からっ風と、繭の郷の子守唄(28)
「二人の思いは空回りをしたまま、上電はひたすら東へと走る」
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「たしかに、君のように華奢な人が15分も山道を歩くのは物騒だ。
住人はほとんど寝静まっていると思うが、最近は、危険な動物たちが出没をしている」
前方を見つめたままの美和子の背中へ、康平が近づきます。
警報器だけが鳴り続けている無人の踏切を越えると、レールが緩やかに右へ湾曲をします。
美和子が降りるはずの「北原」という無人駅のプラットホームが、そろそろとした速度で暗闇の中から
その最先端を現してきました。
「危険な動物って、まさか、クマとか・・・・」
「まさか。赤城の山奥ではあるまいし、クマは出てこない。
保護政策がアダとなりいつのまにか個体数が増えすぎて、異常繁殖を遂げたシカたちだ。
狩猟ハンターたちも高齢化をしたために、いまでは駆除の方が追いつかない有様だ。
山の中であふれたシカたちが、餌場を求めて民家の近くまで夜毎降りてくる。
かれらは夜行性なので、深夜になるとこのあたりの山道にまで出没をするようになった」
「あら、夜中にバンビちゃんが現れるの!。それって、とても可愛いじゃないの」
「あのなあ・・・・それはアニメの世界の話だ。
あくまでも野生の動物だから、そういう次元の話じゃとても済まないんだよ。
オスのシカは巨大な角を持っているし、体長も軽く170cmを超える。
体重だって大きなものになると、軽々と100kgを超えるという超大物もいるらしい。
臆病な性格の持ち主だから常に人を警戒しているが、夜中の出会い頭では
何が起こるか予測はつかない」
「知っています、それくらい。
あたしだって18歳までは、この山里で育った田舎娘です。
へぇぇ、赤城の大沼や小沼の周辺とか、裏赤城の根利の林道などでは
度々目撃をされているけれど、とうとう尾根を越えてこちらの南面まで出没をするように
なったというのは、初耳だわ」
「それほどまでに、シカの個体数が増えすぎてしまったということだ。
シカは、秋に交尾期を迎えて初夏には出産期に入る。
交尾期へ入るとメスシカは24時間だけ発情をして、交尾を受け入れる。
発情を迎えたメスは、複数のオスと交尾をする。
この時に受胎できなかったメスは、約20日後にまた再度発情をして、
その後も受胎するまで、この発情を繰り返すそうだ。
こうした発情期と受胎までの繰り返しは、動物界の中では珍しいことだと言われている。
発情期の確率と受胎率の高さが、シカが大繁殖をとげる根拠となる
妊娠率も、1歳で90%程度、2歳以上になるとほぼ100%と高確率になる。
シカは一夫多妻で、オスの個体数が減少しても繁殖力は一向に衰えない。
そのために個体群増加率は高く、年間に16~20%の勢いで増加をし続け
4年から5年でシカの個体数は、倍になるそうだ」
「たいそうな繁殖力ですこと・・・・
ひとりも産んでいない私にしてみれば、羨ましいというか、耳が痛くなるようなお話です」
カクンという軽い衝撃を起こし、再び動き始めた電車に揺られた美和子が、
思わず康平へ身体を預けるような形のままその胸へ、そっと両手を添えてしまいます。
「あら・・・・降りるはずの駅から、電車が発車をしてしまいました。
降りることに2の足を踏んでいたことを、電車に見透かされてしまったかしら・・・・
うふ。どうしましょう。困りました」
「その割には、ホっとしているようにも見える。
やっぱり、夜道以外にも実家には帰りにくい事情があるのかな」
「兄が先日、ようやくお嫁さんをもらいました。
そのおかげでもう、いつのまにかあたしは嫌われ役の、小姑(こじゅうとめ)です」
「へぇぇ、なるほど・・・・そうすると君は実家では、
お嫁さんから見れば、鬼千匹にも匹敵をするという小姑にめでたく昇進をしたわけだ。
