落合順平 作品集

現代小説の部屋。

赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (62)

2017-03-25 18:31:21 | 現代小説
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (62)
もしかしたら遭難?



 それから15分が過ぎた。
2人の周囲にたちこめたガスは、一向に晴れない。
それどころか時間とともに、ますます濃密になっていく。


 冷たい風に乗り、次から次へ谷底から湧きあがってくるガスの流れは、
まるで無限に続くような勢いを持っている。


 「♪~涙果てなし、雪より白い・・・花より白い 君故かなし・・・・」


 「なんなの清子。とつぜん歌なんか歌い始めて?」


 「これです。
 市さんが、『もしもの時のアイテム集』というのを入れておいてくれました。
 取り出しやすいように、リュックの脇ポケットに入っておりました。
 久保浩という歌手が唄った、霧の中の少女という歌詞です」


 「市さんという人は、なんとも気の付くお方だね
 わたしたちが語らいの丘で、霧に囲まれることも想定済みということか。
 それにしてもお前、昭和の匂いのするずいぶんと古めかしいメロディを、
 よく知っているねぇ」



 「市さんのメモによれば、登山中、進退きわまることは珍しくないそうです。
 身を守るための持久戦も、そのひとつです。
 辛抱強く待つことは、登山において大切なことだそうです。
 ただしその場合は、おおいに時間を持て余すことになり、たいへん辛いそうです。
 ということで退屈しのぎになるようなアイテムが、ぎっしりと入っています」


 「本当だ。布施明の霧の摩周湖なんて楽譜まで入ってる。
 でもさ。全部、わたしたちが生まれる前の歌謡曲ばかりじゃないか。
 楽譜を見ただけで歌えるなんて、お前、すごい才能をもっているんだねぇ」


 「三味線や長唄は、昔から伝わる独特の符牒で書かれています。
 でも分かりにくいということで、最近は、西洋風の楽譜に書き直されています。
 音の高低や長さは音符を見れば、だいたいわかります」


 「霧の中の少女に、霧の摩周湖。
 大川栄策の霧にむせぶ夜、なんていう楽譜まで入っている。
 霧に関する楽譜ばかりが入っているということは、市さんは私たちが
 この状態になることを、やっぱり、最初から想定していたんだ・・・」



 「梅雨入り前の今の時期は、とくに霧が発生しやすいそうです。
 ヒメサユリの群生地は、霧が出やすい場所です。
 霧の水分が群生地の花を育てていると、市さんが言っていました。
 この景色を見ているとまさに市さんの言葉が、そのまま、実感できます」


 「なるほどねぇ。
 喜多方で育った市さんは、飯豊山のことをよく知り尽くしています。
 それにしてもこの事態は、楽観できないようだ。
 ますます霧が濃くなってきた。
 どうにも視界が悪すぎる。動くことはあきらめましょう。
 少し不安だけど、このままじっと待機して、霧が晴れていくのを待ちましょう」


 「他にも何か入っているのかい?」
恭子が、清子のリュックサックの中を興味深そうに覗き込む。
そのとき。かすかな物音を聞きつけて恭子が、ふと不安そうな顔をあげる。
かすかに鳴る雷鳴の音を、遠くに聞いたような気がする。
何も見えない白いガスの彼方に向かって、もういちど、最大限の注意で
耳を澄ましていく。


 「どうかしたのお姉ちゃん。突然、耳なんかすまして?」


 「しっ。清子。
 いま、かすかにだけど、遠くに雷鳴が聞こえたような気がしたんだ。
 空耳かしら。まだ、お昼にもならない時間だというのに・・・・」


 「山のお天気が崩れるのは、午後からというのが相場なのですか?」


 「たいていは、午後から崩れる。 
 でも山のお天気というものは、変わりやすいのが一般的だ。
 よく晴れていても風の影響を受けて、とつぜん、変わってしまうこともある。
 あ・・・やっぱり間違いじゃないな。
 やっぱり遠くで、雷が鳴り始めている。
 空耳じゃなかったようようだ。
 さあて、困りましたねぇ。
 濃密なこの霧に続いて、さらにもうひとつのピンチが山の彼方から、
 まもなくここへやってきそうです」


