syuの日記・気まま旅

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戦争シリーズ その1

2012-07-10 | 諸々日記
また暑い夏がめぐってきました。8月15日終戦記念日も間近です。5回にわたり下町を中心に歩いてみました。


内容は、自分史「回顧録・悔いなし人生」から抜粋した部分もあります。


九段坂の母

         上野駅から  九段坂まで  勝手知らない  じれったさ  杖を頼りに  一日がかり
         倅きたぞや  逢いにきた

         空を衝くよな 大鳥居   こんな立派な  御社に  神と祀られ  勿体なさよ
         母は泣けます  嬉しさに
          
         両手合わせて  ひざまつき  拝むはずみに  お念仏  はっときずいて  うろたえました
         倅許せよ  田舎者                                     


1904年 我が国は、ロシアと、朝鮮、南満州の支配をめぐって、日露戦争に突入した。
1914年~1918年 人類史上初の世界第一次大戦を径て、我が国は、大正12年に、関東大震災が襲い、苦しい財政難に。
大正14年に普通選挙交付された。ラジオ放送もこの年で、一気に、世界と国内の情報が流入する。

世界の情報が飛び交え、ドイツでは、ヒットラー「わが闘争」を出版、世界の情報もスピード化されてくる。
昭和に入り、中国では、蒋介石の国民党の大改革があり、毛沢東は、江西省岡山に根拠地をかまえた。昭和3年に、張作林爆死事件発生。
ここで蒋介石が前面に出てくる。日本の第一山東軍が遅しと出兵が始まる。昭和6年9月の「満州事変」である。

まず靖国神社から

靖国神社内の母子像         靖国通り入口

1938年生まれの寅年です。今までの人生を振り返って、思い出すことなど記録していきたいと思います。拙い文章ですがお付き合いください。

昭和4年ニューヨーク、ウオール街の株価が大暴落し、世界は、経済大恐慌に、人口ばかりが増え、資源の乏しい日本への影響は大きく受けて行く。
オーストリア中央銀行が破産が、ドイツに大きく波及する、金融恐慌で失業者が街に溢れ、世界の大不況で苦しむ国が特にヨーロッパに続く。
第一世界大戦は、ヨーロッパ中心の民族的対立を背景にした世界戦争であった。その時の同盟国を見ると、ドイツ、オーストリア、トルコ、ブルガリア4ヶ国と
イギリス、アメリカ、フランス、ロシア、イタリア、と日本である。
だが、二次世界大戦は、絡む世界大恐慌で、世界は再分割され、後進資本国の日本、ドイツ、イタリアは、高い技術を持っていたが資源はは乏しく、
先進国イギリス、アメリカなどの経済制裁を受け、国民が食べていけなくなるという深刻な問題を抱えていたのだ。
昭和6年5月15日犬養首相が暗殺され、世にいう5・15事件があり、軍部が力を付けていく。
昭和14年、ドイツではヒットラー、アメリカではルーズベルトが政権を握り、これが、やがて始まる世界第二次世界大戦への導火線となる。

昭和11年、2.26事件が起きている。翌年中国盧溝橋において、日・中両軍がぶつかり日中戦争が始まった。
昭和13年国家総動員法が公布され、翌年になるとアメリカが日米通商条約を破棄してきた。ソ連との間では、ノモンハン事件が起きている。
1939年ヨーロッパでは、ドイツがポーランドに侵攻、ソ連との間で全面戦争となっていった。第2次世界大戦の火ぶたがいよいよ切られたのである。
石油、エネルギーを絶たれた我が国の生き延びる道を探さなければならなかった。


現在の九段坂          九段灯台              神社参道



「軍人に賜りたる 勅論」

            一つ、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし
            一つ、軍人は礼儀を正しくすべし
            一つ、軍人は信義を重んじすべし、、、、、、。


「靖国神社・遊就館 」は、明治以降の日本の戦争・内戦において政府・朝廷側で戦歿した軍人らを祀る神社。
特に、戦後行なわれた戦没者遺骨収集の際に戦跡で回収された遺品類、戦没者の遺書を等を見たかった。
「靖国の神々」では、祭神となった戦没者の写真や肖像画の一部を見る事が出来た。

                    拝殿    



日本国民は、軍事強化を選んでいく。

  「兵隊さんありがとう」である。子供の頃歌った。

             肩を並べて兄さんと、今日にも学校へ行けるのは、兵隊さんのおかげです、
             お国の為に、お国の為に戦った、兵隊さんのお蔭です。



            神社境内の軍犬と軍馬像



2.26事件が起き、翌年中国盧溝橋において、日・中両軍がぶつかり日中戦争が始まった。昭和13年国家総動員法が公布された。
翌年になるとアメリカが日米通商条約を破棄。ソ連との間では、ノモンハン事件が起きている。

