2年ほど前まで土曜日の朝は坐禅を組んでいました。
引っ越して行けなくなりましたが、曹洞宗の禅寺があれば行きたいところです。
坐禅の代わりがブログになっている感じですね。
自立した組織や人は、少人数で大きな成果を出しますが、その分個人は組織に従属しません。
組織的人材は流動的になります。
組織に従属させようと、給与や福利厚生を充実させれば組織に従属しますが、ストイックに成長する必要もなくなるので、自ら課題を克服する自主性は生まれなくなる。
個々として優秀な人材が大量に集まっても、大した成果は生まれなくなる。
このあたり、マクレガーのXY理論に詳しいのですが。
自分でも楽して生きたいとは思うけれど、要領よく物事をこなすには、それなりに下準備や練習が必要になる。
他人より大きな成果が出せたとしても、その下地が自分でわからなければ、ただのまぐれと認識せざるを得ず、自信にもならない。
本田宗一郎は一番を目指していたようですが、その場その時の一番が永遠に一番ではない。
車にどんなに一番の速さ、一番の安全、一番の操作性などの複合的価値を求めても、次の世代にはその質はあって当然の価値になる。
もの凄い労力と資源を投じても、それがその時に大衆に受け入れられるわけではなく、しかしながら後に当たり前の価値になる。
仕事の質を上げるのには途方もない労力が必要なんですよ。
日本の品質は守られて当然?
違いますね。常に今以上を目指して品質が維持されるのであって、楽な方へ流され続けて品質は維持できないのですよ。
とはいえその改善スピードも世界的には劣ってしまっている。
2000年頃香港に行ったけれど、高速道路の通信自動精算は当然だったし、鉄道のホームドアは全駅に完備されていた。
当時日本では東北道川口ICでの精算は大渋滞を引き起こしていたし、鉄道のホームドア設置も進行中だけど、未だに人身事故が発生し続けている。
国民性でカバーできる?
国に従属し続けて、緩やかな劣化と死を迎えるのなら構わないと思いますよ。
外に出て、現状より別の、先の視野と景色を知らなければ、現状を不満にも思わないでしょうし。
世の中のほうが変化していて、その変化に対応を合わせなければ生きていくこともできないのですが。
自らの生活も行動様式も、実は変わっているのですよ?
気づかないで同じ日常を繰り返していると思い込んでいるだけなんです。