「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。
おちょぼ 第18話 芸妓の涙
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舞妓を卒業し、佳つ乃(かつの)と同じ芸妓に昇格してみると、
実はこれからが本当のスタートなのだということに、清乃がようやく気がつく。
ゴールだと思っていた地点は、芸妓としての本格的な修練のスタート地点になるからだ。
その先にはさらに果てしなく続く、古典芸能の厳しい修行の道が待っている。
清乃が困惑を覚えるのも、無理はない。
とはいえ若手でトップの注目を集めているため、指名の数は日ごとに増える。
お座敷を忙しく駆け回る毎日がはじまる。
2つ3つとお座敷を掛け持ちしていくだけで、一日があっと言う間に終ってしまう。
先の見えないモヤモヤを抱えたまま、いつの間にか3年ちかい月日が経っていく。
馴染みのお茶屋でお座敷を努めた後、いつものようにお茶屋の女将と、
束の間のお喋りを楽しみ始める。
日頃から何かと清乃を気使っている女将が、他愛もない会話の途中で、
ふと思い出したように、清乃に問いかける。
「あんたはん、この先、いったいどうしはるん?」
気心の知れた理解者の質問は、一瞬にして清乃の緊張を解かしてしまう。
「ウチ、この先のことは、ホントはどうしてええのか、さっぱりわからしまへん」
そう言ったきり、急にうつむいて清乃が黙りこむ。
うつむいた横顔に、涙がひとすじ、スっと流れて頬を伝って落ちていく。
こぼれた涙の意味は、当の清乃にしかわからない。
長い年季生活が明けると、一人前の芸妓として独立することが許される。
衿替えは、とうに済んでいる。
これから先は、最若手の芸妓として、忙しい日々を送ることになる。
長年慣れ親しんだ屋形を出て、念願だったマンションでの一人暮らしがはじまる。
苦楽を共にしてきた屋形を後にするのは、嬉しくもあるが、同時にまた寂しくもある。
複雑な心境の中、清乃のはじめての一人暮らしがはじまる。
屋形で生活しているうちは、すべてのことを屋形がまかなってくれる。
生活面は勿論のこと、花街で必要となる全ての事柄を、所属する屋形が代行してくれる。
独立して自前の芸妓になるとそれらの全てを、自分ひとりでこなしていく。
そのかわり自分で頑張って稼いだお花代は、すべて自分の収入になる。
とはいえ、一人住まいは経費がかかる。
マンションの家賃。食費に、高価な着物や帯の支払い。舞やお茶やお華の稽古代。
日々の交際費などなど、出ていく金額も決して少なくない。
をどりの会があれば、自らすすんで切符を自費で買い取るようだ。
お付き合いやら謝礼やらと、何かと気を揉む祇園のしきたりは山の様にある。
自前芸妓と聞けば、悠々自適で好き勝手に暮らしているというイメージがあるが、
内情は火の車であったり、頭の痛いやりくりで四苦八苦というケースもある。
無事に襟替えを済ませ、芸妓として3年余りを過ごした、22歳の春。
物腰の柔らかい清乃は若い芸妓の筆頭格として、名前も売れ、贔屓の客も増えてきた。
さぁこれからは自分の稼ぎで、独り立ちも軌道に乗るだろうと誰もが思ったその時。
清乃が佳つ乃(かつの)に向かって、意外な言葉を口にする。
場所は人通りも少なくなった、午前零時を過ぎた花見小路の片隅。
お座敷を終えた佳つ乃(かつの)が、お母さんが待つ福屋に向かって歩いていたその時。
背後から、カラコロと下駄の音が近付いてきた。
(こんな時間に誰かいな)振り返ると、少し硬い笑顔の清乃がそこに立っていた。
「すんません。お姉さん、少しだけお話が・・・」と、何故か清乃が口ごもる。
お茶屋の多い花見小路は夕食の時間帯になると、多くの人で通りが埋まる。
だがさすがに深夜になると、人の通りもまばらに変る。
零時を過ぎると町の明かりもほとんど消えて、おおくの店舗がその日の営業を終える。
「ほな。小腹もすいたことやし、酒菜 栩栩膳(ククゼン)でも行こか」
栩栩膳は、築80年のお茶屋を改造した店で、深夜2時まで食事を提供している。
外観は花見小路の雰囲気に溶け込んだ、風情のある京町家風だ。
1階は、玉砂利を敷き詰め、飛び石を置いた庭園の様な雰囲気の食事処。
2階には団体専用の個室と、カウンター席のみのBARがある。
仕事上がりの着物姿のまま、芸妓たちが気軽に立ち寄れるという雰囲気も漂っている。
顏見知りの店員が、「今なら2階の個室も空いていますが」と目配せを送る。
「どうする?」と目線で促す佳つ乃(かつの)に、「そっちで」と清乃が短く答える。
裾をつまんだ清乃が、先を急ぐように階段に足をかける。
「やっぱりね。他人には聞かせたくない、良くない話が有るようですねぇ」
佳つ乃(かつの)には、そんな清乃の素振りに、実はちょっとした心当たりが有る。
第19話につづく
落合順平の、過去の作品集は、こちら
