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「服部時計」創始者の商売人生『黄金の刻』

2025-01-20 07:43:45 | 起業家への知恵
「服部時計」の創業者服部金太郎氏の起業から成長への足取り。丁稚奉公後、時計の修理だけから始まり、中古品販売+修理、中古品1年間無料修理補償、商品に独特な日本的デザインを入れた舶来品を追加、多売による競争力と差別化をする為に自作の時計を構築、部品作りで独自の旋盤を開発、新たな時計、精密機械製造へと「夢の実現に向けて」勝負していく。商売で必須なのは商品と技術の「知識と情熱」、更に取引相手との「取引信用・相互信頼」(人脈)による発展が大きい。大火でお店が消滅した後の決断と復活力+運(全財産を投資して銀座にお店を構える)など現代の起業家を目指す参考になる。金太郎のmottosは「宝石は人間には造れないけれど、時計は人間が造れる宝石なんだ」「自分で考え、答えを見出す。白紙の状態から考えるよりも、先人が考えた答えに耳を傾け教えに従い、更により良い答えを見つけるべく模索する」
「人生とはなかなか上手くいかないもので、懸命にやったつもりでも、願い叶わず、事が思いも寄らぬ方へ向かってしまう。人との出会いもまた然り。信じていたのに裏切られ、苦境に立たされ、解決のために多大な労力を払わされる事もある。もでね、今があるのは、あの時の失敗や挫折があればこそ、今の成功は無かった、と後で振り返るとそう思う。だから人生は面白いんだ」
黄金の刻
楡周平2024年12月
「概要」洋品問屋の丁稚は、いかにして「東洋の時計王」になったのか。経済小説の名手が贈る、世界的時計メーカー「セイコー」創業者・服部金太郎の一代記。明治七年。十五歳の服部金太郎は、成長著しい東京の洋品問屋「辻屋」の丁稚として働いていた。主人の粂吉は、金太郎の商人としての資質を高く評価し、ゆくゆくは妹の浪子と結婚させ、金太郎を辻屋の一員として迎え入れようとする。だがそんな思いとは裏腹に、金太郎は、高価ゆえに持つ人の限られていた「時計」に目をつける。鉄道網の発達により、今後「正確な時間」を知ることの重要性が高まると見抜いていたのだ。いずれは時計商になりたいという熱い想いを粂吉に伝えるが――。
ー洋品屋の丁稚から将来を夢見た時計屋を目指し2-3つの時計専門店での丁稚奉公で時計技術と経営を学び、独立へと動く服部金太郎、SEIKOの創始者。志が目覚めたのは「福沢諭吉の『学問のすすめ』」と舶来の時計を見た時の胸騒ぎだという。「時計は売って終わりではなく、機械は必ず故障し手入れがをしなければならない。本体の販売と修理、手入れと3つの商機がある」「一人で立つべき、人生は一人で切り開かなければならない」「宝石は人間には造れないけれど、時計は人間が作れる宝石なんだ」
ー「修理技術を教えてもらえないなら、教えてもらえるその日に向けて、せめて時計の構造くらいは頭に叩き込んでおくべきだ」との忠告を得て質屋で買った安い時計を毎晩夜遅くまで分解し組み立てた。「技術は盗むもんだ、教わるものじゃない」と教えられ強い意志と熱意を持って取り組んだ。それと主人からは「人としてのあり方」をも学んだ。
ー主人の不幸に対して金太郎は人間の奥底に潜む、冷酷さ、醜さを見せ付けられ、全財産を主人に差し上げ、逆に人の善意と熱意を感じ取った。やがて道具と両親の家で「修繕所」を開業し中古品を揃え1年間無償修理も受けた。その甲斐あって市中の噂からお店は信頼を得て繁盛したが薄利多売で一人作業の為、家族(22歳で老舗時計店の娘を嫁)から支援を得た。「職人の腕は、最初の修行で決まる。職人の仕事を毎日間近で見ることができた事だ」
ーお店が大火で殲滅となった時、元の主人の言葉「人生とはなかなか上手くいかないもので、懸命にやったつもりでも、願い叶わず、事が思いも寄らぬ方へ向かってしまう。人との出会いもまた然り。信じていたのに裏切られ、苦境に立たされ、解決のために多大な労力を払わされる事もある。もでね、今があるのは、あの時の失敗や挫折があればこそ、今の成功は無かった、と後で振り返るとそう思う。だから人生は面白いんだ」で、大火から3ヶ月後に全財産で木挽町に、更に販売強化の為銀座に新たに「服部時計店」を開業、四人の従業員から八十人を超える従業員、国内外の中古、新品を揃えて、更に自社開発の時計で「夢の実現に向けて」勝負していく。自社製品に付加価値を持たせる為、全国の時計店に卸売業(精工舎)とのなり生産設備を拡大することに力を注いだ。(設備投資は自前の金で、その後は銀行からの借入金を注ぎ込んだ)
ー新たな雇用者にはまず教育(知識と技、礼儀)を徹底することから始め、アダムスミスの「富国論」(効率向上には分業化)を重視し工場の生産効率化工場を目指した。母の職工への世話など含めてたくさんの人からの力・知恵を得る事に励んだ。工員含めて1800人を超えた。
ー日清戦争、日露戦争など景気を上向きにしたが関東大震災(10万人以上の犠牲者)では再び試練を抱えた。精工舎の工場、本社社屋など全壊・消滅して一部の機会が残る。復興にかけて機械の再検査・改造から工場を復活、その間既存の輸入製品等で食い繋いだ。震災で時計をなくした、破損した1500もの顧客には新品と交換するなど、信頼を得てこそ未来が見える策を構築し、再建する。
社長の金太郎、技師長の鶴彦、海外販売担当の英恭、国内販売支配人の頼三の四人が基盤作り
「師を越えるのが弟子の使命であり、最大の恩返しなんだ」
住友の「浮利にはしらず」(志を高く持ち常に誠実である事・目先の利益を追うな)




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