落合順平 作品集

現代小説の部屋。

オヤジ達の白球(3)敵に塩?

2017-04-21 17:21:05 | 現代小説
オヤジ達の白球(3)敵に塩?



 「バ~カ。身動きさえ出来ないくせに、言う事だけは一人前だ。
 お茶を入れてきます。台所はこっちかな?」


 「廊下の先だ。わるいなぁ、面倒かけて」


 「どうってことありません。
 昔馴染みの男へ、塩を食わせるためにやって来たのさ。
 これでもかとたっぷり塩をふってきた。
 塩分のとり過ぎで早めに地獄へ送ってあげるから、感謝にはおよびません」


 (魔性の女ですからね、あたしは。近寄ると火傷するよ)
ふふふと笑い声を残し、陽子が台所へ消えていく。



 陽子は、いまもスレンダーな体型の持ち主。
しかし胸は有る。貧乳ではない。
こんもりと、形のよい盛り上がりを見せている。


 尻も下がっていない。丸みを帯びたラインが妙に色っぽい。
身体に衰えが見えないのは、こどもを産んでいないから。
サングラスをかけると、いまどき流行りの美魔女のように見える。



 「ここまで這ってきて、食べることができるかい?」



 台所から土鍋を運んできた陽子が、隣の部屋から声をかける。
「いまさら、食べさせてくれとは言えないだろう。そこまで甘えたらバチが当たる。
そこに置いてくれ。這って行く。そこで食う」
祐介が腹ばいになる。布団からそろりそろりと抜け出していく。


 「急がなくてもいいよ。無理してバランスを崩さないでおくれ。
 見た通りの細腕だ。何の手助けも出来ないよ。
 寝ていたのなら、電話くらいかけてくればよかったのに。
 ご飯くらい、あたしが作ってあげたのにさ」


 「ありがたてぇ話だ。こんど何か有ったらかならず電話する。
 でもよ。こんな風に世話を焼くのは、お天道様が出ている日中だけにしてくれ。
 日が暮れると別のことを頼みたくなる」


  「うふふ・・・
 その気もないくせに、口ばかり達者なんだから、このエロじじぃ。
 その気があるのなら襲ってみなさいよ。
 長年の夢がひょっとしたら、叶うかもしれません」
 
 「えっ。あれから30年も経つのに、俺が惚れていたことをまだ覚えていたか。
 薄情な女だとばかり思っていたが、意外だねぇ」
 


 「よく言うよ。薄情なのはあんたじゃないか。
 あたしが離婚したとき。あんたはさっさと別の女と所帯を持ったくせに。
 あ・・・文句を言える筋合いじゃないか、お互い様だ。
 あんたの気持ちはわかっていたさ。
 お金に目がくらんで嫁に行ったあたしが悪い。
 あら、いやだ。朝っぱらからいったい、なんてことを言わせるのさ。
 顔から火が出るじゃないの。
 支度はできました。あとは勝手に食べてくださいな。
 片付けなくてもいいよ。あとでまた、次の差し入れにやって来るからね。
 今度は庭からじゃなく玄関から堂々と入ってきます。
 開いているんだろうね、玄関は?」


 「あっ、3日前から玄関の鍵は締めたまんまだ。
 お前さんが訪ねてくることなど、露ほども考えていなかったからな。
 おっ、あっ・・・・おっとと、イテテ・・・」


 数歩すすんだところで、祐介が動きを止める。
また腰に激痛がやってきた。力が入らない。そのままバランスが崩れる。
グズグズと祐介の身体が畳へ崩れ落ちていく。
陽子があわてて立ち上がる。


 「なんだい。口ほどもないね。
 見栄を張って格好ばかりつけているから、そうやっていつも墓穴を掘るんだ。
 駄目なら駄目で最初から甘えればいいのに。
 いつだってやせ我慢ばかりするんだから、この人は。
 そこからU-ターンしなさい。
 仕方ありませんね。あたしがおかゆを食べさせてあげますから。うふふ」


(4)へつづく

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オヤジ達の白球(2) 持病

2017-04-19 17:50:04 | 現代小説
オヤジ達の白球(2) 持病



 祐介は、持病をもっている。
「ぎっくり腰」からはじまる腰の痛みだ。
30代のはじめの頃。「椎間板ヘルニア」と診断され、ひと月ほど入院したことがある。
以来。やっかいな痛みが、祐介の身体に定着した。
腰の痛みはいつも些細なきっかけからはじまる。


