@外国人著者の訪日は14代徳川家茂が亡くなり新たに慶喜が最後の将軍となった時期であり、翌年大政奉還となる激動の時期であった(1866年から67年)が、その歴史的背景にある薩長連合などの動きついては詳細がない。大阪で将軍との謁見中にはすでに薩摩軍勢が大阪にいたとあるだけで市中は歌舞伎演劇などで盛り上がっていたとある。気になったのは欧州の風習の違いから「日本女性」。日本の女性は恥じらいもなく風呂は混浴に入り、髪は貧乏人でも頻繁に手入れ、花魁は人形のように厚化粧、だが、結婚後の地位は奴隷的扱いで、三十を過ぎると瞬く間に老いて見える)と指摘している。男性上位での平民の日本女性は13・4歳で大人として扱われ家主・主人に言われるまま身売りされ、嫁ぎに出され、一生苦労したように映った。だが唯一の楽しみは、縁日・お祭りなどで着飾り、化粧して存分に楽しんでいた、とある。
『江戸幕末滞在記』E・スエンソン
「概要」王政復古直前に来日したデンマーク人が、フランス公使ロッシュの近辺で見聞した貴重な体験を綴る。将軍慶喜との謁見の模様やその舞台裏、横浜の大火、テロに対する緊迫した町の様子、また、日本人のきれい好きから悪習や弱点までも指摘。旺盛な好奇心、清新な感性、鋭い観察眼と洞察力。若き海軍士官が幕末日本の姿を鋭く鮮やかに描く。(講談社学術文庫)
ーエドアルド・スエンソンデンマークの江戸、大阪、兵庫等での1年間の見聞録である。
ー「富士山」上りで8時間、下りで3時間、2昼夜かけての登山(6月と7月のみ)
日本初の宗教、神道の創始者が暮らしていた説・巡礼者(坊主)が多く神秘的な印象
ー波止場の横浜
税関が厳しく外国人が法外な値段をふっかけられないように税関役人が監視した
フランス政府の軍事事務所はお山(高台)、英国駐屯地での交流は非常に友好的だった
施設での使用人は日本人ではなく中国人が多かった
食事の多くは魚、海老、牡蠣、鶏など果物や野菜類も豊富、牛肉は輸入したものだけ
お山の娯楽はピクニック、競馬、あらゆるスポーツもありボートなども用意されていた
骨董品の売買が盛んで大阪など大都市から商人が運んだ(陶磁器等は加賀が多く)
芸妓・舞妓なども多く外国人に最初に提供した茶屋は皇后が設立したもの
岩亀楼は劇場であり花魁等含む茶店なども多く日没から深夜まで賑わいを見せた
日本人は仏教もキリスト教も区別なく宗教心があるが無宗教的だと思った(迷信)
ー武士・階級制度(大大名は18)
加賀藩、薩摩藩、尾張と陸奥など屋敷を構え参勤交代など5万人規模もあった
貴族(侍)は344人の小大名があり将軍より直接領地を貰い受けていた(旗本)
武士との挨拶は互いの刀・サーベルを交換し合うことが挨拶となる
武士は長髷をすることが法で定められており下級武士でも週に1度は髪型を直した
「カツラ」「付け髷」も多く売っており腕の良い髪結いがいた(ハゲ侍も多かった)
「切腹」侮辱に対して侍は敏感、だが他人からの受けた行為は感謝の念を抱く
侍は自己の尊厳、祖国愛を主張することも階級に対して厳粛に法を守った
侍の乗馬は必ず右側から馬に乗る(ぶきっちょに見えたという)
ー男社会
悪習は酒と女好き、特に上流階級、役人と官僚の数は夥しい
女性は外見こそ良さそうだが奴隷的で扱いで重労働を敷いられていた
婚姻では眉毛を落とし、歯黒に、女の不義には離縁の権利が男にあり残酷に映った
お風呂は男女混浴で女性もお風呂と化粧は人前でも恥じらいがなかった
女性は貧乏人でも髪の手入れは念入り、お祭りなどでのお化粧は厚く塗っていた
ー大君(将軍:慶喜30歳)との謁見(慶喜の4カ国大使謁見)
4人老中(板倉・が中心)に外国人大使を招待
通訳は3人(塩田、長田、鳥居)、列席には栗本安芸守、川勝近江守、平山図書
武器に関する豊富な知識を持っていた将軍は軍艦、大砲、朝鮮遠征などを尋ねた
フランス軍隊からの武器の調達、軍隊の組織化など思慮深かった
フランス海兵隊約200名の訓練模様を興味深く見学する
日本古式の武士の袴(正式)約60cmほど引きずって歩くのが奇妙だった
慶喜はフランス料理を大変お気に召しシャンペンも少し召し上がった
食べる時に音を立て食べる習慣にはなれなかった
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