落合順平 作品集

現代小説の部屋。

からっ風と、繭の郷の子守唄(20)

2013-07-06 09:50:49 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(20)
「前橋市における戦災の記録と、貞園の永遠の恋のライバル登場」




 5月も半ばをすぎると、日暮れにたっぷりと時間がかかりはじめます。
呑龍マーケットでは夕暮れが近づいてもまだ多くの店が、いまだに仕込みに追われています。
ついこの間まで、赤城山から吹き降ろす冷たい季節風に首をすくめながら歩いていた人達が、
マフラーを外し、上着を一枚脱ぎ、そのついでに一杯呑みに繰り出す出勤時間までが、
徐々に、遅い時間へと後退をはじめます。


 康平の店では、春色で華やかなゴルフウエアに身を包んだ貞園が、
いつものように焼酎グラスの氷を指で突つきながら、カウンターで不機嫌そうに頬杖をついています。
いつもより手入れも良く、また丹念にお化粧が施されているその横顔には充分すぎるほどの
大人の色香と妖艶な雰囲気が濃厚に、かつぞんぶんに漂よい続けています。
しかしその顔は一向に晴れず、いつも以上の不機嫌ぶりは誰が見ても露骨のままです。



 「すこぶるつきで、いい女だ。今日の貞園は。
 それにしてもこんないい女をほったらかして、接待のために駆け回らざるを得ない
 社長業ってやつも、案外と楽な商売じゃないね。
 同情するよ。忙しい社長にも。不運な君にも」



 「でもさ。それでもさ。本当に頭にくる話なんだよ、康平。
 今日のお相手はまったく新規の取引先で、全国展開をしているなんとかという設備屋さんなの。
 今日は目一杯めかしこんでゴルフ場へやってこいって、社長が念を押して命令をするから、
 私も久しぶりに、最後までお相伴できるのかと思っていたら、ゴルフが終わった途端、
 はい、今日はご苦労さま、お疲れ様でしたときたもんだ。
 私には、目の保養のためのコンパニオン役をさせただけなんだもの、絶対に許せない。
 さんざん取引先の連中を、目で刺激をしたあげく、軽く飲んでから
 その後に、伊香保温泉あたりへ繰り出して、女をあてがおうという腹つもりなんだ。
 じゃあ、私はどうしたらいいの。
 突然に暇を申し渡されたって、どうにもならない八方塞がりの手持ち無沙汰じゃないの。
 ほんとうにエコノミックアニマルには、自分勝手なやつばかりが揃っているわ。
 女をなんだと思っているんだろう。あ~あ、口惜しい・・・・」



 「バブルの全盛の頃の接待では、よく使われた常套手段のひとつじゃないか。
 そこまで君が、目くじらを立てることもないだろう。
 土建屋さんや、設備屋さんの世界ではいまだに使われているし、
 女を抱かせるという手法は、けっこう効果的な、懐柔策だと思うよ、俺も」


 「それはいいのよ、戦略だから。
 そうやって仕事を取ろうという作戦だから、私は何も言いません。
 問題は、社長の行動なのよ。ついでを口実に、社長までコンパニオンと遊んでくるんだもの、
 それには流石に私自身も頭にくるの。
 愛人のとは言え、私にだって、女としてのプライドがちゃんとあるのよ。
 康平。頭へきたからあたしと思い切って、火遊びしょうよ。この際だもの」



 「おい、おい。勘弁しろよ、穏やかじゃないなぁ。
 第一、そんな不謹慎な言葉を、女の方から簡単に口にするもんじゃない。
 なりゆきとはいえ、社長だって取引を成功させるためには、
 自ら一枚噛む必要があるだろううし、接待上の演出ということも含めて考えれば
 そういう結果もあるんじゃないか。
 英雄、色を好むという格言は、昔から日本ではよく使われてきた。
 ある意味で女遊びというものは、仕事ができる男の勲章と同時にご褒美だ・・・・
 そう、あまりカッカするなよ。
 そうでなくてもこの呑竜マーケットという場所は、第二次大戦の前橋空襲と
 昭和57年の大火で、二度もたて続けにひどい目にあっているところだ。
 火遊びなんて言葉は、もってのほかだぜ。貞園」


 第二次世界大戦における大空襲というと、東京大空襲をはじめとする
太平洋側の大都市だけに集中をしていたと思われがちです。
しかし、終戦を目前にした昭和20年8月5日、関東地方の最奥部にある前橋市へも
90機あまりのB29が現れ、無差別に近い爆撃が行われたという記録が残っています。
奥地にある地方都市を狙うのであれば、前橋の隣接地で陸軍師団が置かれていた高崎市が
目標になってもいいはずですが、こちらに空襲の記録はなく爆弾などは一切落とされていません。