 「え・・・・ということは、お姉ちゃん。
 私たちは今、ここで遭難寸前になっているという意味ですか?」


 「安心しな。まだ遭難したわけじゃない。
 正しく言えば、この場所から、身動きがとれないだけの状態だ。
 霧さえ晴れてくれれば、安全に移動できるだろう。
 雷も進路が外れれば、無事に済むことだろう」


 「霧が晴れなければ、このままわたしたちは、ずっと移動はできない。
 雷も、わたしたちを直撃する可能性が有る。
 そんな風に聞こえました。
 ということは絶対絶命の大ピンチですねぇ。ホント、困りましたねぇ・・・」


 「ピンチだけど、困難が来ると決まったわけではない。
 それよりも、なんだか少し肌寒くなってきた。
 体を冷やすと大変だ。お前、着るものは充分に持っているかい。
 大丈夫かい?、身体を冷やしたら大変なことになるよ」


 「それなら市さんのメモの中に、良いアイデァが書いてあります。
 身体が冷えてきたときや、雨に降られそうになったら、寝袋に入れと書いてあります。
 頭からビニールシートをかぶり、2人で身体を寄せ合えと書いてあります。
 無駄な体力の消耗を抑えて、救助を待つのが一番だそうです。
 なんだかまるで、これって、遭難時の心構えのようですねぇ・・・」


 「なんとも、恐るべき洞察力だ。市さんの見通し通りの展開になりそうです。
 万が一ということもある。
 市さんの指示通り、寝袋とビニールシートを取り出して雨と雷の襲撃に備えよう。
 この霧はたぶん、簡単に晴れそうもない。
 雷も、確実に近づいてくるようだ。
 清子。想定以上の大ピンチが、やってくるかもしれないね。
 私たちのすぐそばへ、まもなく・・・・」


(63)へつづく

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赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (61)

2017-03-24 17:28:08 | 現代小説
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (61)
 ガスは谷底から湧いてくる




 歩くこと20分あまり。「語らいの丘」のふもとへ2人が到着する。
このあたりから、ようやく、ヒメサユリの花街道らしさが幕をあける。
茎の上に無事に残った蕾の数が多くなる。


 急な斜面が近づくにつれ、満開のヒメサユリの花が増えてくる。
こんもりとした丘を通過したあたりから、群生が見えてきた。
歩くにつれ、進むにつれて、ハクサンチドリやシラネアオイ、ムラサキヤシオツツジ、
ツマトリソウ、サラサドウダンツツジなどの花が混じってくる。


 「お姉ちゃん。足元に薄紫色のオダマキが咲いているのを見つけました!。
 蝶ちょのようで、とても可憐な花です」



 「えっ?。オダマキが咲いている?。変だねぇ・・・・。
 あっ、よく似ているけどこれは、ハクサントリカブトという猛毒の花だ。
 お前。手で触れるんじゃないよ。
 簡単に人を殺すほどの猛毒を持っているんだからね、この花は」


 「えっ。猛毒の花なのですか・・・・うわ~、危機一髪でしたぁ。
 よかったねぇ、たま。可愛さにつられて、思わず頬ずりなんかしなくてさ」


 『ふん。俺さまはそんなチンケな花に、まったく興味はない。
 そんなことより、周りをよく見てみろよ清子。
 ここから見渡すかぎり、全方位がすべて、飯豊山の絶景じゃねぇか!」



 ふと目を上げた清子が、自分の目に飛び込んで来た景色に、思わず息を呑む。
斜面の先。足元から一気に落ち込んでいく深い谷がある。
さらにその先。谷を越えた向こう側に、たくさんの雪渓を抱いた青い山肌が、
ドンと壁のように空に向かってそびえていく。
巨大な山容は、北に向かって、どこまでも果てしなく連なっていく。
『ホントです。飯豊連山が一望できます。たまが言う通りの、絶景が見えます・・・』
清子の頬を、谷底からのつめたい風がすり抜けていく。


 「そうだよ清子。
 ここは飯豊連峰の全部の景色を、独り占めできる場所さ。
 斜面には見渡す限り、薄いピンク色のヒメサユリの花が群生している。
 黄色いニッコウキスゲの花も、負けじと咲きほこっている。
 これが清子に見せたかった、飯豊山の素晴らしさだ。
 すごいだろう、ここは。
 ここにこうして腰を下ろして見つめていると、時間が経つのを忘れるよ」


