落合順平 作品集

現代小説の部屋。

おちょぼ 第22話 すいとん

2014-10-25 12:59:08 | 現代小説
「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。


おちょぼ 第22話 すいとん



 「疲れたぁ。なんか呑ませて」と佳つ乃(かつの)が、
「おおきに財団」理事長の隣に、どかりと腰をおろす。

 「久しぶりに行きあったと思ったら、なんだよ、もうそんなに酔っぱらっとるのか。
 いったいどこで、そないになるまで呑んできた?」


 「おおきなお世話どす。
 どこでもええでしょ、ウチがボロボロに酔っぱらっといても。
 あれ以来、ウチの心の中にぽっかりとおおきな穴が開いとるんだもの。
 とてもじやないどすが、呑まなきゃやってられません」


 「おいおい。ただ事ではおまへんなぁ。
 自他ともに認める祇園の別嬪が、本心をあからさまに口したらいかん。
 祇園へ通ってくるお前はんのファンの夢が、その一言で、
 いっぺんに夢から覚めちまうことになる」


 
 「理事長はん。
 ご存じでしょうが、祇園に生きとる女というのは女の本性を封印したまんま、
 芸の中だけにひたすら生きとります。
 綺麗だと言われるのは、あくまでもお仕事しているときの表面だけ。
 今のウチは、ただ疲れ切っとるだけの、まるで季節外れの祇園の幽霊や。
 ああ・・・ウチも清乃みたいに、華が有るうちにすっぱりと
 引退をしちゃおうかしら」


 「そうやなぁ。確かに夏は過ぎたから、たしかに幽霊は季節外れや。
 って、そないなことを言うてる場合ではおまへんやろ。
 それにしても引退するとはただ事ではおまへん。
 それこそ聞き捨てならへん重大発言や。たしかに今夜のお前は正気やない。
 弥助!(バー「S」の老オーナの本名)。
 何でもええから佳つ乃に、急いでカクテルを作ってやれ」


 バー「S」の店内がにわかに慌ただしくなってきた。
「おおきに財団」の理事長が自分のパイプを手のひらで抑え、あわてて火種を消した。
パイプの火は、空気を遮断することで簡単に消える。
「お前たちも消せ」とばかりに、理事長が全員に向かって慌てて目配せをする。
「S」の天井には、もくもくと無数の煙が雲のように漂っている。

 「お気遣い、ありがとう」とニコリと笑った佳つ乃(かつの)が、
次の瞬間、ふらりとカウンターの椅子の上で、態勢を崩す。
隣に座っていたおおきに財団理事長の反応は、すこぶる早かった。
予見していたかのようにすぐに両手を差し伸べ、佳つ乃(かつの)の身体を
かろうじて支える。
「ふふふ。おかげさんでかろうじてセーフどす」理事長に支えられた佳つ乃(かつの)が、
ふらりと椅子の上に態勢を戻す。


 「またなんも食わいで、昼間から酒ばかり呑んできたんやろう。
 何や有るたびにそないな風に酒をあおっとったら、いくつあっても身体が足りへん。
 おい、坊主。(路上似顔絵師のことを、常連客たちはかならずこう呼ぶ)
 カクテルなんか呑気に呑ませとる場合ではおまへん。
 急いでこいつに、何や食わせてやれ!」


 「どうせなら、いつか作ってくれた関東風のすいとんがええなぁ~」
虫の息状態の佳つ乃(かつの)が、厨房に向かってか細い声で注文を出す。
「関東風のすいとん?。なんやねんそれ。聞いたことがないなぁ」
初めて聞く料理の名前に、美食家でも通っている「おおきに財団」理事長が、
はてなと首をひねる。



 すいとん(水団)は、小麦粉の生地を手で千切る、手で丸めるなどの方法で
小さい塊に加工し、汁で煮込んでいく田舎特有の食べ物だ。
小麦が作られる地方で、簡易に作れる食べ物として定着してきた歴史が有る。
すいとんの歴史は古く室町時代の書物に、すでに「水団」の文字が見られる。
江戸時代から戦前にかけて、すいとん専門の屋台や料理店なども存在をした。
当時の庶民の味として、おおいに親しまれてきた料理の一つだ。


 食糧不足の戦後において、おおいに重宝されてきた経緯もある。
庶民の味として長く親しまれてきたが、食材が溢れ、外食産業が発展してくる中で
いつのまにか忘れら去られた料理になった。
だが路上似顔絵師の出身地でもある群馬県では、いまも郷土食のひとつとして、
戦後まもなく生まれた人たちから、懐かしい味にひとつとして、密かに珍重されている。
「何でもいいから、あんたの得意な料理を食べさせて」と佳つ乃(かつの)に
オーダーされたとき路上似顔絵師が、「すいとん」を作ったことがある。


 佳つ乃(かつの)の舌は、それを覚えていたのだろう。
「ねぇ、2つ作って下さいな。美食家の理事長の分まで、お願いねぇ~」
佳つ乃(かつの)が、厨房に向かって、さらに鼻にかかった甘い声で注文を出す。



第23話につづく

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