からっ風と、繭の郷の子守唄(16)
「あれから10年。いまの貞園と康平は」
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「今から考えてみても・・・・きっとあそこが運命の分かれ道だったのよ。私たちの。
そこそこに良い雰囲気が漂っていたんだもの、私たち。
あの時のヤドリギの下で、思い切ってキスさえしておけば新しい可能性も開けたというのに。
あなたが躊躇ってしまうから、10年後に、こんな風になってしまったのよ。
ねぇ。聞いてる?、康平ったら」
カラリと指で、いつものようにグラスをかき回しながら貞園が、カウンター越しに
酔った目を康平へ向けています
「私だって、少しくらい期待はしていたのよ。
あの直後に、あなたが誰の絵がすきなのなんて、とても下らない質問をするもんだから、
その気がどこかへ吹き飛んでしまったじゃないの。
そりゃぁ、いわさきちひろの絵は大好きよ。
水彩のにじみや、淡い輪郭の書き方は大好きだし、第一彼女が描く多くの子供たちの
生き生きとした表情には、素晴らしいほどの生命力が溢れているもの。
東京のちひろ美術館にも、当たり前のように毎日通ったし、
安曇野に完成をしたばかりのいわさきちひろ美術館へも、足繁く通いました。
肩書きは絵本作家でも、彼女の水彩画は、
間違いなく一級の美術作品だと思うし、世界に通じる芸術だと思う」
「出来たよ」と、貞園の前へ野菜の小鉢が突き出されます。
ナスをたっぷりの油で炒め、昆布とかつおでしっかりと摂った出汁汁で15分ほど煮たあとに
冷蔵庫で30分ほど冷やすと、暑い夏にはピッタリの「茄子の煮浸し」が完成をします。
赤城山のツーリングから戻ってきた直後に、康平が旬の夏野菜を使って
貞園のために作った最初の料理が、まさにこの「茄子の煮浸し」です。
「4月に入ったばかりだというのに、もう夏野菜の茄子が登場するの?
10年も経つと、野菜の旬まであやふやになってしまうのね。
そういえば、どうしているんだろう。
あなたの同級生の五六ちゃんのところの、あの美人の双子姉妹は」
「この春からめでたくあの美人の双子も、中学生になった。
その茄子も、五六がビニールハウスで育てた初物を、わざわざ今朝に届けてくれたものだ。
確かに路地で育てる野菜の数は昔から見れば格段に減ったが、その代わりにこうして
ハウス物が、少し早い時期から市場に出回るようになった。
10年も経てば時代も変わるし、野菜を取り巻く環境もすこぶる変わる」
「人も、すっかり変わるのよねぇ。
いつの間にかの、愛人暮らしだもの・・・・私はどこまで変わっていくんだろう。
10年前には想像できなかった自分が、いまここに確かな現実として存在をして居るもの」
煮物の手を止めた康平が、腰に手を置いたまま貞園を見つめます。
ふいの眼差しを感じた貞園が、頬肘をついたまま、目線だけを康平へ向け直します。
「君はなにひとつとして、変わってはいないさ。
まっすぐに人を見つめる、君の眼差しは昔のままだし、
思ったことをすぐ口にしてしまう天衣無縫というか、開けっ放しで開放的な性格は、
あの頃と、なにひとつとして変わっていない。
ただひとつだけ、変わってしまったことを除けば、ねっ・・・・」
(ただひとつだけ、変わってしまった事が有る?・・・・なんなの、それって一体)
貞園の挑むような目が、次に続くべき言葉を飲み込んだまま、再び煮物の作業に
没頭し始めた康平の背中を、鋭く見つめます。
落し蓋を手にした康平は、ガスを再点火させるとその炎を、米粒大まで小さく加減をしていきます。
実が柔らかく煮崩れしやすい根菜類や、だし汁の旨みをしっかり野菜たちへ含ませたい時に、