 「ホントです。だから、ここについた名前が、語らいの丘ですか。
 ドンピタリのネーミングだと思います。納得です」


 「清子。向こう側の山肌に、登山道が見えるだろう。
 リュックを背負った登山者が、アリのように歩いているのが見える。
 ここは山登りのための登山道だけではなく、散策するための小道が整備されている。
 みんな山小屋や避難小屋に連泊しながら、あんなふうに、思い思いに足を伸ばしていく。
 それがこの山、飯豊山の楽しみ方なのさ」


 2人の頭上は相変わらず、雲ひとつなく晴れ渡っている。
しかし谷から吹き上げてくる風に、いつしか肌寒さがこもって来た。
風の洗礼を受けてたまがまた、顔を洗いはじめた。



 『たまがまた、顔を洗い始めました。
 こんなに良いお天気だよ。
 雨が降る気配なんて、これっぽっちも感じないし、見えないよ。
 それなのに、何がそんなに心配なのさ、お前は』


 しきりに顔を洗っているたまを、清子が不思議そうに覗き込む。


 「谷底から少しガスが湧いてきたねぇ・・・・」



 恭子が、切り立った谷を指さす。
谷底から湧きだしたガスが、煙突から出る煙のように、ゆるく立ち上ってきた。
山肌に点在する雪渓をゆるゆると漂いながら、覆い隠しはじめる。
時刻は正午すこし前。雨雲が出て来たわけではない。


 語らいの丘周辺の谷は、とりわけ切り立った崖が多い。
切り立った深い谷は、冷たい空気のかたまりを夜間の内にたくわえる。
充満した冷たい空気が、夏の太陽に温められて、谷底で水蒸気にかわる。
そのためここは昔から、ガスが湧き出しやすい場所とされている。


 ただし。午後から稜線などで発生するガスとは異なる。
そのうち晴れてくるだろうと恭子も、悠然と斜面に腰を下ろしたまま、
谷間を漂うガスの流れを見つめている。



 谷底から上昇を続けるガスが、すこしづつ風に乗りはじめた。
2人のいる語らいの丘の高みまで、ガスが登ってきた。
あっというまに2人を取り囲んだガスが、さらに上空へ向かって立ち上っていく。
時間とともにガスが、濃密な状態へ変わっていく。


 「お姉ちゃん。ミルクを流したような、ガスになってきました。
 油断していたら周りがぜんぶ真っ白で、何も見えなくなってしまいました」


 「動くんじゃないよ、清子。
 斜面の先には、急激に落ち込んでいる断崖があるからね。
 足を滑らせたら、一巻の終わりだ。
 一時的なガスだと思うから、動かず、このままじっと待ってやり過ごそう。
 下手に動くとかえって危険なことになる。
 あたしはここに居るよ。ほら、手を伸ばして、清子」



 恭子の手が、濃密なガスの向こうから清子の手元へ伸びてくる。
清子があわててその手を握りかえす。
その清子の胸元で、たまがしきりに顔を洗っている。
猛烈な勢いを保ったまま、頭や耳の後ろなどを、たまが洗い続けている。


(62)へつづく


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赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (60)

2017-03-23 18:50:19 | 現代小説
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (60)
 イイデリンドウの登山バッジ




 「おっ。誰が通りかかったのかと思えば、 昨夜泊まってくれた、
 べっぴんのお姉ちゃん達の2人連れか。
 いま、山頂からの帰りかい。
 飯豊連峰が誇る雲の上の、お花畑はどうだった?。
 思う存分、満喫することができたかい」

 「はい。綺麗なお花たちを、たっぷり楽しむことができました!」


 「そいつは、なによりだ。
 また2人で飯豊山へ登ってきてくれ。
 君たちのような美人なら、いつだって、両手を上げて大歓迎だ。
 あっ、そうだ。ちょっと待ってくれ。
 君たちに麓から届いたばかりの、とっておきのお土産を上げよう」


 昨夜泊まった避難小屋の前で、顔を合わせたヒゲの管理人が、
飯豊神社からの下り道を急ぐ、恭子と清子を呼び止めた。
『なんだよ。とっておきのお土産って・・・』胸のポケットからたまが顔を出す。



