赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま(71)
たまが動く

「たま、大丈夫?。たま。目を覚ましてちょうだい・・・」
遠くで、清子の声がする。
『あれ・・・清子がおいらを呼んでいる。いったい何の用事だ。
おいら眠くて、いまは、それどころじゃないんだ』
ぼんやりしたまま、たまが答える。
『たま。こんなところで眠ったら、イヌワシの餌になっちゃうよ』
10代目の恭子の声が頭上から降って来た。
『イヌワシの餌になるだって・・・冗談じゃねぇ。おいらまだ死んでいないぞ!』
たまが薄目をあける。
心配そうにのぞき込む清子と、恭子の顔がそこにある。
「よかった。気が付いたみたい!」
「ほら、ごらん。心配しすぎだ、清子は。
この子はもともと丈夫な子だ。こんな風邪くらいじゃ死なないさ。
熱があるくせに清子のぺちゃパイより、あたしのDカップの方がいいなんて
贅沢を言うくらいだ。
風邪くらいじゃ死なないさ。こんな、どスケベ過ぎる子猫は」
大きなお世話だとたまが、目を見開く。
熱のせいで、気を失っていただけだ。
よっこらしょと立ちあがるたまを、清子が両手でささえる。
充分に力を入れ踏ん張ったつもりだが、足元が小刻みに震えている。
「無理しなくていいよ、たま。熱があるんだ、おまえは」
清子がふわりと、胸へ抱きあげる。
乾いたタオルで、たまの顔を拭きはじめる。
鼻汁がきれいにぬぐわれたとき、たまの嗅覚がよみがえって来た。
湿った重い空気。その中に、かすかにただようヒメサユリの匂い。
抱かれた清子の胸から懐かしい匂いがする。恭子から濡れた髪の匂いが漂ってくる。
遠くから、ほんのわずかだが、カツオ節の匂いが流れてきた。
『あれ・・・おいらの大好物の、カツオ節の匂いがするぞ!』
たまの耳が、ピクッと反応する。
嗅覚だけではない。猫はするどい聴覚ももっている。
犬が嗅覚の動物と呼ばれるのに対し、猫は聴覚の動物と呼ばれるほど
発達した聴覚を持っている。
暗い林や森の中で、獲物を待ち伏せすることで生き延びてきただからだ。
耳を前方に傾ける。
ざわざわと風が動く中。それとは別に、何かが動く気配が聞こえる。
何かが動くたび、たまの好物のカツオ節の匂いが、ここまで運ばれてくる。
『絶対に間違いじゃねぇ。おいらの好物のカツオ節の匂いが、こっちへ近づいてくる』
たまがピョンと、清子の胸から飛び降りる。
地面に降りたたまが、ひくひくと鼻を動かす。
すべての神経を、耳と鼻へ集中する。
風の流れが変わった。
こんどは先ほどより、かなり強くカツオ節の匂いが漂ってきた。
匂いは、尾根にちかい登山道の方向からだ。
『たまらねぇ・・・。
朝から柿ピーだけをかじっていたので、おいらの腹はペコペコだ。
こんなところで好物のカツオ節と出会えるとは、ラッキーだ。
どこのどなたか知らないが、地獄で仏とは、まさにこのことだ・・・』
カツオ節の匂いが、動いた。
どうやらこちらへ向かって、ちかづいてくる気配が有る。
『もう我慢できねぇ』
空腹のたまが、カツオ節の匂いに反応する。
1歩、2歩とカツオ節の匂いに向かって歩きはじめる。
その瞬間。とつぜん強風がやって来た。
カツオ節の匂いがたまの頭上を吹き抜けていく。
風の方向が変わる。そのたびに、カツオ節の匂いが方向を変える。
『あれ・・・また方向が変わりやがったぞ、カツオ節のやつ・・・
登山道だと思ったら、今度は、谷底からカツオ節の匂いが吹き上げてきた。
いったいぜんたい、どうなっているんだ、この風は?』
めまぐるしく方向を変える匂いにたまがふたたび、自分の嗅覚へ集中していく。
すべての神経を、自分の鼻へ集中していく。
(72)へつづく