 数日前のこと。棚の荷物を取ろうとしたとき。わずかな痛みが背筋をはしった。
「あれ?。またやったかな?」と思った。
こんな風に祐介の腰痛は、ささいなきっかけからはじまる。
案の定。痛みは、時間とともに激しさを増した。


 痛みはじめてから3日目の朝。寝床から起き上がることができなくなった。
横になったまま、身動きひとつできない痛みになる。


 「また、いつもの状態がはじまりやがった。
 分かっているがこうなると、独り者は、どうにもならん」



 布団に横になったまま、ひたすら痛みに耐えるしか対策がない。
寝込んだままの2日目の朝。
玄関へ、人がやって来たような気配がする。


 祐介は一人っ子。
早くに両親を亡くしている。そのため、親戚との付き合いは薄い。
どちらかといえば疎遠のままだ。
「誰だ。今頃・・・」身体の向きを変えるだけで、痛みが襲ってくる。
玄関の様子を確認することなど、とうていできない。


 ピンポン~。玄関のチャイムが鳴る。


 「開いてるぞ。勝手に入ってきてくれ」



 そう叫んだ。だが声が出ない。かすれきっている。
まる2日間、何も食べていないためだ。体力はすでに底をついている。
(落ち目の三度笠だな、情けねぇ。声もろくに出やしねぇ・・・)
もういちど。ピンポン~と玄関のチャイムが鳴る。
祐介は、声を出すことを諦めた。


 それから数分後。今度は庭へ、誰かが入って来たような物音がする。
(へっ・・・回り込んで来たぜ。物好きな奴もいるもんだ・・・)
庭は荒れ放題になっている。
好きではじめた家庭菜園も、手入れを中断したまま、ぼさぼさ状態になっている。
庭というより、まるで耕作放棄の農地のようだ。
不安を感じながら、こわごわ荒れ地を歩いてくる様子が、枕元まで伝わって来る。



 『誰だいったい。庭まで入って来るとは、ずいぶん物好きな奴だ』


 ようやくたどり着いた足音が、ガラスの向こうで躊躇っている。
覚悟を決めたのか。そっと伸びた指先が、コンコンと軽くガラスを叩きはじめた。
ガラス戸に手をかけた瞬間。動く気配を感じ取る。
「あら。鍵はかかっていないみたいです。不用心ですねぇ、祐介ったら・・・」
聞き覚えのある声だ。

 からりと音を立て、ガラス戸があく。
『勝手に入るわよ。いるんでしょ。祐介?』
女の気配が廊下へ入って来る。
外気と一緒に、いつもの化粧の匂いが漂ってきた。


 麦わら帽子をかぶった女が、祐介の枕元へ立つ。
起き上がろうとする祐介を、『そのままでいいよ』と制止する。



 「無理して起きなくてもいいよ。
 もう3日も、お店を休んでいるんでしょ。
 どうしたの?。またいつもの、腰痛のはじまり?。
 軟弱だわねぇ。あんたの腰は」


 あらわれたのは、幼なじみの陽子。
成人式が終わった直後。望まれて資産家のもとへ嫁いだ。
「金に目がくらんだんだぜ、あいつは』と、さんざん同級生たちが避難した。
だが何が気にいらなかったのか、わずか3ヶ月で離婚した。
その後。ぷっつりと消息が途絶えた。
まったく連絡がつかず、30年近い月日が経過した。
その陽子が、ひょっこり実家へ舞い戻って来た。いまから半年前のことだ。


 「動けないんだろう。朝ごはんを作って来た。
 病人のくせに無駄な元気を出して、わたしを襲ったりしないでおくれ」


 「朝飯か。そいつはありがてぇ。
 見た通り寝たっきりだ。2日も食っていないから、腹はペコペコだ。
 動けないが、お前がここまで来てサービスしてくれるのなら、話は別だ」


(3)へつづく

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オヤジたちの白球(1) 謎の美人客

2017-04-18 18:41:42 | 現代小説
オヤジたちの白球(1) 謎の美人客



 話は、10年前にさかのぼる。
織物の町として知られる群馬県桐生市の北西部に、日暮れとともに
呑んだくれが集まる居酒屋がある。
街の中心部からかなり離れた山の裾。ポツンと一軒だけたつ小さな居酒屋。


