忠治が愛した4人の女 (38)
第三章 ふたたびの旅 ⑥
「東の木崎一家ってのは、はじめて聞く。
いったいどんな親分さんが、采配をふるっているんだ?」
忠治が、久次郎の背中へ問いかける。
境の宿を見たいと言い出した忠治を、久次郎が先に立って案内しはじめたときのことだ。
例幣使街道を東に向ってあるきはじめて、間もなくだった。
「このあたりじゃ、いちばん新しい一家です。
木崎宿で飯盛女をたくさん置いている林屋という旅籠の主人が、親分さんです。
名前はたしか、孝兵衛と言ってやした。
例幣使街道の木崎宿から太田宿にかけてが、木崎一家の縄張りです」
「なるほど。木崎一家の親分さんは、木崎宿で女郎屋をしているのか。
西に居る玉村一家の親分には、ずいぶん世話んなった。
佐重郎親分のおかげで、英五郎親分と知り合うことができたからな」
「えっ、忠治の兄貴は、玉村一家の佐重郎親分をご存じですか!。
そいつは話が早い。
玉村一家は例幣使街道の五料宿から、倉賀野宿までを縄張りにしていやす」
「伊勢崎の親分は、英五郎親分と兄弟分だと聞いた。
実際は、どうなんでぇ?」
「伊勢崎一家の親分は、栗ケ浜という四股名で活躍した伊勢崎出身の力士です。
相撲好きの英五郎親分とは昔からの馴染みです。
親分の名前は、半兵衛。
伊勢崎の一帯が、この半兵衛親分の縄張りです」
「川の北は、英五郎親分と盃を交わした親分衆や、兄弟分が勢力を持っているようだな。
となると川の南で勢力をひろげている島村一家が、やっかいな存在だな」
「へぇ。よくこのあたりの事情をよくご存じで。
島村一家は船問屋の主人、伊三郎というのが親分をしていやす。
利根川筋一帯の河岸と、世良田(せらだ)村あたりまでを縄張りに持っていやす。
いま一番勢力をもっているのが、この伊三郎一家です。
つい最近ですが、木崎宿の孝兵衛と兄弟の盃をかわしたと、もっぱらの評判です」
木崎の孝兵衛も、玉村の佐重郎も島村の伊三郎も、伊勢崎の半兵衛も、
みんな関東取締出役の道案内を務めている。
いわゆる、2足のわらじを履いている。
紋次も島村一家の伊三郎から、道案内をやらないかと誘われたが断っている。
百々一家の表の顔は、私設の問屋場(といやば)だ。
境宿は間(あい)の宿のため、ちかくに公設の問屋場がない。
そのため。人足や馬を用意しておく事ができない。
人馬が必要になった時は、名主が伊勢崎の役所までいちいち願い出なければならない。
これでは急を要するとき、間に合わない。
そんな時はべらぼうに高い賃金を払い、人馬をかき集めなくてはならない。
緊急時。名主は大変な苦労を背負いこむことになる。
そのため紋次がはじめたのが、私設の問屋場だ。
境宿のすぐ隣りの百々村に、人足と馬を確保しておいた。
ここへ集めておいた人足や馬を、必要の時、必要なだけ名主に差し出した。
人馬を差し出す代わり、賭場を黙認してもらっている。
紋次の家のすぐ裏に、人足たちの小屋がある。
各地から流れて来たならず者が、大勢、ここにたむろしている。
雲助(くもすけ)と呼ばれている駕籠かきたちも、百々一家が仕切っている。
表向きの勢力以上に、百々一家は力を持っている。
ならず者たちを含めて相当数の男たちが、百々一家の周辺にたむろしているからだ。
(39)へつづく
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第三章 ふたたびの旅 ⑥
「東の木崎一家ってのは、はじめて聞く。
いったいどんな親分さんが、采配をふるっているんだ?」
忠治が、久次郎の背中へ問いかける。
境の宿を見たいと言い出した忠治を、久次郎が先に立って案内しはじめたときのことだ。
例幣使街道を東に向ってあるきはじめて、間もなくだった。
「このあたりじゃ、いちばん新しい一家です。
木崎宿で飯盛女をたくさん置いている林屋という旅籠の主人が、親分さんです。
名前はたしか、孝兵衛と言ってやした。
例幣使街道の木崎宿から太田宿にかけてが、木崎一家の縄張りです」
「なるほど。木崎一家の親分さんは、木崎宿で女郎屋をしているのか。
西に居る玉村一家の親分には、ずいぶん世話んなった。
佐重郎親分のおかげで、英五郎親分と知り合うことができたからな」
「えっ、忠治の兄貴は、玉村一家の佐重郎親分をご存じですか!。
そいつは話が早い。
玉村一家は例幣使街道の五料宿から、倉賀野宿までを縄張りにしていやす」
「伊勢崎の親分は、英五郎親分と兄弟分だと聞いた。
実際は、どうなんでぇ?」
「伊勢崎一家の親分は、栗ケ浜という四股名で活躍した伊勢崎出身の力士です。
相撲好きの英五郎親分とは昔からの馴染みです。
親分の名前は、半兵衛。
伊勢崎の一帯が、この半兵衛親分の縄張りです」
「川の北は、英五郎親分と盃を交わした親分衆や、兄弟分が勢力を持っているようだな。
となると川の南で勢力をひろげている島村一家が、やっかいな存在だな」
「へぇ。よくこのあたりの事情をよくご存じで。
島村一家は船問屋の主人、伊三郎というのが親分をしていやす。
利根川筋一帯の河岸と、世良田(せらだ)村あたりまでを縄張りに持っていやす。
いま一番勢力をもっているのが、この伊三郎一家です。
つい最近ですが、木崎宿の孝兵衛と兄弟の盃をかわしたと、もっぱらの評判です」
木崎の孝兵衛も、玉村の佐重郎も島村の伊三郎も、伊勢崎の半兵衛も、
みんな関東取締出役の道案内を務めている。
いわゆる、2足のわらじを履いている。
紋次も島村一家の伊三郎から、道案内をやらないかと誘われたが断っている。
百々一家の表の顔は、私設の問屋場(といやば)だ。
境宿は間(あい)の宿のため、ちかくに公設の問屋場がない。
そのため。人足や馬を用意しておく事ができない。
人馬が必要になった時は、名主が伊勢崎の役所までいちいち願い出なければならない。
これでは急を要するとき、間に合わない。
そんな時はべらぼうに高い賃金を払い、人馬をかき集めなくてはならない。
緊急時。名主は大変な苦労を背負いこむことになる。
そのため紋次がはじめたのが、私設の問屋場だ。
境宿のすぐ隣りの百々村に、人足と馬を確保しておいた。
ここへ集めておいた人足や馬を、必要の時、必要なだけ名主に差し出した。
人馬を差し出す代わり、賭場を黙認してもらっている。
紋次の家のすぐ裏に、人足たちの小屋がある。
各地から流れて来たならず者が、大勢、ここにたむろしている。
雲助(くもすけ)と呼ばれている駕籠かきたちも、百々一家が仕切っている。
表向きの勢力以上に、百々一家は力を持っている。
ならず者たちを含めて相当数の男たちが、百々一家の周辺にたむろしているからだ。
(39)へつづく
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