 「わけてもらった、かつお節のお礼だ。
 あれだけ有れば登山客たちに、うまい味噌汁をたっぷり提供できる。
 お礼に、イイデリンドウを形どった登山バッジを上げよう。
 山小屋か、避難小屋でしか販売していない限定品だ。
 今朝出来上がったばかりだ。
 麓から届いたばかりのホヤホヤさ。
 時間が経ったから残念ながら、もう湯気は出ていないがね。あっはは」


 手を出しなと、ひげの管理人が笑う。
ほらと恭子と清子の手のひらに、イイデリンドウを形どった登山バッジを、
大事そうに乗せてくれる。
『ありがとう、おじさん。必ずまた、2人でやってきます!』
登山バッジを受け取った清子が、息を弾ませて答える。



 「おう。また来いよ。
 初夏もいいが飯豊山の秋の紅葉も、最高だ。
 また来てくれ。
 あんたの胸ポケットの中にいる、三毛猫も一緒にな。
 気をつけていけよ。下りとは言え、最後まで油断は禁物だ。
 そういえば、500mほど下ったところにあるヒメサユリの群落はもう見たか。
 ニッコウキスゲも咲いているはずだから、今頃がちょうど
 見頃のはずだ」


 「実はそこが、今回の私たちの一番の目的地なんです。
 楽しみは最後までとっておこうということで、今日に残しておきました。
 下りながら、これからそちらを満喫していきたいと思います」


 『そうさ。真打ちってやつは、いつでも一番最後に登場するもんだ』
ヒヒヒと笑ったたまが、そのまま、耳のうしろを洗いはじめる。
『あれ、こいつ。耳の後ろを掻き始めたぜ・・・』
ヒゲの管理人が雲ひとつ見えない、透き通った青空を見上げる。
『雨が降るようには、俺には見えないがなぁ・・・・』
晴れ渡った青空を、ぐるりと見回す。



 「晴れ渡っているとは言え、山の天気はひと時も油断できねぇ。
 猫が顔を洗いはじめるのは、雨がやってくる前兆と言われているからな。
 ヒメサユリの花を見学したら、天気が崩れる前に早めに下の小屋まで、
 下ったほうが無難だろう。
 じゃあな。本当に気をつけていくんだぜ。ベッピンのお2人さん」



 朝からギラギラした太陽が、容赦なく照りつけている。
稜線上の登山道には初夏の暖かさが、充分に立ち込めている。



 避難小屋のヒゲの管理人に別れを告げた2人が、本来の登山道から、
ヒメサユリの群落へ向かうための脇道へすすむ。
脇道といっても、登山道として整備されたものではない。
登山者たちによって踏み固められた、草のあいだをすすんでいく花畑への小道だ。



 「ヒメサユリ街道などという、洒落た名前がついています。
 実際は、広大なヒメサユリの群生地へ寄り道するため、おおぜいの
 登山者たちが、勝手に踏み固めてしまった枝道です。
 群生地といっても、まとまって咲いているわけではありません。
 広大な斜面に、好き勝手に、あちこちに咲いているだけです。
 花ばかりに気を取られていると、同じような景色ばかりが続いていますから
 迷子になってしまうこともあります。
 綺麗な花には、トゲも落とし穴もあるんだよ、清子。
 ほらこれ。迷子にならないよう、おまじないをしていきましょう」


 恭子がポケットから、オレンジ色のテープを取り出す。
目印として使用する、「マーキングテープ」だ。


 「たまが雨がふるかもしれないと、予測しています。
 念のためです。帰り道を間違えないように、ところどころに目印をつけていこう。
 ほら清子。ヒメサユリの茎だけが、前方に見えてきた」


 「ヒメサユリの茎だけが見えてきた?。
 あら、本当だ。
 茎はありますが、先端に、お花がひとつもついていませんねぇ・・・・
 一体どうしたことでしょう。無い。ナイ!。
 本当にお花が、ひとつも無い!」



