友岡さんが次の本を紹介していました。
『居場所を探して-累犯障害者たち』(長崎新聞社、2012.11)
出所しても居場所がなく犯罪を繰り返す累犯障害者たち。彼らを福祉の手で更生させようと活動する社会福祉事業施設の協力で、現状と解決の道筋を探った。日本新聞協会賞を受賞した長崎新聞の長期連載をまとめた一冊。
さっそく図書館で借りて読んでみました。
一部、引用します。
□第1章 居場所を探して―累犯障害者たち
■第2章 変わる
■変わる刑事司法と福祉~南高愛隣会の挑戦をめぐって
□山本譲司さんインタビュー
□おわりに
第2章 変わる
変わる刑事司法と福祉~南高愛隣会の挑戦をめぐって
(つづきです)
講演から1年が過ぎた04年秋。
田島は宮城県福祉事業団の中に、罪を犯した障害者らの法的整備に関する勉強会をつ くった。
「とにかく塀の中の実態を知らねばならない」―そう思った。
やがて、厚生労働省の役人や弁護士、福祉関係者らから「勉強会に参加したい」との声が寄せられ始めた。「獄窓記」は想像以上に各方面に衝撃を広げていた。05年4月には、法務省の職員や「獄窓記」の著者である山本譲司にも加わってもらい、「触法・虞犯障害者の法的整備のあり方検討会」を発足させた。
私的な勉強会だった「検討会」は1年間にわたって調査・研究を重ねた末、06年6月、「罪を犯した障がい者の地域生活支援に関する研究」として厚労省の正式な研究班に「格上げ」された。刑務所内の障害者処遇の実態解明に、国が重い腰を上げたのである。しかし、研究班は最初から壁にぶち当たった。研究班の代表者が一向に決まらなかったのだ。刑事司法や福祉の分野で名の売れた研究者はことごとく代表に就くことを拒んだ。
「仕方のないことかもしれないな」と田島は思った。
研究班の最大の使命は、刑務所の実態を白日の下にさらすことだ。それは大勢の障害者たちが罪を犯し、刑務所に入っているという事実を明るみにすることに他ならない。当事者の家族会や人権団体から猛烈な抗議が寄せられるのは容易に想像できた。
ある日。厚労省の幹部が訪ねてきて、田島にこう言った。
「代表者はあなたしかいないでしょ」
田島は首を振った。
「俺は研究者ではない。現場の人間だ」
幹部は冗談交じりに返した。
「たいした問題じゃない。あんたが一番叩かれ慣れてる。適任だ」
その言葉を聞いて、田島は肩の力が抜けた気がした。
「確かに矢面に立つのは、私の領分かもしれない。これまでもずっとそうやって障害者のためにやってきたじゃないか」
田島は研究班の代表に就いた。
そして、「パンドラの箱」が開いた。
研究班が翌年の1970年に公表した刑務所の実態調査結果は社会に衝撃を広げた。
全国15カ所の刑務所の受刑者約2万7千人のうち、410人に知的障害(疑い含む)があった。「福祉のパスポート」と呼ばれる療育手帳を持っていたのは、そのうち、わずか26人(6%)。刑務所に収容されるに至った罪は窃盗、動機は「生活苦」がそれぞれ最多。
7割が再犯者で、その約半数は出所後、「帰住先」、つまり帰る場所がなかった。
(つづく)
【解説】
田島は研究班の代表に就いた。
そして、「パンドラの箱」が開いた。
研究班が翌年の1970年に公表した刑務所の実態調査結果は社会に衝撃を広げた。
自分の過去の反省点ときちんと向き合った田島氏は、累犯障害者の問題解決に向けて、重い扉をあけることができました。
見習うべき態度だと思います。
獅子風蓮