忠治が愛した4人の女 (84)
第六章 天保の大飢饉 ①
百々一家から国定一家に名前が変り、天保3年が暮れていく。
年が明けた天保4年(1833)の春。
桑が芽を吹くころ。関東平野に季節外れの大霜がおりた。
桑の葉が全滅してしまう。そのためこの年の養蚕が、不可能になった。
しかし。天候の異変はこの年に限ったことではない。
これより前。すでに各地で、10年以上にわたり異変の天候がつづいている。
1818年(文政元年)~1830年(天保1年)の間。
冷害や水害が発生し、各地で疫病が流行している。
大飢饉がはじまるのは天保4年からのことで、当時の古い記録が残っている。
『この年、春より水不足にて、田畑の耕起もできず。
各地に雨乞いが統くも、田植の時には水不足となり、田植ができぬ地が
領内3割以上にも及ぶ。
しかるに明日より土用という時に、天候一変し、さながら寒中の如き寒さとなり、
除草の際には綿入れを着てはたらく。
土用より30日間、連続の大降雨となり、鳥海山は雪におおわれて見えないこと30日に及ぶ。
7月18日にいたり、ようやく、ねずみの尾の如き出穂あり。
更に9月26日には、三尺余りの降雪あり。
猿倉辺にいたりては、六尺以上も積る。
大雪にありても稲穂のみのりがないために 直立してたおれず』とある。
別の記録によれば、『8月2日、あられ降る。
下直根は軒場四寸あまり積る。岡田代の加兵衛沢には、大笠程積る。
お上においては、役人をもって検査の結果 一粒三匁ほど有った。』と記されている。
稲刈りの時期になっても、実りはない。
農民たちは直立した稲を雪の中からかきわけて、わずかな穂を刈り取る。
だが食糧には不十分すぎる。天侯の回復を待ち、野山へ出る。
木の実や草の根などを掘り求め、食物としてあさり採る。
と記録に残っている。
天保4年からはじまった飢饉は、その後もつづいていく。
天保5年(午年)。この年だけ、気候が一時的に落ち着く。
その甲斐がありこの年は、秋作が十分に実る。しかし幸運は長くつづかない。
翌年の天保6年(未年)は、夏の間じゅう、雨が降りつづく。
風も吹き荒れる。その結果、各地でふたたび不作になる。
不作とはいえ、凶作ではない。それなりに収穫は有った。
しかし不運はつづく。
この年の冬。寒気は強かったが、一向に雪が降らない。
俗に言う、「からしみ」の状態がつづく。
土地が乾き過ぎてしまう。そのため、蒔いた麦の種が浮いてしまう。
翌年の天保7年(申年)の麦のできは、実りが少なく、半作となる。
5月から、冷気と降雨が続く。
田植えの時期がたいへん遅れてしまう。
雨はその後も降り続く。晴れの日はごくわずかで、遅れて出た穂もほとんどが実らない。
天保7年は、前代未聞の凶作になってしまう。
天保年間は4年の間に、3回も凶作の年がやってくる。
そのため。飢饉に備えていた者たちも、ついに蔵の貯えが尽きる。
もともと貧しい者たちは、なおさらだ。
多くの者が飢えに倒れていく。餓死者が各地で続出する。
(85)へつづく
おとなの「上毛かるた」更新中
第六章 天保の大飢饉 ①
百々一家から国定一家に名前が変り、天保3年が暮れていく。
年が明けた天保4年(1833)の春。
桑が芽を吹くころ。関東平野に季節外れの大霜がおりた。
桑の葉が全滅してしまう。そのためこの年の養蚕が、不可能になった。
しかし。天候の異変はこの年に限ったことではない。
これより前。すでに各地で、10年以上にわたり異変の天候がつづいている。
1818年(文政元年)~1830年(天保1年)の間。
冷害や水害が発生し、各地で疫病が流行している。
大飢饉がはじまるのは天保4年からのことで、当時の古い記録が残っている。
『この年、春より水不足にて、田畑の耕起もできず。
各地に雨乞いが統くも、田植の時には水不足となり、田植ができぬ地が
領内3割以上にも及ぶ。
しかるに明日より土用という時に、天候一変し、さながら寒中の如き寒さとなり、
除草の際には綿入れを着てはたらく。
土用より30日間、連続の大降雨となり、鳥海山は雪におおわれて見えないこと30日に及ぶ。
7月18日にいたり、ようやく、ねずみの尾の如き出穂あり。
更に9月26日には、三尺余りの降雪あり。
猿倉辺にいたりては、六尺以上も積る。
大雪にありても稲穂のみのりがないために 直立してたおれず』とある。
別の記録によれば、『8月2日、あられ降る。
下直根は軒場四寸あまり積る。岡田代の加兵衛沢には、大笠程積る。
お上においては、役人をもって検査の結果 一粒三匁ほど有った。』と記されている。
稲刈りの時期になっても、実りはない。
農民たちは直立した稲を雪の中からかきわけて、わずかな穂を刈り取る。
だが食糧には不十分すぎる。天侯の回復を待ち、野山へ出る。
木の実や草の根などを掘り求め、食物としてあさり採る。
と記録に残っている。
天保4年からはじまった飢饉は、その後もつづいていく。
天保5年(午年)。この年だけ、気候が一時的に落ち着く。
その甲斐がありこの年は、秋作が十分に実る。しかし幸運は長くつづかない。
翌年の天保6年(未年)は、夏の間じゅう、雨が降りつづく。
風も吹き荒れる。その結果、各地でふたたび不作になる。
不作とはいえ、凶作ではない。それなりに収穫は有った。
しかし不運はつづく。
この年の冬。寒気は強かったが、一向に雪が降らない。
俗に言う、「からしみ」の状態がつづく。
土地が乾き過ぎてしまう。そのため、蒔いた麦の種が浮いてしまう。
翌年の天保7年(申年)の麦のできは、実りが少なく、半作となる。
5月から、冷気と降雨が続く。
田植えの時期がたいへん遅れてしまう。
雨はその後も降り続く。晴れの日はごくわずかで、遅れて出た穂もほとんどが実らない。
天保7年は、前代未聞の凶作になってしまう。
天保年間は4年の間に、3回も凶作の年がやってくる。
そのため。飢饉に備えていた者たちも、ついに蔵の貯えが尽きる。
もともと貧しい者たちは、なおさらだ。
多くの者が飢えに倒れていく。餓死者が各地で続出する。
(85)へつづく
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