なるほどね。夜道に出会うシカにも怖いものが有るが、邪魔者扱いになっている
実家へ、真夜中に帰るのではいかにも不具合がある。
まったくだ。それも困ったねぇ・・・・」
「いいわよ。
このまま終点まで乗って、桐生の街へ着けばいくつかの行きつけのお店があります。
なんなら漫画喫茶かネットカフェあたりで、夜明かしをしたって平気だもの。
あなたは気にしないで、次のあなたの停車駅で降りて下さい。
あたしのことなら平気だし、ひとりでもなんとかするから大丈夫です」
「大丈夫には見えないから、気になるんだよ。
なんなら付き合おうか。一晩くらいならどうってこともないし、
お袋も気にもしないだろう」
「よく言うわよ。
高校生の時には、あたしをほっぽり出して映画館で一人ぽっちにさせたくせに。
もう一度、チャンスが巡ってくるかもしれないからと信じていたら、
何の連絡もフォローもないうちに、あたしたちはそのまま高校を卒業してしまった。
18歳のあの時の出来事を、今更取り返せるはずはないけれど、
それでもあなたは、あの時のあの罪滅ぼしをしてくれると言うのかしら」
「俺も、あのくらいの失点ならいくらでも取り戻せると、あの時はまったく信じて疑わなかった。
だが、人と人を結びつける決定的なチャンスというものは、実は人生の中で、
それほど多くは無いということが、ようやく今頃になって理解ができた。
あのころは朝の電車に乗りさえすれば、いつでもセーラー服の君が
俺の目の前にいるものだと信じていたし、俺たちの交際は、
いつでも好きな時に、再スタートできると頭から過信をしていた。
君が卒業をして、電車へ乗らなくなる日がやってくるなんてことは夢にも思っていなかった。
東京へ就職をしたと後から聞いたとき、もしかしたらこれが二人の最後かもしれないと
覚悟を決めたけど、それでも心のどこかでは、きっと君は帰ってくると
タカをくくっている自分がいた・・・・」
「あたしも最初は、ただのちょっとしたつまづきだけだと思っていた。
落ち着いたらまた連絡を取りあえばいいと思いながら、忙しい日々を過ごしているうちに、
いつのまにか執着心が消えてしまい、あなたの必要性まで失っているあたしがいたの。
何故だかわかるあなたには?
お互いに好意は認識し合っていたけど、あたしたちには決定的な言葉も、出来事も、
なにひとつとして起こっていないし、ただ心には甘酸っぱい想いだけが充満をしていたの。
だから、高校時代のホロ苦い思い出のひとつとして、いつのまにか風化をはじめたのよ。
あたしはそんな風にして、あなたのことを忘れながら生きてきた・・・・
なのに、ひど過ぎるじゃないの。
呑龍マーケットでようやく再会をしたあなたが、いまだに独り身でいたなんて。
ずるいわよ。ずるすぎます、いまさら」
「ずるい?」
「ずるいわよ。どうやっても後戻りができない女にそんなにも優しくしないで頂戴。
あたしの胸が、どうにも切なくなってしまうもの」
電車が軌道の段差を超えるたびに、ぎりぎりの距離を保っている二人を軽く揺すります。
大間々町の赤城駅を定刻に通過した最終電車は、もうひとつのレールと併走をしながら
終着駅の西桐生駅へと向かって、畑と住宅地がまばらに入り混じった郊外の
景色の中を再びゆっくりと走り始めます。
並行して走るレールは私鉄の東武桐生線で、浅草を目指すレールはしばらく上毛電鉄と
並走を続けた後、次の停車駅の桐生球場駅から緩やかに右へカーブを描いてさらに南下を続けます。
「次に来る桐生球場前駅は、つい最近誕生をしたばかりの上電の最新駅だ。
2年ばかり調理師修行で桐生へ通ったことがあるが、その時に何度か寄った郊外の店がそこにある。
次で降りよう。まもなく桐生球場前駅だ」
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・「新田さらだ館」は、
日本の食と農業の安心と安全な未来を語る、地域発のホームページです
http://saradakann.xsrv.jp/