 大量に落とされた焼夷弾により、その被害は死者が535人、負傷者は600人にもおよんでいます。
3日3晩にわたって燃え続けた前橋の市街地は、約8割が焼け落ちたと言われています。
その灰は30センチあまりとなり、焼土の上に降り積もったと記録に残っています。



 しかし後になってから米軍側からは、衝撃的な事実が公開されます。
無差別と思われていた焼夷弾の落下も、実は米軍の正確な爆撃によりカトリック教会や学校、
病院には、爆弾と焼夷弾は落とされず、当然のこととしてお寺や神社なども避けているのです。
空襲直後の写真展が毎年のように公開されていますが、その写真の中でもっとも特徴的なものとして、
焼け落ちた瓦礫の中で、無傷で残っている教会の礼拝堂の姿が写っています。
この礼拝堂は、その後に平成3年のNHK「ゆく年くる年」で歴史の証言者として放映もされています。
教会の尖塔の俯角によって爆撃を逃れた直下の、白い土蔵と家屋には当時の火災の凄まじさを
伝える傷跡がいたるところに刻まれていて、なんとも言語を超える痛ましい光景として
今も、毎年、市民たちに紹介をされています。



 多くの市民から親しみをこめて「呑竜マーケット」と呼ばれている「呑竜仲町商店街」の前身は、
1947年(昭和22)に、戦災復興計画に基づいて大蓮寺の土地に復員者たちが
生計を立てることを目的に、その建設がはじまりました。
飲食店をはじめ、雑貨や総菜、青果などの様々なトタン張りのにわか造りの店舗が作られます。
こうして始まった闇市は、「呑龍マーケット」の愛称で呼ばれ、焼け野原が一面に広がっていた
前橋市街地の、復興のシンボルとして市民たちに親しまれてきました。


 戦後の復興が急速に進む中で、市民の胃袋を支える役目を無事に果たし終えた
「呑竜マーケット」は、その後の時代の変遷と共に、やがて飲み屋街としてのイメージを色濃くします。
しかし戦後の初頭に突然現れたこの粗末なだけの建築群は、うなぎの寝床のような横丁の姿を
そのまま残して、ひたすらバラックやトタン構造の増築などを繰り返します。
のちになると、きわめて危険な「燃えやすい一角」として、常に周りから指摘と危惧をされながらも、
近代化が進む前橋の中心街で、ひたすらその存在をかろうじて生き長らえます。


 1982(昭和57)年1月に、大火に見舞われた「呑竜マーケット」は、
ほぼ一瞬にして、ほぼその全域を消失させてしまいます。
近隣ビルなどとも合わせた焼失の面積は、約660平方メートルに及び、
仲店内にあった30数店舗のうちの23店舗が全半焼をしてしまいます。
当時は2階もあり住居になっていたそこからは、6世帯が焼き出されてしまいます。



 幸いなことに死傷者はなく、発見通報が早かったことと、
多くのお店が開店する前の時間帯だった事、さらには上州特有の北風(からっ風)が
吹いていなかったことが、被害をあれだけで収めたと言われています。
火事の原因はガス器具の不始末。
しかし丸焼けとなった呑竜マーケットは、現在の建築基準法制定以前に建てられた
既存不適格な建造物と指定をされていたために、その後には、
厳しい再建の道が待っていました・・・・




 「貞園。ようやく準備は整った。
 本日の営業をはじめるから、そこに立てかけてあるのれんを表に出してくれないか。
 そろそろ常連さんたちが出かけてくる頃だ」



 言われるままに、貞園がのれんを持って立ち上がります。
ほとんどの店舗が5~6坪ほどの広さという「呑竜マーケット」では、日暮れとともに
長年の常連客達が、馴染みの店で、今日もいつもと同じように肩を並べて飲み始めます。
貞園がのれんを手にしたまま、何かを見つけて、店の戸口でそのまま固まってしまいます。


 「あっ、やばい。空襲警報の発令だ・・・・予想外にいきなり、B29がやってきた!
 いえいえ。私の永遠の恋のライバルが、本日も、とても颯爽とかつまた小粋に登場です。
 今日が美和子ちゃんがやってくる日だっけ?
 待てよ。今の時間に美和子ちゃんが現れるということは、いつもの演歌のお仕事とは、
 また違うような気もしますが・・・いったいなんの用事でしょう?
 いずれにしても、まいったなぁ。・・・お店のほうは準備が出来ても、まだ私の心の準備は
 まったく整っていないというのに。
 う~ん。まいったなぁ。まったくもって避けようのない出会い頭だ」
 




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