 春になり田圃に水が満たされると、カエルがうるさく鳴きはじめる。
真夏になると、ホタルが飛び交う。
近くにあるホタルの里から迷い出たホタルたちだ。
赤い提灯につられて、ここまで飛んでくる。


 桐生市は、関東平野北限の町。
市街地のはずれから、山地がたちあがる。
山容は低いが里山ではない。すすむにつれて標高を増していく。
栃木県、福島県と越え、岩手県を経て、青森まで連なっていく山脈がここからはじまる。


 店主の名前は、片柳 祐介。
いまは独身。ことしで50歳になる。
居酒屋をはじめて、今年で5年目。
美人で愛想のよかった奥さんは3年前、ふいの病気でこの世をさった。



 奥さんが亡くなって以降。店の中で閑古鳥が鳴きはじめた。
5人が座れるカウンターと、小上がりに6人が掛けられる大き目のテーブルが2つ。
それでも客の消えた店内は、閑散として広すぎる。
『そろそろ閉め時かな・・・この店も』それがひとり残された祐介の口癖。


 そんな居酒屋が、ある日を境に復活をとげる。
復活の原因は、ふらりと不定期にふらりとあらわれるひとりの美人客。
歳の頃なら40前後。色白。額に前髪が揺れている。


 この美人客が何処へ住み、どんな暮らしをしているのか、誰も知らない。
いつなら出会えるのか。誰も見当がつかない。
ふらりとあらわれるこの美人客と行き逢えるだけで、幸運なのだ。



 噂が噂を呼び、酒と女が大好きな男たちが集まるようになった。
今夜もふらりとあらわれる美人客を目当てに、呑んべぇたちが集まって来る。
「今日あたり(たぶん)あらわれるだろう」と、とぐろを巻く。


 のれんが揺れた。女があらわれた。
(お・・・)軽いどよめきが、呑んべぃどもの間を走り過ぎていく。
いつものように女が、カウンターへ腰をおろす。
1杯目に出てくるのは、東北の純米酒。
薄く切られたカボスが2片。ゆらゆらとコップの中で揺れている。


 「おいしい・・・」



 女が目を細めて静かに酒を飲む。コップの酒が半分ほどに減った頃。
季節の食材をつかった小鉢が、3品並ぶ。
「どうぞ」と出される2杯目の酒に、厚めに切られたすだちが浮かんでいる。


 2杯の純米酒と3つの小鉢。これでいつものように一時間。
「ご馳走様、お愛想をお願いします」女がいつものように立ち上がる。


 この瞬間が、男たちの出番になる。
「今日は俺が!」すかさず、あちこちから声が出る。
優先権が有る。女性のとなりに座ることができた幸運な飲んべェが、金を出す。
「悪いわ。それじゃ」いつものように、女がほほ笑む。
それもまた、毎度のことだ。



 「いいってことよ。お安い御用だ。また来いよ。いつでもおごってやるから」



 上機嫌ののんべェに見送られ、女が店から出ていく。
時間はいつもとまったく同じ、午後の8時15分。



 「横から見ても絵になる。だがよ、後ろ姿もたまらねぇなぁ。
 そそるねぇ。あの背中は・・・」


 ガラスの向こうへ消えていく女を惜しむように、店のあちこちから
男たちのため息がもれる。



 「おい。おまえら。女のあとをつけるんじゃないぞ。
 野暮な詮索はやめときな。
 いまから店を出ていく奴は、ひとり3万円の勘定を払ってもらう。
 ほうっておけ。またそのうちに顔を出す」


 (謎の美女か。何者か、正体がわからねぇから余計に気にかかる。
 だがよ。住んでいる場所や、暮らしぶりが露呈してみろ。
 とたんに夢から覚めたような心地になる。
 それにしてもいい女だ。
 俺がもっと若けりゃたぶん、まっさきに、惚れていただろうな・・・)



 女のグラスを片付けながら、祐介がポツリとつぶやく。

(2)へ、つづく


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赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま 最終回

2017-04-14 19:16:49 | 現代小説
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま 最終回
 清子とたま



