落合順平 作品集

現代小説の部屋。

からっ風と、繭の郷の子守唄(39)

2013-07-26 10:29:03 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(39)
「朝帰りの康平を待っていたのは、笑顔の母と桑の木に巣食うアメリカ君」




 「あ。そこで結構です。あとは酔い醒ましで少し歩きます」


 上毛電鉄に沿って西へ伸びていく県道が、有人駅の『新里駅』を過ぎた辺りで
後部座席の康平が、運転中の辻ママの肩を軽く叩き合図を送ります。


 「遠慮しなくてもいいのに。行くわよ、千佳ちゃんちの家の前までくらいなら」


 と、辻ママが後ろを振り返りもせずに、康平の母の名をポンと口にします。
昔からそんなふうに周囲から呼ばれてきた、懐かしい母の愛称が突然出てきたために、
降りる支度をしていた康平が、思わずその場で目を丸くして固まってしまいます。


 「千佳子は私より、いつつ下だ。
 可愛い子でねぇ。色白で無口だったけれど、いつもニコニコ笑っている愛嬌のある子だ。
 小学校低学年の頃からよく面倒を見てあげたもんだ。
 背中より大きい赤いランドセルを背負って、真っ赤な顔をして、大粒の汗をかきながら、
 一生懸命に学校への行き帰りの坂道を歩いていた、あんときの女の子が
 いつのまにか、こんな大きな男の子のお母さんだもの・・・・
 やっぱり、あたしも一度くらいは結婚をして、子供の一人くらいは産んでおけばよかった。
 この歳になってからそんなことを考えても、もうすっかり後の祭りか。あっはっは」



 『じゃあ、ほんとうにそこで降ろすわよ』そう言いながら、辻ママが車を止めたのは、
古くから有る簡易郵便局の小さな駐車スペースの前でした。
簡易郵便局とは郵政民営化以前に、郵便局の窓口事務を地方公共団体や組合、個人などに
委託していた郵便局のことで、地方における郵便局の代理店です。 
局長と事務員一人をおいた程度の少数による人員体制で、集配業務は一切行わず、
主にはがきや切手を売り、郵便貯金業務などの窓口業務をこなします。
郵便局と呼ばれるものが全国で24,000局に達するといわれていますが、そのうちの
4,000局が地方や山間地において、民間によって維持管理されている簡易郵便局です。


 朝の5時を過ぎたとは言え、それほど人の気配も車の通行量も無い道路事情の中でも、
常に慎重派の辻ママは、路肩に充分な余裕を見つけてからでないと車を停めません。


 「康平くん。大切な人へのお別れのキスはしないのかい?
 ここで別れてしまうと、おふたりは再会までには、また長い時間が空くでしょう。
 あなたはともかく、美和子ちゃんの方がお別れを寂しがっています。
 いいのかい、ほんとうにキスは無しでも?
 後悔しないのかい、あんた達は。お別れのキスはしなくても?」


 「恥ずかしいわよ、ママったら。人目もあるし、第一あたしはすでに人妻です!」



 「あら。人目がなければ、キスくらいならしちゃうのかしら、あなたたち。
 たった今、そんな風に聞こえました。美和子ちゃんの本音が・・・・
 あはは。冗談ですよ、美和子ちゃんに康平くん。
 じゃあね、千佳によろしく。美和子ちゃんは私が責任をもって実家へ落としていきます。
 また遊びに来て頂戴。短い首を長くして待っていますから。うっふふ」


 運転席から華奢な指が振られた後、美和子を乗せた辻ママの車は、
実家のある次の集落へ向かって、朝の日差しの中を遠ざかっていきます。
山間を走り抜けていくこの県道は、ここに建っている見た目も粗末な簡易郵便局を境界にして、
その先からはあっけないほど簡単に、人家の姿が消えていきます。
田んぼなども点在をしていますが、斜面に沿って畑ばかりが続いていくここの大地は
植えられたばかりの野菜が、所々でうっそうと茂る桑の葉に遮られながらも、
はるかな彼方にまで、見え隠れをする田舎の景色を作っています。



 それ以外には、これといった特徴のない朝の田舎の風景が広がる中、
朝日に輝き始めた桑の木の向こう側へ、辻ママの車が消えてしまうまで、康平は
その場へ立ちすくんだまま、ただぼんやりとして見送っています。


 「なんだい。珍しく久々に朝帰りをやらかしたと思ったら、
 なんだか、ずいぶんとややっこしい女との別れ方を、朝っぱらから
 演じているんだねぇ、おまえは。
 運転していたのは、桐生でスナックをしている辻のみゆきママさんだろう?
 わかんないもんだねぇ、、あんたも・・・・あんな年配の大年増が好みなのかい?
 母さんよりも、いつつも年上だよ。知っているとは思うけど。
 でも驚いたねぇ、すごい趣味だ。わが子ながら」