落合順平 作品館はこちら
たまが動く

「たま、大丈夫?。たま。目を覚ましてちょうだい・・・」
遠くで、清子の声がする。
『あれ・・・清子がおいらを呼んでいる。いったい何の用事だ。
おいら眠くて、いまは、それどころじゃないんだ』
ぼんやりしたまま、たまが答える。
『たま。こんなところで眠ったら、イヌワシの餌になっちゃうよ』
10代目の恭子の声が頭上から降って来た。
『イヌワシの餌になるだって・・・冗談じゃねぇ。おいらまだ死んでいないぞ!』
たまが薄目をあける。
心配そうにのぞき込む清子と、恭子の顔がそこにある。
「よかった。気が付いたみたい!」
「ほら、ごらん。心配しすぎだ、清子は。
この子はもともと丈夫な子だ。こんな風邪くらいじゃ死なないさ。
熱があるくせに清子のぺちゃパイより、あたしのDカップの方がいいなんて
贅沢を言うくらいだ。
風邪くらいじゃ死なないさ。こんな、どスケベ過ぎる子猫は」
大きなお世話だとたまが、目を見開く。
熱のせいで、気を失っていただけだ。
よっこらしょと立ちあがるたまを、清子が両手でささえる。
充分に力を入れ踏ん張ったつもりだが、足元が小刻みに震えている。
「無理しなくていいよ、たま。熱があるんだ、おまえは」
清子がふわりと、胸へ抱きあげる。
乾いたタオルで、たまの顔を拭きはじめる。
鼻汁がきれいにぬぐわれたとき、たまの嗅覚がよみがえって来た。
湿った重い空気。その中に、かすかにただようヒメサユリの匂い。
抱かれた清子の胸から懐かしい匂いがする。恭子から濡れた髪の匂いが漂ってくる。
遠くから、ほんのわずかだが、カツオ節の匂いが流れてきた。
『あれ・・・おいらの大好物の、カツオ節の匂いがするぞ!』
たまの耳が、ピクッと反応する。
嗅覚だけではない。猫はするどい聴覚ももっている。
犬が嗅覚の動物と呼ばれるのに対し、猫は聴覚の動物と呼ばれるほど
発達した聴覚を持っている。
暗い林や森の中で、獲物を待ち伏せすることで生き延びてきただからだ。
耳を前方に傾ける。
ざわざわと風が動く中。それとは別に、何かが動く気配が聞こえる。
何かが動くたび、たまの好物のカツオ節の匂いが、ここまで運ばれてくる。
『絶対に間違いじゃねぇ。おいらの好物のカツオ節の匂いが、こっちへ近づいてくる』
たまがピョンと、清子の胸から飛び降りる。
地面に降りたたまが、ひくひくと鼻を動かす。
すべての神経を、耳と鼻へ集中する。
風の流れが変わった。
こんどは先ほどより、かなり強くカツオ節の匂いが漂ってきた。
匂いは、尾根にちかい登山道の方向からだ。
『たまらねぇ・・・。
朝から柿ピーだけをかじっていたので、おいらの腹はペコペコだ。
こんなところで好物のカツオ節と出会えるとは、ラッキーだ。
どこのどなたか知らないが、地獄で仏とは、まさにこのことだ・・・』
カツオ節の匂いが、動いた。
どうやらこちらへ向かって、ちかづいてくる気配が有る。
『もう我慢できねぇ』
空腹のたまが、カツオ節の匂いに反応する。
1歩、2歩とカツオ節の匂いに向かって歩きはじめる。
その瞬間。とつぜん強風がやって来た。
カツオ節の匂いがたまの頭上を吹き抜けていく。
風の方向が変わる。そのたびに、カツオ節の匂いが方向を変える。
『あれ・・・また方向が変わりやがったぞ、カツオ節のやつ・・・
登山道だと思ったら、今度は、谷底からカツオ節の匂いが吹き上げてきた。
いったいぜんたい、どうなっているんだ、この風は?』
めまぐるしく方向を変える匂いにたまがふたたび、自分の嗅覚へ集中していく。
すべての神経を、自分の鼻へ集中していく。
(72)へつづく
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