康平がよく用いる「いじめ煮」と呼ばれている古くからの和食の調理方法です。
いじめ煮では、けっして沸騰などをさせません。
透き通った美味しいだし汁を保つためにも、強火を極力避け、チョロチョロ以下の
米粒ほどの弱火で、じっと我慢の子で最小限の熱だけを加え続けていくのです。
おでんなどを仕込む時にも、よく使われている技法です。
決して沸騰させることなく、100℃以下を維持をすることにより、具の持ち味とツユの旨みが
交互に出たり入ったりを繰り返しながら、おでんの美味しさが完成をしていきます。
「弱火」と「とろ火」は煮物を美味しく完成させる、優れた隠し技のひとつです。
また別の調理法として、何度かに分けて素材へ火入れをするという場合もあります。
素材に味を染み込ませるためのタイミングとして、冷える際の吸収力を利用するのです。
主に繊維質が多い野菜類などには、極めて有効となる味の滲み込ませ方です。
1~2分ほど軽く沸騰したら、その場で火を止めてしまいます。
急速に冷やす場合には、氷を入れた冷水に漬ける手段などもありますが、
多くの場合が、放置をしたまま自然にまかせて粗熱(あらねつ)を冷まします。
ある程度まで冷めたところで、再び沸騰するまで加熱をします。
これを繰り返すことで、素材の形を崩すことなく味をしっかりと含ませ、
さらに、素材の味も併せてしっかりと引き出すことができるようになります。
こちらも古くから伝えられてきた、煮物の奥義のひとつです。
鋭く挑むように、いつまでも見つめ続けてくる貞園の気配に、ようやく康平も気がつきます。
(おっ。何故か本気で怒ったような目をしているぞ、貞園のやつ・・・・
ここで迂闊なことを言うと、後で油断をした時にいきなり寝首をかかれてしまいそうだ。
こいつ。本当は、今の愛人暮らしに引け目を感じているから、
その話題に触れるのだけは、タブーだからな。まいったなぁ、ヤブヘビだ・・・・
俺も、ついうっかりと余計な事を口走ってしまったなぁ)
うまくごまかそうと考えている康平の想いを、見事に見透かした貞園がカウンター越しに、
鋭い爪を胸に忍ばせたまま鼻にかかった甘い声で、そっと、背後から襲いかかります。
「言ってご覧よ、康平くん。
いまさらあなたから何を言われても、もう、びっくりなんかしないもの。
だからさぁ・・・・
何度も言うけど、私たちはあの時に遠慮なんかしないで、キスをしておけば良かったのよ。
覚満淵で見たあのミズナラに宿っていた、大きな恋人たちのヤドリギが、
私たちに巡ってきた、最初の、とても大きなチャンスだったのよ。
あなたが何故か躊躇をするものだから、最初の大きなチャンスを逃してしまったの。
だから、いまだに、こうして、いつまで経ってもすれ違ってばかりいるんだわ。私たち」
「あれ・・・・あん時の君は、すっかりその気でいたのかい?
おかしいなぁ、初耳だなぁ。まったく気ずかずにいたぜ、あん時の俺たちは」
「それが証拠に、あれから1ヶ月後にあたしは前橋へ引越をしてきたでしょう。
あなたに会いたいために、不便極まりのない北関東の田舎町へ英断の思いで引っ越してきたのよ。
それもまた、2度目の決定的なチャンスだったというのに、
あなたは、またまたその2度目も、平然として見送ってしまうんだもの。
あたしはそれ以上、一体どうしたら良かったのさ、まったく・・・・
ねぇぇ。あなたは絶好球のストライクを、2度も立て続けに見送ったのよ。
なんで自分から絶好球を2つも見送って打席の決定的なピンチにたち続けているわけ?
で、さぁ、一体なんなのよ。
私が変わってしまったという、たったひとつの事って・・・・
やっぱり気になるし、どうしてもちゃんと聞かせてもらいます!
