山崎浩子『愛が偽りに終わるとき』(文藝春秋1994年3月)
より、引用しました。
著作権上、問題があればすぐに削除する用意がありますが、できるだけ多くの人に読んでいただく価値がある本だと思いますので、本の内容を忠実に再現しています。
なお、漢数字などは読みやすいように算用数字に直しました。
(目次)
□第1章 「神の子」になる
□第2章 盲信者
□第3章 神が選んだ伴侶
■第4章 暴かれた嘘
□第5章 悪夢は消えた
□あとがき
親友を入信させた悔恨
私は一刻も早く、私の間違いをみんなに伝えたかった。
とくに私が入信をすすめたT子に対しては申しわけない気持ちでいっぱいだった。彼女はまだ祝福を受けておらず、献金もさほどしてないとはいえ、私が安易にすすめてしまった結果、人生を大幅に狂わせてしまった。
(今、彼女はどうしているのだろう。会社のこと、新体操スクールのこと、何から何まで彼女一人に背負わせてしまっている)
いちばん信頼している友人だった。つらい時、苦しい時をいつも助けてくれた人だった。彼女に連絡さえすれば、新体操スクールの対応もすべて任せられる。
でも、彼女は統一教会員だった。一人の人間である前に統一教会員だった----。
2月ぐらいまでの彼女は、それほど熱心な信者ではなかった。統一原理がのみこめてなくて、様々な質問をぶつけてきたぐらいだ。かえって教会に対して批判的な想いを持っていたほどだ。
けれど今の彼女の状態はわからない。私がいなくなったとわかったからには、統一教会から短期集中的教育をうけているかもしれない。だとすると、もう以前の彼女ではない。
私からの連絡を教会に流さずに、新体操スクールだけにとどめておくことは無理だろう。それは、私の以前の、ほんの少し前までの思考回路、行動パターンを考えてみればよくわかる。
マインド・コントロールの実態を知った今、統一教会員である彼女は信じることができない。
また、彼女が脱会しない以上、これから一緒に仕事をしていくことはできないだろう。
(あんなに二人でがんばってきたのに……)
彼女と知り合ったのは大学3年生の頃だった。彼女はスポーツ・フォトグラファーであり、おもに新体操を撮っていた。
気が合った私たちは、二人で同じ夢を抱いた。
オリンピックを終えた私は、次の目標をみつけるためにさまよい続けた。テレビの「クイズダービー」にも出演していたが、芸能界だけにどっぷりつかる気はなかったし、そんな力もなかった。他に何をやればいいのかと、迷いに迷っていた。高校1年から新体操を始めて9年間、新体操ひとすじでやってきた私にとって、オリンピック後の心の空白を埋めることと、次の目標をみつけることは容易なことではなかった。
テレビに出演したことでアマチュア規定に反し、もう二度と新体操の世界に戻れないと言われた。体操協会や大学とうまくいってないのではと、マスコミから袋叩きの攻撃を受けた。
泣いて暮らした日々に力になってくれたのが、このT子であり、T子の家族だった。
T子の実家に居候させてもらいながら、次第に自分を取り戻していった。苦しい時こそ自分をみつめるいい機会だった。
そして、依頼により週一回だけ、子供たちに新体操の指導をすることになった時、私はあらためて新体操の素晴らしさを知った。子供たちの楽しそうな笑顔、「できたヨ」とかけ寄ってくる得意そうな顔。そんな笑顔のひとつひとつが、私に活力を与えてくれた。
自分が感じてきた新体操の世界、苦しくてつらくて、でもその何倍も喜びがあって、そういう想いと素晴らしさを、この子供たちにもっと伝えることができたなら……と私は新しい挑戦をしたいと思うようになった。
(自分の新体操スクールをつくりたい)
一度消えかけた生きることへのエネルギーが、新たな目標によって再び燃え始めた。
二人でかなえた新体操スクールの夢
T子もまた、私が新体操スクールをつくることに大賛成だった。