「二人の思いは空回りをしたまま、上電はひたすら東へと走る」
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「たしかに、君のように華奢な人が15分も山道を歩くのは物騒だ。
住人はほとんど寝静まっていると思うが、最近は、危険な動物たちが出没をしている」
前方を見つめたままの美和子の背中へ、康平が近づきます。
警報器だけが鳴り続けている無人の踏切を越えると、レールが緩やかに右へ湾曲をします。
美和子が降りるはずの「北原」という無人駅のプラットホームが、そろそろとした速度で暗闇の中から
その最先端を現してきました。
「危険な動物って、まさか、クマとか・・・・」
「まさか。赤城の山奥ではあるまいし、クマは出てこない。
保護政策がアダとなりいつのまにか個体数が増えすぎて、異常繁殖を遂げたシカたちだ。
狩猟ハンターたちも高齢化をしたために、いまでは駆除の方が追いつかない有様だ。
山の中であふれたシカたちが、餌場を求めて民家の近くまで夜毎降りてくる。
かれらは夜行性なので、深夜になるとこのあたりの山道にまで出没をするようになった」
「あら、夜中にバンビちゃんが現れるの!。それって、とても可愛いじゃないの」
「あのなあ・・・・それはアニメの世界の話だ。
あくまでも野生の動物だから、そういう次元の話じゃとても済まないんだよ。
オスのシカは巨大な角を持っているし、体長も軽く170cmを超える。
体重だって大きなものになると、軽々と100kgを超えるという超大物もいるらしい。
臆病な性格の持ち主だから常に人を警戒しているが、夜中の出会い頭では
何が起こるか予測はつかない」
「知っています、それくらい。
あたしだって18歳までは、この山里で育った田舎娘です。
へぇぇ、赤城の大沼や小沼の周辺とか、裏赤城の根利の林道などでは
度々目撃をされているけれど、とうとう尾根を越えてこちらの南面まで出没をするように
なったというのは、初耳だわ」
「それほどまでに、シカの個体数が増えすぎてしまったということだ。
シカは、秋に交尾期を迎えて初夏には出産期に入る。
交尾期へ入るとメスシカは24時間だけ発情をして、交尾を受け入れる。
発情を迎えたメスは、複数のオスと交尾をする。
この時に受胎できなかったメスは、約20日後にまた再度発情をして、
その後も受胎するまで、この発情を繰り返すそうだ。
こうした発情期と受胎までの繰り返しは、動物界の中では珍しいことだと言われている。
発情期の確率と受胎率の高さが、シカが大繁殖をとげる根拠となる
妊娠率も、1歳で90%程度、2歳以上になるとほぼ100%と高確率になる。
シカは一夫多妻で、オスの個体数が減少しても繁殖力は一向に衰えない。
そのために個体群増加率は高く、年間に16~20%の勢いで増加をし続け
4年から5年でシカの個体数は、倍になるそうだ」
「たいそうな繁殖力ですこと・・・・
ひとりも産んでいない私にしてみれば、羨ましいというか、耳が痛くなるようなお話です」
カクンという軽い衝撃を起こし、再び動き始めた電車に揺られた美和子が、
思わず康平へ身体を預けるような形のままその胸へ、そっと両手を添えてしまいます。
「あら・・・・降りるはずの駅から、電車が発車をしてしまいました。
降りることに2の足を踏んでいたことを、電車に見透かされてしまったかしら・・・・
うふ。どうしましょう。困りました」
「その割には、ホっとしているようにも見える。
やっぱり、夜道以外にも実家には帰りにくい事情があるのかな」
「兄が先日、ようやくお嫁さんをもらいました。
そのおかげでもう、いつのまにかあたしは嫌われ役の、小姑(こじゅうとめ)です」
「へぇぇ、なるほど・・・・そうすると君は実家では、
お嫁さんから見れば、鬼千匹にも匹敵をするという小姑にめでたく昇進をしたわけだ。
なるほどね。夜道に出会うシカにも怖いものが有るが、邪魔者扱いになっている
