熊谷三郎徒然日記(gooブログ版)

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芭蕉の足跡を訪ねて(羽黒山)

2014-06-16 13:53:00 | 憲ちゃんとの旅
 山形の奥のほそみちを訪ねる旅も今回が最終回、今日も良い天気です。
ルートインホテル鶴岡駅前を8:00に出発し、最初に出羽三山神社に向かいました。40分くらいで羽黒山の麓の出羽三山神社に到着。
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最初に国宝の五重塔に下って行きます。
途中、小さい社が幾つもありますが、そこを通り過ぎると祓川をはさんで流れ落ちる須賀の滝が見えます。
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この滝は江戸時代、当時の天宥別当が遠く月山より8kmの水路をひいて作ったもので不動の滝と名づけられていたとのこと。
祓川に架かる神橋を渡ると天然記念物「爺杉」の前に出ます。
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樹齢1,000年以上と云われる古木で、根元周囲11m50cm、目通り周囲8m30cm、樹高48m30cmもあるそうです。確かに見上げる程の巨木で圧倒されます。
この辺りから杉並木になりさらに進むと、白木造りの国宝五重塔です。
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案内板によると承平年間(平安時代)平将門の建立だとのこと。詳しい説明は写真をクリックしてご覧ください。
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 杉の木立の中に静謐という感覚を味わいました。本来ならここから羽黒山まで歩いて上るのですが、先を急ぐこともあり一旦車に戻って、羽黒山神社に向かいました。駐車場に戻って来ると、姫路から一人旅で来たというご婦人(kさん)に声を掛けられました。二年前にご主人を亡くされ、そのご主人が俳句を嗜んでいて、果たせなかった奥のほそみちを一人旅で巡っているのだそうです。最上川の舟下りと銀山温泉にも泊まってみたいと仰っていましたが、無事姫路にお帰りになったのでしょう。
 さて本題に戻って有料道路を通って、出羽三山神社に到着しました。こちらも午歳のご縁年ということで、蜂子皇子(はちこのおうじ)」の木像を、開山以来初めて一般公開しています。期間は4月29日から9月30日まで。
以下は山形県庁のHPからの転載です。 
>かつて人々のあらゆる苦悩を救ったといわれる出羽三山の開祖蜂子皇子。その御尊像が明治以降初めて、一般に公開されることになりました。公開を後押ししたのは、関係者の東日本大震災の復興への思いでした。
 羽黒山の信仰区域は関東以北。震災直後から青森、岩手、宮城、福島、茨城などから、何千人という方が羽黒山へ来られました。助かった方々は、車を乗り継ぎ、又相乗りして来られ感謝の祈りを捧げました。また、痛ましくもご家族を亡くされたという方は、鎮魂のため羽黒山霊祭殿れいさいでん(亡くなった人の霊は山に上ると云われている)を訪ねられたといいます。
 震災2年後の昨年は、一向に進まない復興と、仮設住宅暮しの辛さに、この先どうなっていくのかという不安が参拝者に見え隠れしていたそうです。
 「震災以降、出羽三山神社では毎日、震災復興を祈っています。しかし、復旧作業が進まない現況にあって3年目の今年は、かつて民衆に手を差しのべ救ってくださった開祖蜂子皇子に、全国の皆さんにも祈っていただくために御尊像を公開することに致しました。」と出羽三山神社の吉住さん。
 人々の苦悩を一身に引き受けた蜂子皇子。その尊いお姿を拝観していただき、被災者の方の心の平安と被災地の一日も早い復興を共に祈るための旅に出かけみてはいかがでしょうか。
という趣旨なので我々一行もその趣旨に賛同して、お祓い料500円を納め、特別参拝をしてきました。
 蜂子神社の中は外からは見えないように白い幕が張られています。
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 順路どおりに次は出羽三山神社三神合祭殿、左から湯殿山・月山・出羽神社の順にお参りできます。
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 境内には芭蕉が出羽三山で詠んだ句碑も建てられています。
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 左から「涼しさやほの三日月の羽黒山、加多羅禮努湯登廼仁奴良須當毛東迦奈(かたられぬゆどのにぬらすたもとかな)、雲の峯いくつくづれて月の山」真ん中の句は何故漢字だけで読ませようとしたのでしょうか。湯殿山の事は語ってはいけないという言い伝えに起因するのかも知れません。
 