 背後からの声に、康平が慌てて振り返るといつのまに忍び寄ったのか、
いま流行りのハイブリッド・カーの運転席に、綺麗にお化粧を施した千佳子の顔があります。
電気モーターを主動力源として備えたハイブリッド車は、アイドリング時や低速走行において、
外部へエンジン音も振動音さえも伝えない静寂性のために、無音の車と呼ばれています。
忍者のように音もなく忍び寄る、まさに現代科学の粋を集めた言えるサイレント・カーです。


 「だから音のしない車は、俺は嫌いだ。
 低速で動く時にまったく音がしないから、それで人を油断をさせちまう。
 そんなことだから、朝から息子のプライバシーまで覗き見ることになるんだ。
 母親のくせに、息子の秘密を朝から垣間見ることがそんなに楽しいか。
 まったく、年甲斐のない悪趣味だ・・・・」


 「助手席にいたのは、となり村の美和子ちゃんだろう?
 どこかで見た覚えはあったけど、それがこの歳になるとなかなか思い出せなくてねぇ、
 思い出すまでずいぶんと、苦労をした。
 あの子も確か、しばらく前にお嫁に行ったと聞いたよねぇ。
 今時の娘さんのことだから、性格の不一致か何かでもう男ととっとと別れて、
 さっさと実家へ戻ってきたのかい。もしかしたら?」



 「母さん。どうでもいいだろう、そんなこと。
 それよりも、なんでこんなに朝の早い時間からこんな場所へ車でいるの。
 それのほうが俺には、はるかに驚きだ」


 「人と待ち合わせをしている最中だ。言ったじゃないか。
 今日からは毎年恒例の、一泊二日の気のあった仲間同士の息抜き旅行だって。
 もう忘れちまったのかい、この子ったら。
 どうせ人の話なんか、どうでもいいと思って最初から聞いていないんだろう。
 だからこんな処で、思わぬ墓穴まで掘ることになる。
 でも、美和子ちゃん・・・・しばらく見ないあいだに、すっかり美人にかわったねぇ。
 お嫁に行くと男を知って、やっぱり女にも磨きがかかるのかしら。
 あたしも負けずにもう一度、お嫁に行こうかしら、ねぇぇ、康平。いい考えだろう。
 そのためにも、あんたも早く、お嫁さんを見つけてきておくれよ。
 そうすれば、あたしも早めに肩の荷を下ろして、晴れて自由の身になれるのに」


 アイドリング中のハイブリッドからは、まったく振動音がありません。
母が大好きだという女性演歌歌手のCDが、鮮明な音のまま室内から明瞭に響いてきます。
50を超えたばかりの母が化粧を施すと、素顔で農作業ばかりをしてきた顔とは
全く別人のようになり、驚くほどの妖艶さまで戻ってくるから不思議です。


 「おふくろ。その念入りなお化粧ぶりから推測すると、気のあった仲間の
 息抜き旅行は口実で、実は男でもいるんだろう。久しぶりに若い母さんを見た気がする」



 「ふふん。綺麗な母さんも、まんざらではないだろう。
 念入りにお化粧をするのは、一緒に行く仲間に負けたくないからだけさ。
 この歳になると女を見せるにしても、最後の華が近いもの。
 みんな意気込んで張り切って化けるんだ。
 負けたくはないからねぇ、女はいくつになっても見栄っ張りだ。
 あ、そんなことよりも、あんたにひとつ頼みがあったんだ。
 裏の桑の木に、アメリカ君が巣を作って、いつのまにか大量に繁殖をしはじめた。
 蜘蛛の巣のようで見た目も悪いし、周りに展開し始めると大迷惑をかけることになる。
 切り倒してもいいし、消毒でもいいからアメリカ君を退治しておいて頂戴。
 頼んだよ。あたしはアメリカ君だけが、大の苦手なんだ。
 あ、来た来た。仲間が来た。じゃあね、それだけは頼んだよ」


 笑顔で手を降り始めた母の向こう側に、見事に化粧を施した上に、これまた
丁寧に着飾った3人の気のあった仲間たちが、大きな荷物を次々と路上へ放り出しながら、
忙しそうに、送られてきた車から降りはじめました。
なるほど。たしかに見た目にも、(母が自ら言うように)いずれも甲乙つけがたい、
匂い香りたつような、アヤメとカキツバタもどきの3人です。




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