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。
おちょぼ 第18話 芸妓の涙
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舞妓を卒業し、佳つ乃(かつの)と同じ芸妓に昇格してみると、
実はこれからが本当のスタートなのだということに、清乃がようやく気がつく。
ゴールだと思っていた地点は、芸妓としての本格的な修練のスタート地点になるからだ。
その先にはさらに果てしなく続く、古典芸能の厳しい修行の道が待っている。
清乃が困惑を覚えるのも、無理はない。
とはいえ若手でトップの注目を集めているため、指名の数は日ごとに増える。
お座敷を忙しく駆け回る毎日がはじまる。
2つ3つとお座敷を掛け持ちしていくだけで、一日があっと言う間に終ってしまう。
先の見えないモヤモヤを抱えたまま、いつの間にか3年ちかい月日が経っていく。
馴染みのお茶屋でお座敷を努めた後、いつものようにお茶屋の女将と、
束の間のお喋りを楽しみ始める。
日頃から何かと清乃を気使っている女将が、他愛もない会話の途中で、
ふと思い出したように、清乃に問いかける。
「あんたはん、この先、いったいどうしはるん?」
気心の知れた理解者の質問は、一瞬にして清乃の緊張を解かしてしまう。
「ウチ、この先のことは、ホントはどうしてええのか、さっぱりわからしまへん」
そう言ったきり、急にうつむいて清乃が黙りこむ。
うつむいた横顔に、涙がひとすじ、スっと流れて頬を伝って落ちていく。
こぼれた涙の意味は、当の清乃にしかわからない。
長い年季生活が明けると、一人前の芸妓として独立することが許される。
衿替えは、とうに済んでいる。
これから先は、最若手の芸妓として、忙しい日々を送ることになる。
長年慣れ親しんだ屋形を出て、念願だったマンションでの一人暮らしがはじまる。
苦楽を共にしてきた屋形を後にするのは、嬉しくもあるが、同時にまた寂しくもある。
複雑な心境の中、清乃のはじめての一人暮らしがはじまる。
屋形で生活しているうちは、すべてのことを屋形がまかなってくれる。
生活面は勿論のこと、花街で必要となる全ての事柄を、所属する屋形が代行してくれる。
独立して自前の芸妓になるとそれらの全てを、自分ひとりでこなしていく。
そのかわり自分で頑張って稼いだお花代は、すべて自分の収入になる。
とはいえ、一人住まいは経費がかかる。
マンションの家賃。食費に、高価な着物や帯の支払い。舞やお茶やお華の稽古代。
日々の交際費などなど、出ていく金額も決して少なくない。
をどりの会があれば、自らすすんで切符を自費で買い取るようだ。
お付き合いやら謝礼やらと、何かと気を揉む祇園のしきたりは山の様にある。
自前芸妓と聞けば、悠々自適で好き勝手に暮らしているというイメージがあるが、
内情は火の車であったり、頭の痛いやりくりで四苦八苦というケースもある。
無事に襟替えを済ませ、芸妓として3年余りを過ごした、22歳の春。
物腰の柔らかい清乃は若い芸妓の筆頭格として、名前も売れ、贔屓の客も増えてきた。
さぁこれからは自分の稼ぎで、独り立ちも軌道に乗るだろうと誰もが思ったその時。
清乃が佳つ乃(かつの)に向かって、意外な言葉を口にする。
場所は人通りも少なくなった、午前零時を過ぎた花見小路の片隅。
お座敷を終えた佳つ乃(かつの)が、お母さんが待つ福屋に向かって歩いていたその時。
背後から、カラコロと下駄の音が近付いてきた。
(こんな時間に誰かいな)振り返ると、少し硬い笑顔の清乃がそこに立っていた。
「すんません。お姉さん、少しだけお話が・・・」と、何故か清乃が口ごもる。
お茶屋の多い花見小路は夕食の時間帯になると、多くの人で通りが埋まる。
だがさすがに深夜になると、人の通りもまばらに変る。
零時を過ぎると町の明かりもほとんど消えて、おおくの店舗がその日の営業を終える。
「ほな。小腹もすいたことやし、酒菜 栩栩膳(ククゼン)でも行こか」
栩栩膳は、築80年のお茶屋を改造した店で、深夜2時まで食事を提供している。
外観は花見小路の雰囲気に溶け込んだ、風情のある京町家風だ。
1階は、玉砂利を敷き詰め、飛び石を置いた庭園の様な雰囲気の食事処。
2階には団体専用の個室と、カウンター席のみのBARがある。
仕事上がりの着物姿のまま、芸妓たちが気軽に立ち寄れるという雰囲気も漂っている。
顏見知りの店員が、「今なら2階の個室も空いていますが」と目配せを送る。
「どうする?」と目線で促す佳つ乃(かつの)に、「そっちで」と清乃が短く答える。
裾をつまんだ清乃が、先を急ぐように階段に足をかける。
「やっぱりね。他人には聞かせたくない、良くない話が有るようですねぇ」
佳つ乃(かつの)には、そんな清乃の素振りに、実はちょっとした心当たりが有る。
第19話につづく
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