 「お~い。お姉ちゃん達。ヒメサユリの花の見学かい?。
 このあたりの花は、カモシカに食われてほとんど全滅だ。
 その先の『語らいの丘』を下ったあたりなら、ぼちぼち咲きはじめている。
 大雪の年は餌が不足するため、腹を空かしたカモシカたちが
 ヒメサユリの花の新芽を食っちまうんだ。
 そういうわけだ。
 花を見るなら、気をつけて下っていけよ」


 「あら。ご親切にどうも。
 そういうあなたたちは、ここで何をしていらっしゃるのですか?」


 「ヒメサユリ街道の草刈りだ。
 花の時期になると、稜線上の登山道より、こっちの脇道を歩く人の方が多くなる。
 飯豊連山の登山の本番は、梅雨が明けた7月の末からだ。
 本格的な夏登山の前に、こうして、登山道の整備をしているのさ」


 「それは、それは、ご苦労様です。
 では、教えていただいた語らいの丘まで、行ってきたいと思います。
 おじさまたちも、お仕事を頑張ってください。
 では、ごきげんよう。さようなら!」


 「おう。ごきげんよう。
 気をつけて行けよ。ヒメサユリよりも綺麗な、2人の別嬪さんたち!」


(61)へつづく



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赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (59)

2017-03-22 04:29:30 | 現代小説
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (59)
 草履塚と御秘所(おひそ)





 草履塚(ぞうりつか)は、美しい風景が自慢の飯豊連峰の中において、
もっとも景観に優れたところと言われている。

 参詣者たちの散米を集めて、甘酒を造る。これを分け隔てなく振る舞う。
さらに難所のための杖を貸し出した処として知られている。
草履という名前は、ここで新しいわらじにはき替え、心身を整え、本社に向かった、
といういきさつに由来している。
かつてはここにはき替えたわらじが、うず高く積まれていたという。


 草履塚から難所の御秘所(おひそ)に向かう岩場の途中に、
姥権現(うばごんげん)と呼ばれる石の地蔵がある。
かつては女人禁制だったこの山へ、遭難した息子を探すため米沢から「小松のマエ」
という女人が入山した。
神霊の怒りにふれ、石にされたという伝説が残っている。



 別の説もある。
その昔。小松村(現在の川西町)に、飯豊山を深く信仰している女がいた。
男の3倍も5倍も精進したら、女人禁制の山に登っても罰は当たらないだろうと考えた。
100日間の精進を済ませたのち、飯豊山に登りはじめる。
ところが頂上まであと一息という所で、なぜか急に疲れを覚える。
道端の石に腰を下ろして一休みした。
そのまま女は、路傍の石に化してしまったと言う。


 草履塚のピークを一旦下った所に佇む地蔵さんには、このように昔からの
さまざまな言い伝えが残っている。
地蔵の存在は、飯豊山信仰におけるひとつの象徴であり、同時にすぐ
間近に迫った難所を越えるための、安全祈願の場にもなっている。


 「いよいよ登山道最大の難所、御秘所(おひそ)に到着しました。
 難所中の難所と言われている岩場です。
 慎重に歩いていけば、それほど難儀をするわけではありません。
 でもね。かつては、飯豊神社へお参りする参詣者たちにとって、
 一大決心が求められた岩場です」


 「決心が求められる岩場ですか・・・それはただ事ではありませんねぇ・・・」



 「御秘所の岩場を越えるためのルートは、3つある。
 頂上近くを越えていく上段の道は、『山橋』と呼ばれている。
 どちらかといえば、比較的容易な道だ。
 下段と呼ばれ、岩裾を回り込んでいく道が、もっとも容易なルート。
 しかし多くの参詣者たちはあえて、もっとも険しいと言われている中段の絶壁を選ぶ。
 身体を岸壁に密着させながら前進していくんだ。
 その昔。このあたりが修験者たちの鍛錬の場だったという名残だろうね」


 「修験者たちの岩場ですか・・・・道理で険しいはずです」


 「たまも居ることです。
 いちばん楽なルートの、下段の道を行きましょう。
 ただし。下段の道には、怖い言い伝えが潜んでいるから要注意です。
 無間(むげん)地獄に通じる、『口無し穴』が、あちこちに開いています。
 この穴は目に見えないものなので、聞かれても説明のしようがない。
 御秘所という名前も、この見えない穴に由来している。
 落ちれば、生きて再びこの世に帰れないという、神隠しの穴です。
 ここを無事に通過できれば、品行方正が証明されます。
 ただし。行いの正しくない者は、神隠しに会うか、天狗にさらわれてしまいます。
 通過できない者は、一生村八分にされるという掟もあります。
 いずれにしてもここを通過するには、とてつもない勇気を必要とします」


