先日長瀞の法善寺にお邪魔して大野百樹さんの襖絵を見せていただいた折、別のお宝も拝見させていただきました。それは自然銅です。下の写真がそれで、製錬の必要が無いほどの銅を含んだ鉱石なのだそうです。
一番大きいものがこちら。
他にもあります。
国立博物館の資料によれば
これまで我が国の銅の生産が始まったのは、続日本書紀にA.D.698年銅鉱産出との記録があるが、一般には西暦708年武蔵国秩父郡で発見された自然銅であるとされている。朝廷ではこれにちなんで年号を慶雲から和銅に改め、我が国最初の貨幣とされる「和同開珎」が出来たと言われている。しかし近年になって、銅はもっと早くから造られたのではと考えられるようになった。飛鳥池遺跡から出土した富本銭は遺構の層位関係や共伴遺物によって鋳造年代が700年以前に遡ることが確認されている。
従って、小生が小中学校時代に定説となっていた「日本最古の銅産出地」という和銅遺跡は、最近では「日本最古の銅の露天掘り跡」と表記を変えています。
この地の「銅の入り」で発見された自然銅は、和銅から遅れること770年後、文明年間の後土御門天皇の時代に、法善寺の近くの銅の入からも発見された。写真の自然銅は銅の入から根古屋城主が採掘し、寺に献納されたと伝えられている。ご住職に銅の入の採掘跡に行く道を教えていただき、早速行ってみました。採掘跡は3ヶ所ありますが、山路から見られるのは2ヶ所です。鳥居をくぐって第1の採掘跡は二つ目の砂防ダムの直ぐ上に有りました。
採掘跡に登る道は緑が滴るようなオゾンいっぱいの道です。
さらに上ると分岐点の近くに第3の採掘跡が有りました。こちらの方が大きい坑です。戦時中、金属の枯渇した時代に採掘話もあったそうですが、埋蔵量の関係で見送られたとも。
まだ時間があったので、和銅遺跡の方にも行ってみました。
札所巡りの時には、写真撮影に忙しく聖神社もあまり良く見ていなかったので、ここから見直しました。
驚いたことにこの社殿は秩父の今宮神社の本殿が移築されたものなのだそうです。道理で格式が高く感じられると思いました。
ここから和銅露天掘跡までは歩いても行ける距離ですが、今回は車で行きました。入り口の少し上に駐車場があります。沢筋まで降りて行くと、和銅開珎の大きなモニュメントがありました。
さらに急な山路を行くと、行止まりが露天掘跡です。銅の入のような横穴は無いんですね。
皆さんも機会がありましたら、秩父の銅の歴史を訪ねて、1300年前にタイムスリップしてみては如何でしょう。
一番大きいものがこちら。
他にもあります。
国立博物館の資料によれば
これまで我が国の銅の生産が始まったのは、続日本書紀にA.D.698年銅鉱産出との記録があるが、一般には西暦708年武蔵国秩父郡で発見された自然銅であるとされている。朝廷ではこれにちなんで年号を慶雲から和銅に改め、我が国最初の貨幣とされる「和同開珎」が出来たと言われている。しかし近年になって、銅はもっと早くから造られたのではと考えられるようになった。飛鳥池遺跡から出土した富本銭は遺構の層位関係や共伴遺物によって鋳造年代が700年以前に遡ることが確認されている。
従って、小生が小中学校時代に定説となっていた「日本最古の銅産出地」という和銅遺跡は、最近では「日本最古の銅の露天掘り跡」と表記を変えています。
この地の「銅の入り」で発見された自然銅は、和銅から遅れること770年後、文明年間の後土御門天皇の時代に、法善寺の近くの銅の入からも発見された。写真の自然銅は銅の入から根古屋城主が採掘し、寺に献納されたと伝えられている。ご住職に銅の入の採掘跡に行く道を教えていただき、早速行ってみました。採掘跡は3ヶ所ありますが、山路から見られるのは2ヶ所です。鳥居をくぐって第1の採掘跡は二つ目の砂防ダムの直ぐ上に有りました。
採掘跡に登る道は緑が滴るようなオゾンいっぱいの道です。
さらに上ると分岐点の近くに第3の採掘跡が有りました。こちらの方が大きい坑です。戦時中、金属の枯渇した時代に採掘話もあったそうですが、埋蔵量の関係で見送られたとも。
まだ時間があったので、和銅遺跡の方にも行ってみました。
札所巡りの時には、写真撮影に忙しく聖神社もあまり良く見ていなかったので、ここから見直しました。
驚いたことにこの社殿は秩父の今宮神社の本殿が移築されたものなのだそうです。道理で格式が高く感じられると思いました。
ここから和銅露天掘跡までは歩いても行ける距離ですが、今回は車で行きました。入り口の少し上に駐車場があります。沢筋まで降りて行くと、和銅開珎の大きなモニュメントがありました。
さらに急な山路を行くと、行止まりが露天掘跡です。銅の入のような横穴は無いんですね。
皆さんも機会がありましたら、秩父の銅の歴史を訪ねて、1300年前にタイムスリップしてみては如何でしょう。