 「ここが遭難しかけたという、語らいの丘か。
 なるほど。噂には聞いていたが、想像していた以上に素晴らしい所だ。
 まさに絶景だ」


 「訂正してちょうだい。パパ。
 私たちは遭難しかけたのではなく、緊急避難していたの。
 天候の回復を待ち、ここでじっとしていました。
 うふふ。霧に閉じ込められて、進退を窮まっていただけです。
 わたしたちが助かったのは、たまが、カツオ節に反応してくれたおかげです。
 ビバークなんか出来なかったわ。まる2日間も荒れ狂ったのよ。
 たまのおかげで命拾いしました。お前はやっぱり、奇跡の猫だ」

 
 「小さくてもたまは男の子だ。勇敢だったねぇお前。
 それにしても満開のヒメサユリは素晴らしい。
 飯豊連山のすべてが、ここから一望できる。
 すごい場所だ此処は。そう思うでしょう、小春さん。あなたも」


 『はい』と小春が振り返る。



 まる2日間。ヒメサユリは嵐の中を翻弄された。
しかし今朝は何事もなかったかのように、シャンと立ち直っている。
満開の草原が、4人の前にひろがっている。
ピンク色のヒメサユリに混じり、あざやかなオレンジ色のニッコウキスゲも
負けじと朝の風に揺れている。
蝶と戯れているたまを、恭子がひょいと抱き上げる。


 『世話になったわねぇ。お前には。
 お礼に、お前が大好きな乙女の匂いをたっぷり嗅がせてあげましょう。
 ほら。成熟した乙女の豊満なおっぱいだ。
 なんだ。そのつまらなそうな顔は。
 清子のペチャパイより、あたしの胸の方がほうがよほどもいいだろう?。
 ふん。つまらない子だねぇ、お前って子も。
 貧乳の清子の方がいいのか、やっぱりお前は・・・』



 『うん』たまが嬉しそうに、目を細める。
『そうか。やっぱり清子が好きか。仕方ないわよねぇ。
あたしも清子は大好きさ。可愛いし、お茶目だし、素直だもの。
でもさぁ・・・・まもなく会津を離れて、次のお姉さんのところへ修行に
行っちゃうのが少し気に入らないのよ。
盆踊りまでいると、あれほどわたしと約束したくせに、さ』


 たまを抱きかかえた恭子が、景色に見とれている清子の背中へ寄っていく。
『たまはあんたが好きだってさ。あんたのぺちゃんこの胸がたまには最高なんだ』
返すわ、こんな愛想の無いやつ、と恭子がたまを手渡す。



 「清子。盆踊りの約束は帳消しでいいよ。
 あの2人は放っておいても、何とかなるような雰囲気になっているもの。
 わたし。高校を卒業したら東京へ行く。
 4年間、大学で学んでくるけど、それが終ったら喜多方へ戻って来る。
 あんたも4年間、せいっぱい、芸者の修行に励んでね」


 「帰ってきたら、酒蔵の10代目を継ぐのですか?」


 「あんただって、有名な芸妓の2代目を継ぐんだろう?」


 「2代目を継ぐ?。わたしが?・・・」



 「小春さんから聞いたよ。
 あんたは、6人も弟子を育てた春奴母さんの2代目になるそうだ」



 「わたしが春奴母さんの2代目になる!・・・ホントですか!」


 「春奴母さんは、その気でいるらしい。
 もっとも、瓢箪から駒が出るかどうかはあんた次第だけどね。
 でもさ。あんたの懐に奇跡を呼ぶ三毛猫のたまが居る限り、成就しそうだね。
 なんとなくだけど、わたしも、そんな気がしてきた」


 わたしが居ない間、清子のことは頼んだよと、恭子がたまの頭をなでる。


 「えへん。そうさ。おいらは奇跡を呼ぶ三毛猫だぜ。
 いたずら小僧がおいらを拉致したおかげで、芸者修業を始めた清子の胸という、
 居心地のいい場所へたどり着いた。
 2度と出るものか。いいにおいのする、清子のペチャパイの胸から!』

 イヒヒとたまが、目を細めて笑う。

(完)


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赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (76)

2017-04-13 17:41:45 | 現代小説
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (76)
 男と女の2人連れ