 「口無し穴から落ちて、無間(むげん)地獄へ着くと、
 そこでは、いったい何が待っているんですか?」


 「あるのは、8番目の地獄。
 数ある地獄の中でいちばん恐ろしいと言われている。
 それが、8番目の無間(むげん)地獄だ。
 間断のない苦しみに常に責め苛まれる地獄、という意味がある。
 ここでは、それまでの七つの地獄の苦しみを合計したものの千倍以上の
 苦しみを味わうと言われている。
 8番目の無間地獄に堕ちて苦しむことに比べれば、それまでの7つの地獄は
 天国みたいなものだと、古い書物に記されています」


 『あらら。大変ですねぇ。たま、くれぐれも口無し穴に落ちないよう、
 気を付けて行きましょうね』


 『へへん。気をつけるのはお前だろう、清子。
 オイラはこうして、清子の懐に入ったままだ。
 悔しいが手も足も出せねぇ。
 でもよう、頼むから落ちないでくれよ。
 愛しいオイラのミイシャと、念願の一発をやるまでオイラは絶対に、
 死んでも死にきれねぇ・・・』


 『そう言う不謹慎な発想が、災難を呼び込むんだよ、たま。
 あっ、お前のための落とし穴が、たったいま、あたしの足元に見えました!』



 『嘘をつけ清子。
 いいからさっさとこんな危ない場所は抜けて、とっとと神社にお参りして
 すたこらさっさと帰ろうぜ。
 たのむぜ、まったく。こんな石ころだらけのところで遭難したくはねぇ!』


(60)へつづく

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赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (58)

2017-03-19 17:32:02 | 現代小説
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (58)
 クマタカ




 『いい匂いがするなぁ・・・・』恭子の胸で、思わずたまが目を細める。
たまが嗅いでいるのは、イイデリンドウの花の匂いではない。
清子よりもはるかにふくよかな恭子の胸は、何とも言えないいい匂いが漂っている。
『たまらんのう・・・』たまが、ニタリと目をほそめる。

 ハクサンイチゲの純白のお花畑を縁どるように、イイデリンドウの紫の花が
咲き群れている。


 「へぇぇ・・・たいしたもんだ。
 お前にも、このイイデリンドウの清楚な香りが、わかるのかい。
 偉いねぇ、たまは」



 『いや。イイデリンドウの香りじゃねぇ。
 恭子の胸は清子の胸よりはるかにでっかくて、すこぶる居心地がいい。
 おまけに、ほんのり良い匂いが漂ってくる。
 これが成熟しかけている乙女の匂いというやつか・・・・
 なかなかに甘美で、官能的な匂いがするのう。いっひっひ」


 「突然に何を言い出すかと思えば、このドスケベ子猫!。
 たま。わたしは卑猥な子猫に、手加減など絶対にしませんよ。
 悪い子は、飯豊連峰に住んでいる猛禽類のイヌワシか、クマタカの餌にしてやるぞ。
 それとも山麓に住むツキノワグマか、カモシカの餌食になりたいか!
 遠慮はいらぬ。どちらでも良い。たまの好きな方を選ぶがいい。
 私は冗談はいわない。いつでも本気だぞ!」


 恭子の剣幕は、ほんものの様だ。
殺気を感じたたまが、急にしどろもどろの低姿勢にかわる。



 『待て待て恭子。悪気はない、話せば分かることだ。
 乱暴なことだけはしないでくれ。おいらは猛禽類も獣も、どちらも嫌いだ。
 まだこんな所で死にたくはない。
 謝る。謝るから、乱暴なことだけは考え直してくれ。
 まったくもって清子も恭子も、揃いも揃って気が短すぎる。
 怒った途端、予測不能の非常識な行動に出るから、困ったもんだ・・・』


 でも、やはり、お前の胸からは、何とも言えないいい匂いがすると、
たまがふたたび鼻面を恭子の胸に押しつける。
『仕方ない猫だなぁ、お前って子も』
あきらめ顔の恭子が、たまの頭をそっとなでる。


