落合順平 作品集

現代小説の部屋。

赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (68)

2017-04-01 17:18:36 | 現代小説
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (68)
 尾根路の嵐



 たまが、恭子のセーターの胸にもぐりこむ。
くるりと向きを変えたたまが、セーターの襟のすき間から、ちょこんと顔を出す。
その顔が、いつになく真剣だ。


 『・・・空気が、重く澱んでいやがる。
 ヒメサユリの匂いに混じって、かすかにだけど、おいらが捨ててきた
 大嫌いなピーナツの匂いがする。
 雷がやってきて雨が降る前に、なんとか避難小屋へたどり着きたいもんだ』


 顏だけ出したたまが、鼻先をヒクヒク動かす。
かすかに漂っているピーナツの匂いを、ただひたすらに嗅ぎ分けていく。
たまに導かれる形で2人が、ゆっくり、濡れた斜面を歩き出す。
霧はあいかわらず濃密なままだ。


 急ぐわけにはいかない。
うっかり足を滑らせれば、その瞬間、雪が削った深い谷底へ転落していく。
5分ほど移動したとき。霧の中から、突然、ハイマツの黒い茂みが現れた。
『ダメだ、こりゃ・・・・ここは行き止まりだ!』
恭子があわてて立ち止まる。

 たまが間違えたわけではない。
吹き飛ばされたピーナツが、ハイマツの根元まで転がってしまったからだ。
日本海側から尾根に向かって、低気圧の強い風が吹き付けてくる。
風をまともに受ける西の斜面は、ハイマツが群生している。
一部が尾根の細い路を越えて、草原にかわっていく東側の斜面に茂みを作る。
すすむ道を塞がれたのも、そうしたハイマツの群生のひとつだ。


 ヒュウ・・・・また、風がうなりはじめた。
突風がまともに2人へ吹き付けてくる。
『おいでなすった!』恭子が両足で、必死に踏ん張る。
強風が吹くということは、ここがまもなく尾根の稜線ということになる。
『方向は間違っていない。問題は、避難小屋が右か左か。どっちに有るかだ』
尾根の登山道までは、なんとかたどり着けた。


 『お願いだ、たま。ここからが正念場です。
 ピーナッツの匂いを嗅ぎ分けて、避難小屋の方角を見つけてちょうだい』


 『分かった。だけどちょっと待ってくれ。急に鼻がむずむずしてきた。
 変だなぁ。あれ?。ハッ・・・ハックション!』


 突然たまが、くしゃみした。
次の瞬間。たまの鼻から鼻水が垂れてきた。


 『やだ、この子。肝心な時に風邪をひいちゃったみたい!』



 『えっ。猫も人間なみに風邪ひくの!。うそでしょ、聞いたことがないわ!』


 うそではない。猫も人間と同じように風邪をひく。
季節の変わり目や、寒暖の差がはげしいとき、人は風邪をひきやすい。
猫もまた同じ理由で風邪をひく。
体調を崩して病気になることもあるし、腸内環境を悪くして便秘や下痢にもなる。


 たまの鼻汁を、清子がハンカチで丁寧にぬぐう。
熱もすこしあるようだ。
猫の平熱は、人間よりすこし高い。平均して37,5~39度の前半といわれている。
これ以上高くなった場合、発熱していると考えられる。

 「有った!」


 恭子が突然、大きな声をあげた。
目印のオレンジ色のテープが、ハイマツの枝に揺れている。


 「偉いぞ、たま。お前のおかげで尾根の登山道まで、戻って来ることができた。
 問題はここからだ。
 右へ行くか。左へ行くか。いずれにしても選択は2つに1つ。
 風邪をひいたたまの鼻は、もう当てにできない。
 どうする清子。女の直感に賭けてみようか」


 右へ行くか、左へ行くか、それを女の直感で決めるという。
ずいぶん乱暴な選択だ。
しかし躊躇することは出来ない。頭上はすでに深夜のように暗さになっている。
猶予はできない。雷は、閃光のすぐ直後に鳴るようになってきた。


 『下ろしてくれよ』


 涙目のたまが、恭子を見上げる。
『下ろす?。何考えてるの、たま。あんた今。風邪をひいているんだよ。
いまわたしの懐から出たら、それこそ風邪がひどくなるだけじゃないのさ!』
飛びだそうとするたまの頭を、恭子があわてて押さえる。


 『下ろしてくれよう。
 いつまでも10代目の懐に居たんじゃ、ピーナツの匂いが分からねぇ。
 地面におりれば、ピーナツの匂いが分かるかもしれねぇ。
 そういうわけだ。
 ピンチだけど男には、どうしてもやらなきゃならねぇときがある。
 それが今だ。
 下ろしてくれ。おいらがなんとかする』


 『何言ってんのさ、このバカ猫。これ以上、風邪をこじらせたらどうすんの!。
 だけど・・・あんたの言う事にも一理ある。
 清子。あんたも態勢を低くしな。
 2人でたまの風よけになって、この子の嗅覚に賭けようじゃないか』


 恭子が懐からたまを取り出す。冷たい地面へそっとおろす。
ヒュウウ・・・突風が、また吹いてきた。
たまの小さな身体が、ふわりと揺れる。
『負けてたまるか!』かろうじて踏みとどまったたまが、風上に向かって
顔をあげる。
 
 
(69)へつづく

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