実家へ、真夜中に帰るのではいかにも不具合がある。
まったくだ。それも困ったねぇ・・・・」
「いいわよ。
このまま終点まで乗って、桐生の街へ着けばいくつかの行きつけのお店があります。
なんなら漫画喫茶かネットカフェあたりで、夜明かしをしたって平気だもの。
あなたは気にしないで、次のあなたの停車駅で降りて下さい。
あたしのことなら平気だし、ひとりでもなんとかするから大丈夫です」
「大丈夫には見えないから、気になるんだよ。
なんなら付き合おうか。一晩くらいならどうってこともないし、
お袋も気にもしないだろう」
「よく言うわよ。
高校生の時には、あたしをほっぽり出して映画館で一人ぽっちにさせたくせに。
もう一度、チャンスが巡ってくるかもしれないからと信じていたら、
何の連絡もフォローもないうちに、あたしたちはそのまま高校を卒業してしまった。
18歳のあの時の出来事を、今更取り返せるはずはないけれど、
それでもあなたは、あの時のあの罪滅ぼしをしてくれると言うのかしら」
「俺も、あのくらいの失点ならいくらでも取り戻せると、あの時はまったく信じて疑わなかった。
だが、人と人を結びつける決定的なチャンスというものは、実は人生の中で、
それほど多くは無いということが、ようやく今頃になって理解ができた。
あのころは朝の電車に乗りさえすれば、いつでもセーラー服の君が
俺の目の前にいるものだと信じていたし、俺たちの交際は、
いつでも好きな時に、再スタートできると頭から過信をしていた。
君が卒業をして、電車へ乗らなくなる日がやってくるなんてことは夢にも思っていなかった。
東京へ就職をしたと後から聞いたとき、もしかしたらこれが二人の最後かもしれないと
覚悟を決めたけど、それでも心のどこかでは、きっと君は帰ってくると
タカをくくっている自分がいた・・・・」
「あたしも最初は、ただのちょっとしたつまづきだけだと思っていた。
落ち着いたらまた連絡を取りあえばいいと思いながら、忙しい日々を過ごしているうちに、
いつのまにか執着心が消えてしまい、あなたの必要性まで失っているあたしがいたの。
何故だかわかるあなたには?
お互いに好意は認識し合っていたけど、あたしたちには決定的な言葉も、出来事も、
なにひとつとして起こっていないし、ただ心には甘酸っぱい想いだけが充満をしていたの。
だから、高校時代のホロ苦い思い出のひとつとして、いつのまにか風化をはじめたのよ。
あたしはそんな風にして、あなたのことを忘れながら生きてきた・・・・
なのに、ひど過ぎるじゃないの。
呑龍マーケットでようやく再会をしたあなたが、いまだに独り身でいたなんて。
ずるいわよ。ずるすぎます、いまさら」
「ずるい?」
「ずるいわよ。どうやっても後戻りができない女にそんなにも優しくしないで頂戴。
あたしの胸が、どうにも切なくなってしまうもの」
電車が軌道の段差を超えるたびに、ぎりぎりの距離を保っている二人を軽く揺すります。
大間々町の赤城駅を定刻に通過した最終電車は、もうひとつのレールと併走をしながら
終着駅の西桐生駅へと向かって、畑と住宅地がまばらに入り混じった郊外の
景色の中を再びゆっくりと走り始めます。
並行して走るレールは私鉄の東武桐生線で、浅草を目指すレールはしばらく上毛電鉄と
並走を続けた後、次の停車駅の桐生球場駅から緩やかに右へカーブを描いてさらに南下を続けます。
「次に来る桐生球場前駅は、つい最近誕生をしたばかりの上電の最新駅だ。
2年ばかり調理師修行で桐生へ通ったことがあるが、その時に何度か寄った郊外の店がそこにある。
次で降りよう。まもなく桐生球場前駅だ」
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・「新田さらだ館」は、
日本の食と農業の安心と安全な未来を語る、地域発のホームページです
http://saradakann.xsrv.jp/