言いなさいよ、男らしく、きっぱりと。
いったい、私の何が、どこでどんな風にかわってしまったと言うの」
今夜の少々、虫の居所の悪い貞園の剣幕は、ちっとやそっとでは収まりそうにありません。
どうしたもんかなぁ・・・と、康平も進退に極まっています。ふたりが出会って早10年。
10年かかっても恋人同士に収まらなかった二人が、初夏が近づいてきた呑竜マーケットの
康平の店でカウンターを挟み、お互いに手探りの火花を今夜も静かに散らしています。
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・「新田さらだ館」は、
日本の食と農業の安心と安全な未来を語る、地域発のホームページです
http://saradakann.xsrv.jp/
「あれから10年。いまの貞園と康平は」
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「今から考えてみても・・・・きっとあそこが運命の分かれ道だったのよ。私たちの。
そこそこに良い雰囲気が漂っていたんだもの、私たち。
あの時のヤドリギの下で、思い切ってキスさえしておけば新しい可能性も開けたというのに。
あなたが躊躇ってしまうから、10年後に、こんな風になってしまったのよ。
ねぇ。聞いてる?、康平ったら」
カラリと指で、いつものようにグラスをかき回しながら貞園が、カウンター越しに
酔った目を康平へ向けています
「私だって、少しくらい期待はしていたのよ。
あの直後に、あなたが誰の絵がすきなのなんて、とても下らない質問をするもんだから、
その気がどこかへ吹き飛んでしまったじゃないの。
そりゃぁ、いわさきちひろの絵は大好きよ。
水彩のにじみや、淡い輪郭の書き方は大好きだし、第一彼女が描く多くの子供たちの
生き生きとした表情には、素晴らしいほどの生命力が溢れているもの。
東京のちひろ美術館にも、当たり前のように毎日通ったし、
安曇野に完成をしたばかりのいわさきちひろ美術館へも、足繁く通いました。
肩書きは絵本作家でも、彼女の水彩画は、
間違いなく一級の美術作品だと思うし、世界に通じる芸術だと思う」
「出来たよ」と、貞園の前へ野菜の小鉢が突き出されます。
ナスをたっぷりの油で炒め、昆布とかつおでしっかりと摂った出汁汁で15分ほど煮たあとに
冷蔵庫で30分ほど冷やすと、暑い夏にはピッタリの「茄子の煮浸し」が完成をします。
赤城山のツーリングから戻ってきた直後に、康平が旬の夏野菜を使って
貞園のために作った最初の料理が、まさにこの「茄子の煮浸し」です。
「4月に入ったばかりだというのに、もう夏野菜の茄子が登場するの?
10年も経つと、野菜の旬まであやふやになってしまうのね。
そういえば、どうしているんだろう。
あなたの同級生の五六ちゃんのところの、あの美人の双子姉妹は」
「この春からめでたくあの美人の双子も、中学生になった。
その茄子も、五六がビニールハウスで育てた初物を、わざわざ今朝に届けてくれたものだ。
確かに路地で育てる野菜の数は昔から見れば格段に減ったが、その代わりにこうして
ハウス物が、少し早い時期から市場に出回るようになった。
10年も経てば時代も変わるし、野菜を取り巻く環境もすこぶる変わる」
「人も、すっかり変わるのよねぇ。
いつの間にかの、愛人暮らしだもの・・・・私はどこまで変わっていくんだろう。
10年前には想像できなかった自分が、いまここに確かな現実として存在をして居るもの」
煮物の手を止めた康平が、腰に手を置いたまま貞園を見つめます。
ふいの眼差しを感じた貞園が、頬肘をついたまま、目線だけを康平へ向け直します。
「君はなにひとつとして、変わってはいないさ。
まっすぐに人を見つめる、君の眼差しは昔のままだし、
思ったことをすぐ口にしてしまう天衣無縫というか、開けっ放しで開放的な性格は、
あの頃と、なにひとつとして変わっていない。
ただひとつだけ、変わってしまったことを除けば、ねっ・・・・」
(ただひとつだけ、変わってしまった事が有る?・・・・なんなの、それって一体)
貞園の挑むような目が、次に続くべき言葉を飲み込んだまま、再び煮物の作業に
没頭し始めた康平の背中を、鋭く見つめます。
落し蓋を手にした康平は、ガスを再点火させるとその炎を、米粒大まで小さく加減をしていきます。
実が柔らかく煮崩れしやすい根菜類や、だし汁の旨みをしっかり野菜たちへ含ませたい時に、