1939年ヨーロッパでは、ドイツがポーランドに侵攻、ソ連との間で全面戦争となっていった。第2次世界大戦の火ぶたがいよいよ切られたのである。


日本兵攻撃像             陸士像             戦闘機乗り像


私は、今でも隅田川に向かい黙とうを続けている。特に昭和20年3月の東京大空襲で一夜のうちに10万人もの人が死んでいる。
私はその頃、家族と共に秩父に疎開していた。

多くの人々は、猛火に追われ、追い詰めれて隅田川に飛び込み亡くなられた。その時の、苦しさによる悲鳴が遠く10キロ離れた大森海岸まで聞こえてきたという。
隅田川には、男子は下向きに、女子は上向きに列を作りながら死体が東京湾方面に流れ出していた。

 
我が国自慢のゼロ戦闘機                高射砲



「太平洋戦争」
日本は、昭和16年12月8日真珠湾奇襲とマレー半島上陸作戦で米・英と戦争に入って真珠湾作戦は、宣戦布告が外務省の手落ちにより、アメリカへの通告が遅れ
「だまし討ち」と云われている。心ならずも残念なことだ、肝心の敵航空母艦が湾に不在だったことが悔やまれる。
マレー半島作戦は、2か月で1100KMを突破、翌年2月15日シンガポールが陥落させた緒戦の勝利には目を見張るものがあった。
昭和14年9月欧州でドイツが破竹の勢いでポーランドを攻め、ドイツ有利に戦いを展開し攻めている中。3国同盟を結んだ。

このことが対米戦争にまで至ったのは、一部の政治家、一部の軍隊の独走によるという解釈がよく言われるが、事実は、国民大半がこの決定に共感していたのだ。
その後の戦いが不利に転じ、ついに無条件降伏となる。

当時の世相を見ると、終戦の8月末、マッカーサーが上陸して、9月2日ミズーリ―艦上で降伏文書調印され、国民は、占領軍を迎える不安、東久邇皇族内閣の
一億総ざんげを訴え無政府状態、今までの日本伝統体制はどんどん崩れ、戦犯容疑者が続々逮捕されていった不安、食べる物がなく、職もなく、
野宿を求め全国から人人が続々東京に集まってきた。さらに疲れ切った引揚兵も次から次に東京を目指して集まった。東京に行けば何とかなるという人々
の町となり、特に上野では、戦場で傷を負い、白い病衣の負傷兵がハーモニカ、アコーデオンなどの楽器で悲しげな軍歌等の曲を奏でていた。
目が見えず、片腕、片足がない人、道行く人々に頭を下げ、胸に下げた箱の中にわずかな同情の寄付を集めているのだ、彼らは、時には電車の中にも現れた。
誇りを失い、みじめさ、みすぼらしい姿・・・彼らが本当に勇敢な日本兵だったのかと信じがたかった。
共産主義者が解放され、地下活動から日の下へと這い出し、待ち望んで革命の時と声高い高に活動しだした。
かつての静かで落ち着いた東京は、もう永久に戻らない寂しさを少年ながら思った。


社の奥にある「遊就館」遺品展示


「軍艦行進曲」
         守も攻めるも黒鉄の  浮かべる城ぞ頼みなる  浮かべるその城日の本の  皇国の四方を守るべし
         真鉄のその艦日の本に  仇なす国を攻めよかし。



マンハッタン計画により開発中であった原子爆弾の使用対象として日本が決定。
1943年5月であった。広島市が目標と決定されたのは1945年5月10日、長崎市は投下直前の7月24日に予備目標地として決定された。
京都市や新潟市や小倉市などが候補地とされていた

我が軍隊は、最後に手段、組織的特攻として陸軍は本格的な検討が1944年2月頃に始まったと推定され、海軍も計画が同年2月26日特攻兵器人間魚雷の試作から始まる。
特攻の実行は1944年レイテ沖海戦において、海軍が"神風特別攻撃隊"として1944年10月25日に実行し、陸軍は特別攻撃隊"富嶽隊"によって11月7日から実行された。
以降特攻隊は終戦まで次々編成され出撃していった。

 
館内の模型船 航空母艦など



午前8時15分、B29爆撃機エノラ・ゲイがウラン型原子爆弾「リトルボーイ」を人類史上初めて広島市に投下。市中心部の広島県産業奨励館(原爆ドーム)
近くの上空約600メートルで爆発した。
爆心地の地表温度は3千~4千度に達し、熱線や爆風で市内の建物の90%以上が壊滅。推計人口35万人のうち、同年末までに14万人が死亡したとされる。
原爆死没者名簿登載者数  263,945名 (平成21年現在)


兵士が、大事に持ち、身に付けていた日章旗          戦闘機


その他に、人間魚雷 回天、家族あて御遺書、軍服など遺品、記録映画など鑑賞できる。先輩たちの英霊が聞こえて來る空間でもあった。


民族の間違った驕りが戦争に、その2に続く。