 飯豊連峰は山裾の雄大さにおいて、東北でも屈指の山容をほこる。
福島、山形、新潟の3県にまたがり、2000mをこえる山頂がいくつも連なる。
山脈はゆうに20キロを超える。
主峰の飯豊山は古くから、会津の人々から熱い信仰を集めてきた。


 稜線に起伏の少ない草原の道が、どこまでも続いていく。
標高からいけばこの一帯には、針葉樹の林帯が存在してもいいはずだ。
だがここの厳しい気候と地形が、そうした景観を許さない。


 飯豊連峰は、世界的に有数な豪雪地帯として知られている。
日本海から吹きつける豪雪のため、稜線の上では、樹木が一切育たない。
風が吹き付ける西側には、比較的緩やかな斜面が残っている。


 しかし。東側は景観が一転する。
深くえぐられた谷が、いくつも連続して現れる。
風に吹き飛ばされた雪が、東側の斜面に大量に降り積もるからだ。
大量に蓄積された雪が春には雪崩となり、東側の山肌を鋭く深く、削り取っていく。



 高山植物たちもまた同じことだ。
乾燥を好む花は、稜線の西斜面一帯に群生する。
いっぽう。湿地を好む花たちは急峻な東の斜面に根を下ろす。
飯豊連峰は痩せた稜線を境にして、長い時間をかけ、東西非対称の景観を
じわじわと形成してきた。


 「へぇぇ。猛禽類のイヌワシや、クマタカが住んで居るの。ここには?」


 「居るよ。あたり前だ、清子。
 ここは東北地方がほこる大自然のど真ん中だ。
 イヌワシもクマタカも、翼を広げると2メートルを超える大型の鳥だ。
 翼を広げて空中から、大草原の中の獲物を探すのさ。
 雪渓が残っているこの草原の中には、わたしたちの目には見えないけれど、
 猛禽類の餌になる、たくさんの小動物たちが住んでいるんだ。
 愛嬌者のオコジョなんかが、有名だわね」

 「オコジョ?。」


 「猫の仲間で、体長が20cmくらいになるイタチ科の小動物。
 別名は、ヤマイタチ。行動はとにかく素早い。
 登山の途中で時々みかけるけど、ヒョイと人の前に現れたかと思うと、
 あっというまに消えてしまう、ひょうきんな奴さ。
 ほら。遠くでチチッ、チチッと鳴いているのが聞こえるだろう。
 あれがオコジョの声さ」


 『あっ、』清子が突然、大空を見上げる。
青空のはるか彼方に、悠々と翼を広げ、上昇気流に乗る鳥があらわれた。

 『イヌワシかしら、それともクマタカかしら・・・
 遠すぎて、よく分かりませんねぇ』


 額に手をかざした恭子が、目を細めたまま浮遊する姿をうかがう。
悠然と上空で旋回を繰り返していた大きな鳥が、ふと、1点に狙いを定める。
どうやら獲物を見つけたようだ。
角度を変えた大きな翼が、ひらりと動く。
つぎの瞬間。まるで落下ような角度で、下っていく。
大空を滑空した黒い塊が、地上スレスレまで一気に落ちていく。

 「狩りかしら。草原に向かって舞い降りていくもの・・・」


 風を切って舞い降りた影が、草原に向かって鋭い足を伸ばす。
2度3度と地上で羽ばたいたあと、上空へ向かってふたたび舞い上がっていく。
『獲ったのかしら・・・』『さぁ。遠すぎてよく見えなかったけど、獲ったのかなぁ』
2人の頭上にいつのまに現れたのか、もうひとつの大きな鳥が、
ぐるぐると旋回していく。


 『よかったわねぇ、たま。あんた、あんな大きな鳥の餌にされなくて』


 『冗談じゃねぇぞ。
 オイラは、山に、可憐な高山植物を見に来ただけだ。
 それにしても初めて見たが、でかい鳥だったなぁ。
 あんなのに狙われたら、オイラなんかひとたまりもねぇ。
 もう2度と出ないぞ。オイラ、せっかく入った、恭子の懐の中から!』


(59)へつづく


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