いちよう:二千和会だより

 会報「いちよう」を通して、人生がさらに豊かに広がるよう「今も青春!」の心がけで楽しく交流しながら散策しましょう。

戦後64年 演劇「東京原子核クラブ」

2009年08月15日 | SO-Color

 
ちょうど、広島原爆記念日の前日に、俳優座劇場・プロデュース公演を観賞した。
演目は「東京原子核クラブ」
出演者も馴染みがないし、あまり期待してはいなかった。
観終わってから、よくこんなややこしいテーマを演劇にされた!と感心した。
そして、思い巡らすきっかけを多く作り、しばし黙考……になった。

あらすじは…昭和初期。
風変わりな住民ばかりが集う本郷の下宿屋「平和館」が舞台。
若い原子物理学者・友田晋一郎(朝永振一郎がモデル)が、
海外の研究者に論文の先を越され、自分の研究の道が閉ざされようとしていたので、
郷里の京都へ傷心の気持ちを抱え帰ろうとしていた。

青春群像コメディーに仕立てている劇の内容。確かに笑いを誘う要素を織り交ぜてはいる。
いろいろなエピソードを絡ませて……、しかしテーマは原子物理学者の苦悩だ。

 

研究はすれども、研究に掛ける国の援助費用は、海外の国と日本の場合を比べたら、
問題にならないほど、日本は貧弱だったろうと思う。
研究がいいところまで行っても大抵は海外の研究者に先を越されてしまう。
能力の差ではなく、研究費の問題…
その友田の上司・指導者の姿勢(これは後で判るが)も対応に遅れをとった。
どうにもならない日本の現状と現実を抱えていた。
“目の前真っ暗状態”は手違いが原因だと判って、東京に留まり研究を続けることになった友田。
そして徐々に戦争の気配が濃厚になって、やがて…。

ご存知、「原子爆弾」が新型爆弾として発明、完成された。
広島や長崎にこの恐ろしい爆弾が使用される結果、終戦となるのだ。
その時も友田たちの研究の方が遅れを取ったという。
日本も原子爆弾を作りだそうとしていたし、研究途上であったのだと。

そうだったのかも知れない。
友田物理学者は、その研究が例え人間を滅ぼし自然を破壊したとしても
研究に没頭して発明、発見に情熱を燃やすだろう、と吐露するのだった。
2時間50分もの長い上演だった。

科学者は自分の研究に勤しみ、追究するところに情熱を傾け、その力を実際に試してみたくなる。
ノーベルは固い岩を爆発により、トンネルや岩石採掘などに役立つように
岩石を爆破させるダイナマイトを作ったのに…。
平和に、人の役に立つと思って研究したのに人を殺す凶器になったことに研究者の罪を感じ苦悩した。
自分の研究成果が爆弾として利用されることに深い悲しみを覚えたのであった。
変な「例え」になってしまうが、オーム真理教に若い優秀な研究者達が、
「なぜ?賢い人でしょうに誰もが狂っていると思われるような、非常識な道に走ったのだろう…?」と
疑問を持たれた方も多く居られた。
自分の研究成果を実際に試す行為、どんなに危険性が考えられたとしても、
試す行為は、ある面では自然な流れだったと見る方も居られた。

今日は終戦記念日。
戦争の体験者特に上官だった人が年老いて90~100歳以上となっている訳だが、
テレビで最近、今しゃべらないと分からなくなってしまうから…と、最後の踏ん張りみたいに、
「戦争とはこういうものだ」と知らない人間に伝えてくれていた。

経験者には思い出したくもない過去、苦しい人殺し(これが戦争!)の現実を伝えようとしていた。

私の叔父も海軍兵の過去をもっている。過酷な現実には遭遇しなかったようだが、
叔父の軍隊生活の名残りとしては、子供心に感じて思ったこと…
それはご飯を掻きこむように忙しく食べていたこと。
そんな行為は軍隊の集団生活に欠かせない姿勢だったようだ。
今はそんな習慣は消えてしまったが、2、30年はそんな感じだった。

 
私が2つ、3つくらいの時の思い出を、よく話題に出される叔父。
「トンブグン、ジョウホウ、コワイヨォ(東部軍情報とラジオが言っているが恐い)」
多分異様な飛行機の音とラジオの切羽つまったアナウンサーの声が
私に感じさせたのだろう。
「防空壕は好き(美味しい甘いものが蓄えてあったから)」
私は記憶にはないが、いつも叔父は私に会うと、そう言ったと思い出しては私に話した。

今日は、昨年12月に亡くなった叔母の新盆に出かけた。
今日の夕方は送り盆であった。