 しかし陸奥のこの地にスケールの大きな神社を良く造りましたね。

 次に庄内映画村を訪ねる予定でしたが、ナビの案内した場所には無かったので、藤沢周平記念館に向かいました。鶴ケ岡城の跡が大きな公園になりその一角に記念館はあります。
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 着いたのは12:00を少し回っていました。
花のあと、たそがれ清兵衛、隠し剣鬼の爪などなど、藤沢文学は映画でしか観たことがありませんが、下級武士の悲哀をよく描いていますね。略歴をみると山形師範を卒業後、中学校の教師になるも肺結核になり休職、6年間の闘病後業界紙の記者になり、その後小説家デビューを果たしたのだそうです。苦労された経験が読者の共感を呼ぶもとになっているのでしょう。今度は原作を読むつもりです。

 ここの公園内には見るところがいっぱいありますが、残念ながら時間です。帰りは日本海東北自動車道経由関越道で新潟回りで帰って来ました。熊谷の自宅到着は19:30、往復の走行距離は約1,050kmでした。



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 余談ですが現在NHKラジオ第二古典講読(毎週土17:00~17:45、再放送毎週日6:00~6:45)「奥の細道~名句でたどるみちのくの旅」を放送しています。講師は佐藤 勝明(和洋女子大学 副学長)さん、語りはNHK元アナ加賀美幸子さん、先週は第11回那須湯本温泉の殺生石の場面でした。1年間かけて芭蕉の旅を取り上げるそうですので、毎回楽しく聴いています。


芭蕉の足跡を訪ねて(鶴岡市ほとりあ)

2014-06-12 05:01:23 | 憲ちゃんとの旅
 ここからは奥のほそみちから少し寄り道をします。

 車を走らせていると、右手に鳥海山、左手に月山が見えてきました。鳥海山には雪形の「種まき爺さん」が現れています。
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 当時は映画おくりびとのロケ地をメインに訪ねたため、鶴岡方面に来たのは高館山周辺だけでした。もちろん「ほとりあ」もまだ出来ていませんでした。

 いよいよ、鶴岡の「ほとりあ」にやって来ました。
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 自然写真家の斎藤さんがお待ちかねです。簡単に同行の憲ちゃんを紹介してお蕎麦屋さんに向かいます。
「寝覚屋半兵エ」という変わった名前のお蕎麦屋さんです。駐車場には車がいっぱい止まっていて、中には春日部ナンバーの車もありました。
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 お店の写真はあるのですが、肝心のお蕎麦の写真がありません。どうやら食べるのに夢中になって忘れたようです。いただいたのはお蕎麦と麦切り(細めのうどんです)の合い盛りです。
 
 食事後、斎藤さんの案内で高館山を散策しました。最初に出会ったのはベニシジミです。
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 止まっているこの花、良く見かける花ですが名前が分かりません。すかさず斎藤さんがハルジオンですよと教えてくれます。

 小生はこちらに来てもノルディックウォークです。
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 マイナスイオンたっぷりの散策です。
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 山の地図のコメントも書いている斎藤さんには、古い石塔も気になるようです。
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 次に斎藤さんが見つけたのはアカスジキンカメムシの幼虫。
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 5齢幼虫だそうですが、これがあの嫌な臭いを発するカメムシの幼虫とは、なかなか想像できません。散策も終盤になった頃、大きなブナの木がありました。良く見ると上部から濃い線が見えます。樹幹流と呼ぶそうです。
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 ブナは水を集めるのが上手な樹木。枝葉が受け止めた雨水を、効率よく根まで運ぶために、幹に水の通り道を作っているのだそうです。ブナを漢字で書くと「橅」木へんに無しですが、こんなに水源を守る役割を果たしているのに、ちょっと可哀そうですね。

 約2時間の散策を終えて「ほとりあ」に戻って来ました。斎藤さんの解説付きで写真を鑑賞、森のいのちをみつめて「きみとぼくとのセンス・オブ・ワンダー」が良いですね。Wikの力をお借りすると「一定の対象(SF作品、自然等)に触れることで受ける、ある種の不思議な感動、または不思議な心理的感覚を表現する概念であり、それを言い表すための言葉である」
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 また機会があればリピーターになりたいと思います。時間が早ければこれから藤沢周平記念館に足を伸ばそうとしましたが、明日に伸ばしてホテルに向かいました。今夜の宿は鶴岡駅前のホテルルートイン鶴岡駅前です。

 次回は奥のほそみちに戻って出羽三山(羽黒山)です。


芭蕉の足跡を訪ねて(最上川)

2014-06-11 11:05:36 | 憲ちゃんとの旅
 銀山温泉を発って最初に向かった先は最上川の船番所です。途中、本合海付近に芭蕉と曽良が乗船した場所があるとガイドブックで確認していたので、その付近に行って見ましたが探し当てられませんでした。
代わりに金子兜太夫妻の句碑を発見。
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 郭公の声降りやまぬ地蔵渦 兜太
 ひぐらしの網かぶりたり八向楯 皆子
 いずれもこの付近の名所を詠んだ挨拶句のようです。平成24年に建てられた碑でまだ句もハッキリ読めます。