 ヘルメットにカンテラを装着している。
未明の時間に麓から、登り始めてきた登山客のようだ。

 「おい。最初の登山客がもうそこの尾根まで登ってきたぞ。ずいぶん早いなぁ。
 いまの時間ここまで来るには、麓を1時か2時に出発するようだ。
 ずいぶん熱心な登山客だ」

 「なんだぁ・・・・手を引いて歩いているぞ。
 へばっている様子からすると、もうひとりはまったくの初心者だ。
 歩くだけで精一杯みたいだ。
 よくあんな状態でここまで登って来たもんだ。感心するぜ」

 三国山荘から出てきた客たちが、はるか彼方へ小手をかざす。
尾根に姿を見せた2人が、ゆっくり山荘に向かって歩いてくる。
「もうひとりは女だな。大丈夫かよ、もう完璧に足がもつれているぜ・・・」

 「え・・・・男と女の2人連れ。もしかして!」

 朝食の準備を手伝っていた恭子が、手を止める。
あわてて窓の外へ目をやる。
遠い痩せ尾根の上を、女性をいたわりながら歩く男の姿が見える。
『清子。パパと、小春姉さんがやって来た!』
食器を放り出した恭子が、ドアに向かって走り出す。

 『え?』たまの毛づくろいをしていた清子も、慌てて立ち上がる。
放り出されたたまが2回3回と転がっていく。
そのまま土間へ転がり落ちていく。

 『イタタ。なんだよいきなり。乱暴だな清子は。・・・
 喜多方の小原庄助と小春姐さんが、ここまで登ってきたのか?』

 庭へ飛び出した恭子が、2人に向かって手を振る。
猛烈な勢いで飛び出してきた清子が、あっというまに恭子の横をすり抜ける。
勢いを保ったまま、痩せた登山道を小春に向かって突進していく。

 喜多方の小原庄助に手を引かれ、やっとの思いでここまで歩いてきた
小春が、山小屋から飛びだしてきた清子に気がつく。
小春が笑顔で立ち止まる。
大きく手を広げる前に、清子が猛烈な勢いで小春の懐に飛び込む。

 『怖かったァ~』

 ひとことだけ清子が小春の胸でつぶやく。あとは言葉にならない。
涙があふれてきて、言うべき言葉が押し流されていく。

 かじりつく清子を、小春がやさしく抱きしめる。
頬をつたっていく清子の涙を、小春が指先でひとつずつ丁寧にぬぐう。

 近づいて来る父の姿を、恭子は静かに山荘の庭で待ちつづける。
『私はパパの胸になんか飛び込まないわ。清子のような子供じゃないもの・・・』
ふふふと笑い始めた笑顔が、時間とともに固まっていく。

 「頑張ったんだってなぁお前。偉かったぞ」

 父の手が恭子の髪に触れた瞬間。
恭子の両方の瞳から、不覚の涙がこぼれ落ちていく。
『泣くつもりなんか全然なかったのに・・・泣き虫だなぁ、あたしも』
恭子のつぶやきが、父の分厚い胸の中へ消えていく。

 「お疲れさま。難儀だったでしょう、朝早くからここまで登って来るのは。
 初めまして。山荘の管理人です。
 この子たちの、冷静な行動と勇気を褒めてやってください。
 無事でいたのは、この子たちの正しい決断の結果です。
 遭難寸前になった時。ほとんどの登山客が、不安からパニックになります。
 この子たちは不安と正面から向き合いました。
 褒めてあげてください。さすがに、あなたたちのお子さんです」

 のそりとうしろへ現れたたまを、ひげの管理人が抱き上げる。

 「この小猫も、勇敢でした。
 ピンチを知らせるため、わたしのところへやってきました。
 カツオ節の匂いにつられたそうです。
 ですが、おかげで草原の中の2人を救出することができました。
 この子猫の勇気も、褒めてやってください。
 あ・・・・立話ではなんですねぇ。
 どうぞ、山荘の中へ。
 朝早くから、はるばると登ってきていただいたお2人を山荘にいる全員とともに
 心の底から歓迎します。
 ごらんください。
 嵐が過ぎ去った今朝の飯豊連峰は、めったにないほど素敵な景色です。
 あらためまして、ようこそ、三国山荘へ。
 私が三国山荘を預かっている、ひげの管理人です」


(最終回へつづく)


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