「いちよう」最新号、会報37号(09.12.15発行)の、編集後記「蝸牛」に、次のように私は記した。
「▲時は流れる▲時に流されるのではなく、時を自分のものとしてとらえ、活かしていこうよ▲一度しかない人生だからね」…と。
「Sちゃんが書いた、このことに共鳴したわ。私も全くその通りだと思って、行動しようと考えていたのよ」と話してくれた友がいる。反響というか感想を聞かせてもらうことは、何であれ書いた者にとっても張り合いが出ること、嬉しいと思っている。
これを書いた時は、もっと前向きに突進したい気持ちから出た言葉であるのだが…。そして二千和会のムードメーカーとして認識している会報に “張り切りムード”を、それとなく盛り立ていくつもりで書いたのだが…。
この頃、人生のリミット、すなわち “限り有るもの”であると、本当に遅まきながら感じつつ、いろいろ出来る内にやっておかねばならないのではないか、とも思うようになった。
今年に入って身近な者がこの世を去ったことも影響している。私よりも十歳も若い従兄弟であった。さらに遡り、昨年は本当に不思議なくらい相次いで、5人もの親族との悲しい別れがあった。
対岸の火事なんて暢気にしては居られないことを、ようやく感じ出している。もっと貪欲に、今できることを精一杯していきたいと思う。
でも、それだからといって深刻過ぎる程には考えない質である。“ケ・セラ・セラ”何とかなるわ…と、向かって行くしかないことと、考えを翻すことも得意だ。
時に流されるのも私、時の流れに乗って行くのも私、…その時に応じてそのチャンスを上手く捕まえて行かねば私ではない…と自分を励ます。
振り返ってみると人生の分岐点では、いつの時もどちらにするかを選択して進んできた。選択する…という事自体が時をつかんできたという事ではないか。今、そんなことを考えながら、立ち止まって周囲を見回している…だけの地点にいるのが判る。