 もう少し良く探せばこの近くに乗船地もあったようです。

 先を急ぐため戸沢村古口にある船番所に向かいます。ここから最上川舟下りが出来ますが、マイカーのため一人が乗って、一人が下流の草薙港で待たなければなりません。
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乗船料金2,030円も惜しいし、川の色を見てその気が失せてしまいました。雪解け水の頃はいつもこんな濁った川のようですね。
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 代わりに芭蕉丸の前でパチリ。
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 ここには「国保発祥の地」の大きな看板が立っていました。
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 戸沢村のHPによれば
>「この地山形県最上郡戸沢村大字角川村は、僻地で交通の便悪く、医師のいない村として民生の上まことに困難を感じた人達が、その対策としてできたのが、角川村保険組合で、昭和11年4月から発足した。昭和13年7月国民健康保険組合に改め、設立認可第1号をもって全国市町村にさきがけし、国保本来の使命である相扶共済の精神を旨として実践、現在に至ったものである。
 時代は進み、社会保障制度は著しく進展をみせ、特に国保の拡充愈々重大性を帯び、幸福はまず健康からの感を深くするものである。
 本来創設以来20周年を迎え発祥のちに記念碑を建て、これを後世に伝える。」
記念碑は別の場所にありますが、小生も無医村に育った経験から、他人事には思えません。

 いよいよ今日のメインの鶴岡市自然学習交流館「ほとりあ」に向かいますが、またここで道草です。車を走らせていると前方に大きな堰が見えてきました。
 最上川さみだれ大堰です。ここではフィッシュギャラリーが設置されていて、遡上する魚を見られると説明板にあります。それに何の目的で設置された堰なのかも知りたかったので、インターホンを押して案内をお願いしました。若いお姉さんの説明では、堰を造った目的は、上流の農業用水の取水を容易にするために、この堰で水位を上げてやるのだそうです。模型のゴム堰も展示されていましたが、空気を送り込んで膨らませて、堰き止め水位を上げるとのこと。
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 フィッシュギャラリーは地下に降りて、魚道を遡上する魚をガラス越しに見ます。
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でもこの濁りでは見えないだろうと思ったとおりでした。わずかに小さな魚を見ることができましたが、地下に降りるので、雪解け水が入らない夏場がお勧めかも知れません。

 次回はいよいよ、鶴岡の「ほとりあ」です。


芭蕉の足跡を訪ねてPart3(銀山温泉)

2014-05-31 06:23:00 | 憲ちゃんとの旅
 さて今夜の泊まりの銀山温泉にやって来ました。マイカーで温泉街手前の駐車場に着くと、旅館の車が待っていました。迎えの車に乗り観光案内所の手前で降りて、観光案内を聞きながら、今夜の宿「古勢起屋別館」に到着。大正浪漫の温泉街には18:00になるとガス灯が灯るそうです。
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 長旅の疲れを取るように早速お風呂に入りました。源泉の温度は63.8℃でそのかけ流しですから、少し水でうめないと入れません。良いお風呂でした。夕食の前にガス灯の灯った温泉街をパチリ。
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 夕食はこんな感じ。
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 二日前が誕生日だった憲ちゃんのお祝いで乾杯!
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 さー坊がgaccoの講座「中世の自由と平等」を優秀な成績で修了したことをお祝いして乾杯!
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 すっかり出来上がってしまい、NHKの大河ドラマも見ないで寝込んでしまいました。

  翌朝も良い天気です。5時少し過ぎに朝風呂。朝食の前に温泉街を散策しました。コースマップはこちらをご覧ください。
http://www.ginzanonsen.jp/sansaku.html

 上流の白銀公園を目指して歩いていくと二本の大きな滝が見えて来ました。ここが白銀の滝スタート地点です。
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 ほぼコース通りに歩きましたが、一部雪の影響もありましたので、足元に注意しながら進みます。ミニ奥入瀬を歩いている感覚です。以下はほとんど「銀山温泉公式サイト」からの転載です。

 滝の反対側に大きな石碑があります。結城豊太郎(臨雲 元大蔵大臣)の石碑だそうです。
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 「飛瀑 千 丈 日 永に心 洗ふか南   臨雲」

赤湯出身の方で、第15代日本銀行総裁になった方です。歌碑はせことい橋を渡り右側の高台に設置されています。
 間もなく行くと斎藤茂吉の歌碑がありました。
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「蝉のこゑ  ひヾかうころに 文殊谷 吾もわたりて 古へおもほゆ」