康平がよく用いる「いじめ煮」と呼ばれている古くからの和食の調理方法です。
いじめ煮では、けっして沸騰などをさせません。
透き通った美味しいだし汁を保つためにも、強火を極力避け、チョロチョロ以下の
米粒ほどの弱火で、じっと我慢の子で最小限の熱だけを加え続けていくのです。
おでんなどを仕込む時にも、よく使われている技法です。
決して沸騰させることなく、100℃以下を維持をすることにより、具の持ち味とツユの旨みが
交互に出たり入ったりを繰り返しながら、おでんの美味しさが完成をしていきます。
「弱火」と「とろ火」は煮物を美味しく完成させる、優れた隠し技のひとつです。
また別の調理法として、何度かに分けて素材へ火入れをするという場合もあります。
素材に味を染み込ませるためのタイミングとして、冷える際の吸収力を利用するのです。
主に繊維質が多い野菜類などには、極めて有効となる味の滲み込ませ方です。
1~2分ほど軽く沸騰したら、その場で火を止めてしまいます。
急速に冷やす場合には、氷を入れた冷水に漬ける手段などもありますが、
多くの場合が、放置をしたまま自然にまかせて粗熱(あらねつ)を冷まします。
ある程度まで冷めたところで、再び沸騰するまで加熱をします。
これを繰り返すことで、素材の形を崩すことなく味をしっかりと含ませ、
さらに、素材の味も併せてしっかりと引き出すことができるようになります。
こちらも古くから伝えられてきた、煮物の奥義のひとつです。
鋭く挑むように、いつまでも見つめ続けてくる貞園の気配に、ようやく康平も気がつきます。
(おっ。何故か本気で怒ったような目をしているぞ、貞園のやつ・・・・
ここで迂闊なことを言うと、後で油断をした時にいきなり寝首をかかれてしまいそうだ。
こいつ。本当は、今の愛人暮らしに引け目を感じているから、
その話題に触れるのだけは、タブーだからな。まいったなぁ、ヤブヘビだ・・・・
俺も、ついうっかりと余計な事を口走ってしまったなぁ)
うまくごまかそうと考えている康平の想いを、見事に見透かした貞園がカウンター越しに、
鋭い爪を胸に忍ばせたまま鼻にかかった甘い声で、そっと、背後から襲いかかります。
「言ってご覧よ、康平くん。
いまさらあなたから何を言われても、もう、びっくりなんかしないもの。
だからさぁ・・・・
何度も言うけど、私たちはあの時に遠慮なんかしないで、キスをしておけば良かったのよ。
覚満淵で見たあのミズナラに宿っていた、大きな恋人たちのヤドリギが、
私たちに巡ってきた、最初の、とても大きなチャンスだったのよ。
あなたが何故か躊躇をするものだから、最初の大きなチャンスを逃してしまったの。
だから、いまだに、こうして、いつまで経ってもすれ違ってばかりいるんだわ。私たち」
「あれ・・・・あん時の君は、すっかりその気でいたのかい?
おかしいなぁ、初耳だなぁ。まったく気ずかずにいたぜ、あん時の俺たちは」
「それが証拠に、あれから1ヶ月後にあたしは前橋へ引越をしてきたでしょう。
あなたに会いたいために、不便極まりのない北関東の田舎町へ英断の思いで引っ越してきたのよ。
それもまた、2度目の決定的なチャンスだったというのに、
あなたは、またまたその2度目も、平然として見送ってしまうんだもの。
あたしはそれ以上、一体どうしたら良かったのさ、まったく・・・・
ねぇぇ。あなたは絶好球のストライクを、2度も立て続けに見送ったのよ。
なんで自分から絶好球を2つも見送って打席の決定的なピンチにたち続けているわけ?
で、さぁ、一体なんなのよ。
私が変わってしまったという、たったひとつの事って・・・・
やっぱり気になるし、どうしてもちゃんと聞かせてもらいます!
言いなさいよ、男らしく、きっぱりと。
いったい、私の何が、どこでどんな風にかわってしまったと言うの」
今夜の少々、虫の居所の悪い貞園の剣幕は、ちっとやそっとでは収まりそうにありません。
どうしたもんかなぁ・・・と、康平も進退に極まっています。ふたりが出会って早10年。
10年かかっても恋人同士に収まらなかった二人が、初夏が近づいてきた呑竜マーケットの
康平の店でカウンターを挟み、お互いに手探りの火花を今夜も静かに散らしています。
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・「新田さらだ館」は、
日本の食と農業の安心と安全な未来を語る、地域発のホームページです
http://saradakann.xsrv.jp/