新体操を撮り続けて、その魅力にとりつかれた一人であり、日本の新体操をもっと繁栄させたいと思っていた。世界の最高の舞台に立った私なら、喜びも悲しみも苦しみも、多くのことを伝えられるのではないかと言ってくれた。私のスクールの中から、いい選手が出てくれればと、日の丸を背負うような選手をまた撮ってみたいと思っていた。
スポーツが好きで、自分自身も陸上のトップに立ちたいという夢を持っていたが、身体が弱く、挑戦することさえもできなかった彼女は、ひとつのことに打ちこむ選手たちの姿を見たかったのかもしれない。
人に感動を与えられるような選手をつくりたい、ただ新体操ができるというだけでなく、新体操を通じて心を学べるようなスクールをつくりたい、そういう私の想いに、彼女も共鳴した。
そこから、新体操スクール開校へ向けて準備を進める毎日となった。私たちは二人で会社をつくることにした。有限会社のつくり方という本を買ってきて、その本を見ながら、ひとつひとつ用紙に書き込んでいく。会社の名称を考え、定款を考え、何度も出張所や登記所に通って、何もかもが手作りだった。どうにか86年4月に会社が設立となり、喜びもひとしおだった。
この日から、私たちの外に向けての活動が始まった。広告代理店を通じて、各企業にアタックだ。
企業が協力してくれるということは、それだけ新体操に魅力がある証明でもある。地域で細々とやるのもいいが、新体操全体を考えた時に、企業を味方につけたスクールをつくりたいと思ったし、新体操の魅力を企業にわかってもらいたかった。
私たちの時代は、小学生ぐらいで新体操ができる環境は少なかった。新体操は子供たちにとっても危険性は少ないし、音楽をふんだんに使うので情操教育にも役立つ。企画書を作って広告代理店との話も盛り上がる。
しかし、問題は施設のことだった。
新体操で使うスペースは相当広い。リボンなどは六メートルあるのだから、一人当たりの使用スペースが広いのも当たり前である。それに、輪などは十数メートル以上投げ上げるし、天井の高さも必要だ。
都内で、そんな施設をみつけるのは至難だった。それに、造るとなると何億円かの話になる。
そこまでして採算が合うのか。新体操というスポーツが企業のイメージアップにつながるとしても、そこまで踏みだす勇気は結局なかったのだろう。
構想は次々と崩れ、話は没になっていった。
そのうち、広告代理店は乗り気ではなくなり、スクール開校の夢は遠のいていく。
頼りになるのは自分たちしかなくなった。
誰かれかまわず、「いい体育館知らない?」と聞くのが口ぐせのようになっていた。
(あきらめちゃいけない)
どこかでくじけそうになる心を、必死で奮い立たせた。
そんなある日、鹿児島県人の集まりみたいなものがあった。そこで私は口ぐせとなっていた言葉を口にした。
「いい体育館知りません?」
「ありますよ」
「ホントですか?」
あまりにあっさりした答えにびっくりしたが、さっそくその施設を訪ねることにした。
広く、大きな体育館だった。プールやアスレチックジムまで完備した複合施設で申し分のないところだった。
きっそく、そのN社の社長さんにコンタクトをとる手はずとなった。
そこからの話はまさにトントン拍子だった。
88年4月2日、スクール開校。会社設立から3年目の春のことだった。
スクール開校当初は何もかも手さぐり状態だった。
何しろ3歳から中学生を対象にしたスクールであるし、若いスタッフと共にやっていかなければならない。ある時は幼稚園の先生のようであり、ある時は恐い先生であり、スタッフとは指導について悩みながら進んでいった。
指導の難しさ、楽しさ、面白さを日々感じるばかりだった。
新体操スクールは私の生きがいであり、夢だった。
その夢を、ここでなくしてしまうのだろうか。
なんとかしてT子と連絡をとりたい
もし万が一、私が新体操スクールに戻ることができたとしても、二人で、そしてみんなでつくりあげてきたスクールを、またT子と一緒にやっていくことができるのだろうか。それは絶望的に思えた。
彼女は、今までの私と同様、統一教会の思考回路を持った人間なのだ。
なんとかして彼女にも牧師さんと会って話を聞いてもらいたかったが、しかしその前に世間に向かって私の間違いを表明することが先決だった。