齋藤茂吉は昭和21年1月30日から22年11月3日まで1年10ヵ月を大石田(二藤部兵右衛門家のはなれ「聴禽書屋(ちょうきんしょおく)」)で過ごしています。この歌は、昭和20年8月26日に能登屋旅館に泊まり翌日、田中家の別荘(そば処滝見館の滝側)で一休みした後に出かけて詠んだ歌です。文殊谷とは、滝附近のことを言ったようです。銀が産出した時代の活気ある賑やかさを表現したようです。歌集『白き山』にも載せられています。

 少し上ると夏しらず坑に来ました。 風穴と同じでしょうか。
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 やって来ました。ここが旧延沢銀山坑道の入口です。
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 ここの銀山は「焼き堀り」という工法で採掘したのだそうです。その方法はタガネやノミを使わずに、薪などを燃やして目的の岩盤を熱し、その後水を撒いて急冷させそういうことを何度も繰り返すことで、岩盤を脆くさせ採鉱したそうです。ですから採掘したところは黒く煤けています。
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最盛期には島根の石見、兵庫の生野とともに三大銀山と呼ばれ、2万5千人の人々が住んでいたのだそうです。
 
 坑道を出て少し上るとこの銀山を発見した儀賀市郎左衛門(ぎがいちろうざえもん)の像があります。金沢の人で巡礼の途中でこの銀山を発見したとか。
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 銀山温泉に戻る途中、フキノトウ・ショウジョウバカマ・キイチゴの花が咲いています。
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 今度は泊まった古勢起屋別館から下流側に足を伸ばします。

 足湯を過ぎると古山閣さんの壁には左官屋さんが鏝で年間の行事を描いた鏝絵が見えます。
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 宿に戻って朝食、最後に抹茶が出てきたのにはビックリ!

 名残り惜しいけど次の目的地最上川船番所に向かいます。

 この続きはまた日を改めてアップします。


芭蕉の足跡を訪ねてPart2

2014-05-23 14:17:42 | 憲ちゃんとの旅
 山寺を出発したのは13時過ぎでした。来迎寺そば作兵衛さんに到着したのが14時頃。お客は私たちだけで、後から二人組のカップルが来店。このお店は玄関のカウンターで注文してから席に着きます。セミセルフといった感じですね。来迎寺とは蕎麦の産地の名前です。
 
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憲ちゃんは板そばと鰊、さー坊は板そば大盛りとおでんを注文。
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以下お店のHPから転載
 山形は古代よりそば栽培の文化を受け継ぐ蕎麦のふるさと。その中心部に位置する大石田町は、蕎麦栽培に適したところ、蕎麦の里として知られている。特に大石田町来迎寺地区では、古代より来客に蕎麦を打ってもてなしたと言う。栽培が最もさかんな地区で、文字通りちょっと太めのこしのある「田舎蕎麦」である。
お店の説明のとおり太めでこしのある美味しいお蕎麦でした。メニューはこれだけです。
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 腹ごしらえが終わって、次に向かったのが乗舩寺。釈迦涅槃像があります。お堂の中に安置されていますので小窓を開けて覗かないと見えません。京都の有名な仏師の作だそうです。写真は撮れませんのでお寺の案内でご覧下さい。

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 実際の涅槃堂です。釈迦涅槃像参拝の方はこの白扉を開けてお参り下さいとあります。
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乗舩寺には歌人斎藤茂吉のお墓もあります。

 その次に向かったのは、芭蕉・清風歴史資料館です。芭蕉は俳句の弟子で旧友だった鈴木清風の家に3日、近くの養泉寺に7泊したのだそうです。その清風は紅花や金融で巨額の富を得ていた豪商ですが、芭蕉曰く「かれは富める者なれど、志いやしからず」と評しています。
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 小生もひとつNHKのラジオ第二の情報を提供してきました。

 また清風伝説には次のようなものがあります。
 鈴木清風は、芭蕉とも親交のあった俳人であるが、本業は「島田屋」という商家の三代目で”紅花大尽”と呼ばれる程の豪商でもあった。元禄11年の夏、紅花の商いに江戸に上った清風を、江戸の商人たちは、清風を田舎商人と甘く見て”不買同盟”を結んで妨害した。それに対し清風は智略でこれを突破、三万両の利益を得た。「尋常の商売で得た金ではない、きれいさっぱり使い切る。」と言って、吉原の大門を3日3晩閉め切って遊女達に休養を与えた-----。と言う豪気な逸話等が残されている。

 凡人が考えるように、吉原を借り切って遊ぶというのでは逸話にならないでしょうね。

 養泉寺には「涼しさを我が宿にしてねまるなり」の句碑(涼塚)が残されています。
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 さてこれから本日の泊まりの銀山温泉です。