@破天荒の人生、「女医」として「女性」として結婚、離婚、流産、中絶、出産などを経験した経験は遂に語らなかった高橋瑞。「前例がない」として女の医学への道は皆無の時代、当時結婚した女性は「産むも地獄、産まぬも地獄」と言われ「妊婦や赤ん坊を一人でも救いたい」と女医になる前の産婆の経験は2万件を超えていた。男女差別が酷い時代に女医を目指すためにドイツに単独渡航、読み書きも、公的資金もない一人の女性がベルリンの大学を目指し苦労したことがこの書に表れている。
『明治を生きた男装の女医』田中ひかる
「概要」明治23年(1890)、横浜港を出航したドイツ汽船に乗っていた唯一の日本人 女性、高橋瑞。ドイツへの女子留学生、それも私費で渡ったのは瑞が最初だった。嘉永5年(1852)、西尾藩士の末っ子として生まれた瑞は幼い頃から利口な娘 だった。維新後に家は没落、未婚のまま長兄の家で子守として過ごす。しかし、「瑞 は学問をやるといい」という亡父の言葉を胸に24歳で家を出る。旅芸人の賄い、住 み込みの女中、短い不幸な結婚など、様々な職を経て、明治13年(1880)、前 橋の産婆・津久井磯子の内弟子となる。磯子の後押しで東京に出た瑞は、28歳で念 願の学生となり、産婆の資格を取る。だが、産婆では救えない命がある、医者になりたい――瑞は、女にも医術開業試験の受験を許可するよう、内務省への請願を始め る。この頃、荻野吟子(公許女医第一号)や生澤久野(同第二号)、本多銓子(同第四 号)らも個別に請願を行っていた。彼女らの動きが実り、ついに明治17年(188 4)、女子受験者を迎えた初の医術開業試験が行われた。瑞は女学生として初めて済 生学舎に学んだ後、2年間の医学実習を終え、明治20年(1887)、公許女医第 三号として医籍登録し、翌年、日本橋に「高橋医院」を開く。36歳だった。医院は 繁盛したが、1年半後、「もっと産婦人科学を究めたい」とドイツへの留学を決める。女には大学で研究する道が閉ざされていたため、外国へ行くしか方法がなかった のだ。ドラマチックな高橋瑞の人生とともに、瑞が出逢い、見送った無名の女たちの運 命、また、女医誕生への門戸を開いた仲間たちとの友情も感動的である。
日清戦争で命を無くした1万3500人の9割は脚気やコレラの病死者だった
「気になる無中の言葉」
60歳で医者を引退、その時に友人に告げた言葉は「私が死んだら、遺体はあんたの学校にやるから解剖して役に立てておくれ。それから骨も活かせ。私は死んだ後、骨標本になりたい」と遺言はそのまま東京女子医大に校宝として保管されている、という。
桐生悠々・ジャーナリスト(瑞の支援者の一人)「言いたいことを言うのは、権利の行使、言わなければならないことを言うのは義務の履行であり、義務の履行は多くの場合、犠牲を払う」

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