そのためには早く記者会見をすることだと思ったが、自分の考えを言葉にするには、まだまだ時間が必要だった。
私は、綿密な計画の上に、T子ではない新体操スクールのスタッフの一人に連絡を入れた。この時期に連絡が入れば、どこまでマスコミや統一教会の手が伸びているかわからず、かえって迷惑をかけるかもしれない。だから公表する必要はなく、彼女を安心させることだけが目的だった。
このことが後にT子にとってどれほど苦痛になるかはわかっていた。しかし、やむを得ないことだった。
そして、私は、自分自身の心の整理と頭の整理につとめていった。
あれほど信じていたことが、また、世間に公言したことが間違いであったことは、自分でも計り知れないほどショックだったらしい。頭の中がしばし空白になった。けれど、なぜかものすごい解放感と安堵感があった。今までぎゅうぎゅうに縛られていたものがフワ~ッと解き放たれていくような感じだった。
私が脱会を決めてからは、牧師さんも少し顔を見にくる程度となった。姉や叔父たちも私に言葉をかけるでもなく、私は読みたい本を読み、ボーッとしていた。
頭の整理のために手記を書く
統一教会は相変わらず、尾行や張り込みを続けているようで、一度はある教会に押し入ったそうだ。そこに私たちがいると勘違いしての行動だった。統一教会の怖さは、何をしでかすかわからないという怖さだった。神のためだったら何でもする、指示されたことは疑いも持たずにやるという怖さだった。
次第に冷静に考える力を取り戻してきた私は、勅使河原さんが私の失跡を公表する記者会見で
「彼女は妊娠している可能性がある」と発言したこと、私が彼に宛てた手紙を公開したこと、その他マスコミに対する言動を見て、
(あ、この人は一人の男性として、私を愛しているんじゃないんだな)
と思った。統一教会員としての言動そのものであり、またそれは、統一教会員として、しごく当然のことだった。
わずかな不信感がつのる中、でも彼にも牧師さんのところへ行ってほしいことだけは伝えたいと思った。マスコミや統一教会が目をギラギラさせている中では、会うことも難しいだろう。
私には、彼のためにも二人の関係をビシッと切ってしまうことがいちばんいいと思えた。少しも甘さを見せてはいけない。彼自身が統一教会を脱会すること以外に道はないのだということをわからせたかった。何か強いショックがない限り、自ら牧師の話など聞こうなんて思わないはずだ。きっぱり決別することによって、牧師さんのところへ行ってくれるのではないかという期待があった。
しかし、私が脱会を宣言して世間に出たあとで、彼が、また統一教会がどんな行動に出てくるのか見当もつかなかった。
そして何より、新体操スクールがどうなっているのか、どうなっていくのかが気がかりだった。
昨年から、新体操スクールにもスタッフにも迷惑ばかりかけてきた。私一人のことで、みんなに、つらく悲しい想いをさせてきた。今、この時だってどんなに荒波の中をさまよっていることか。
これ以上、スクールの生徒の親御さんもスタッフも私を受け入れてはくれないだろう。これからどうなるのかわからない私のもとで、スタッフに働いてもらうわけにはいかないと思った。私の心が自由に解き放たれたように、彼女たちにも苦痛から逃れさせてあげたかった。私はどうなろうと、一番に新体操スクールの存続に全精力を傾け、スタッフの将来に力を注がなければと思った。
(自分はどうなってもいい)
本当にそう思った。でもそれは、悲観的な投げやりなものではなかった。あまりにも事が大きすぎて自分の行動の行く末などわかるはずがない。自分が蒔いた種である以上、自分で刈り取らなければならない。ありのままの現実を、あるがままに受けとめよう。
頭の整理のために手記を書き、せまる記者会見に向かって、次第に心は澄んでいった。
(つづく)
【解説】
第4章では、山崎浩子さんが“拉致・監禁”され、旧統一教会の信仰を捨てるまでの様子がていねいに描かれています。
親友を入信させてしまった悔恨について書いています。胸に刺さります。
獅子風蓮