し、辛酸をなめながら絵を描き続けました。シベリア抑留中にスパイ容疑を掛けられ拷問を受けました。独房へ戻った「春生」は、いつ死ぬかもしれない自らの魂の救いを求め、傷口から噴出す血で牢獄の壁に「不動明王像」を描き始めました。ソ連将校にその才能を驚かれ、看守長や上官・政治家の「肖像画」まで描くようになり、拷問から開放されました。

その後、「レーピン美術館」の作品を模写する任務を与えられました。さらにその功績が認められ、日本人では珍しい「ロシア共和国功労芸術家賞」の受賞という栄誉を得ました。また、「モスクワ大学」で学生に絵を教えることもありました。帰国後、「戦争の真実」というテーマで自らの戦争体験・抑留時代・敗戦により翻弄される人々の姿を何枚も描いていますが、あまりに悲惨なその情景は色などつけられないと、着色せずに描いたそうです。

戦後、「モスクワ展」(正確な名称は不明)が開催された折には、展示された作品の多くは「小幡春生」が模写した作品だったとも言われています。おそらく「ソ連」は原画は持って来ず、「春生」の書いた 「模写作品」 を日本で展示したのかもしれないそうです(真実は不明)。

帰国後は生活の糧として「肖像画家」となり、政治家や著名人からも依頼されました。1976年頃、アメリカの「ボストン美術館」に所蔵されていた【千手観音画像】の修復の依頼が日本政府にあり、「肖像画」を描いたよしみで「坂田文部大臣」から依頼されました。このとき修復と同時に模写もし、絹本に金箔の裏打ちをしたもの(千葉県立美術館所蔵)と、プラチナ箔の裏打ちをしたもの(個人所蔵)の2点を完成させています。そしてこの後、「日本画」へと急速に傾斜していきます。

岩肌の表現は「川合玉堂 」から、ぼかしは「伊東深水」から影響を受けているそうです。1971年頃、住んでいた横浜市の教育委員会の依頼により「横浜の民話画」(水彩画)を描いています。「PTA横浜」という機関誌に47回、およそ8年間にわたり連載したもので、1987年に一冊にまとめたものが【 横浜の民話集 】として発行されています。

1991年には郷土の「香取神宮」から焼失した【 香取神宮年中行事絵巻 】の復元を依頼されました。実際には50号位の大きな額装された作品10点を奉納しました。また、千葉県ゆかりの偉人である「伊能忠敬」の死後、序文や沿海実測録の浄書など「伊能図」の完成に協力した「久保木清淵」。その7代後の末裔で、「春生」の理解者だった「久保木良」氏との交流が【 伊能忠敬 行跡図 】を描く流れになったようです。

【左】紫式部[日本画]  /  【上】大日如来[日本画]  /  【下】横浜の民話より[水彩画]

【上右】騎馬行軍の図[油彩画]  /  【下中】ソビエト抑留中に、血で壁に絵を描く春生[墨彩画]

【仏画】  不動明王(赤不動)[日本画]  /  釈迦修業図[版画]  /  龍上観音[版画]

【歴史画】  天の岩戸[日本画](香取神宮所蔵)   /   白雪に染む桜田門外の変[日本画]

【美人画・動物画】  舞姫[日本画]          /         猫[日本画]

【香取神宮祭典絵図】  大宮司・大禰参拝の図[日本画]   /   神饌調進の図[プリント]

【伊能忠敬 行跡図】  伊豆測量の図    /    測量図を突き合わせている所?

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