@勘助は青年・壮年時代に全国を周り、兵法家、武術家などから得た膨大な経験と智慧・知識、さらに剣術は晩年になり生かされた。また、信玄の「人材登用」も才能があるものを優先し全国から召し抱えたことはこの時代稀だった。その意味からも現代でも言えるのは、良き参謀の資質は「才能在る者を如何に引き出すか、見出すか」がリーダーシップの要になるということだ。
『山本勘助101の謎』川口素生
「概要」戦国時代、山本勘助は「稀代の軍師」甲斐の戦国大名・武田信玄に仕
え、軍事作戦の立案や築城に才能を発揮したという。
ー山本勘助(1493~1561年)
青年時代~壮年時代は兵法修行・築城や作戦の立案
晩婚50歳(54歳?)過ぎという説・若い頃猪と戦い隻眼
1543年(51歳)に武田信玄に仕え、54歳信濃高遠城改築
58歳松本城改築、59歳信濃戸石城奪回、61歳位信濃海津城構築、62歳小諸城改築
1561年(69歳)第四次川中島の戦いで討死(上杉謙信の早朝の奇襲攻撃)
(謙信の「車懸かり」撤退したかのように回転して攻撃する
ー武将の持つ潔さが人気の一つ
自分の戦法が失敗に終わったことで責任を痛感し殉死する
聞くものの心情を適度にくすぐった持ち主
ー武田信玄の重臣(24将の一人)
軍団:御親類衆・御譜代家老衆・信濃先方衆・海賊衆・御旗本衆・足軽大将衆
一騎合衆・御小姓衆
勘助:足軽大将衆(山本勘助・多田満頼・小幡虎盛・原虎胤・横田高松)
勘助の職務:参謀的軍師 (築城・作戦の立案)
75人の足軽の大将として検察官や憲兵的な役割を果たした
信濃の城の設計、新築、改修(普請奉行的役割)
「分別才覚あり、工夫の知略よろしく、思案の宏才ものなり。一文字をひかずとも、学問なくとも、物知りというは、この勘助ならん。これはただ智者と申す者なり」
ー信玄の言葉「智謀のある勘助を側近に置き、献策に耳を傾けるつもりだ」
信玄は有能な人材を出身地以外でも多く採用した
勘助は諏訪御料人の推挙(四男勝頼を生む)
ー川中島の戦い
住数年で5回の合戦、双方合わせて3万数千人
勘助の最後「今日の術を仕損じたりと、味方の諸将各々討死する上は、これ迄と思い定、敵中に駆け入り、前後左右に近づく敵を捲り立てて、7騎に手負わせ、13騎まで切って落とし、終に討死した」とある
ー勘助の子孫が江戸の旗本
家康は武田家、今川家、後北条家の一族などを召し抱え、勘助の子孫、山本正重は御側支配国廻役、その後小十人組、二百五十石の知行を務めた
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