syuの日記・気まま旅

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戦争シリーズ その5

2012-07-20 | 諸々日記
現在でも、地下鉄工事で、人骨が出てくると云う。東京の土の中には、多数の無縁骨がある。合掌しながら仙台堀りを。

「仙台堀川公園」は、江東区立の公園。区内を流れている仙台堀川の多く部分を埋め立てて造られた親水公園で、総延長は3700mになり、都内最大の規模を持つ。
歴史は、仙台堀川の流れている一帯は付近にあった工場などからの地下水の汲み上げにより地盤沈下が激しくゼロメートル地帯となっていた。
それにより川より低い土地が出来上がり、護岸壁の高さもどんどんと上げていかなくてはならない状況で、特に仙台堀川一帯は台風の時などは護岸壁を超えて
川から水が溢れる危険があった。
このような危険を回避するために、川を埋め立てて公園とする工事が進められ、工事は1978年に始まり公園としては1980年に開園した。
その後も工事は進み、1986年に全面的に完成し、仙台堀川の多くは樹木と川とを身近に感じることのできる親水公園と大きく変わった。

総延長は約3700mの細長い公園で面積は約103,850m²にも及ぶ。西は大横川合流地点で、北は小名木川合流地点までとなっている。
西の大横川合流地点より先はまた仙台堀川として河川になっている。
地名としては北砂、東砂、南砂、千石、東陽にまたがる。いずれも江東区の公園、各地区ごとにテーマがあり、そのテーマごとに趣向を凝らした造りとなっている。
途中に同じく河川を埋め立てて作った横十間川親水公園と合流する。

細長い公園なので、鉄道駅としては都営新宿線・大島駅、地下鉄東西線・南砂町駅・東陽町駅の各駅と結んでいる。


仙台堀りに沿って、横断する道路に合わせ変化している、
    

全長900mの桜並木には、ソメイヨシノ、カンヒザクラなど350本の桜の木が植えられている。南砂緑道公園は旧都電敷地に植樹され、100本のソメイヨシノが
桜のトンネルをつくり見事である。

「父の再婚」母が亡くなって2年、小学5年の時、父は見合いし再婚した。その再婚で我が家は、なお苦労が重なっていく、四人姉兄弟に、男の子が生まれ五人に、
父は、当然妻とその子が大事になっていった。


釣り堀の出来る池                    古い漁村の家
  

築,江戸時代 「古民家住宅・民家園. 旧大石家住宅」仙台堀川公園内にある。
旧大石家住宅は、江戸時代に建てられた区内最古の漁村の民家。「安政の大地震」(安政2年、1855)でも倒れなかったという。

古民家の土間                          部屋の中
  

1624~1644年に開鑿されたと伝えられる運河。仙台堀川の名称は、清澄1丁目付近に、仙台藩主・伊達家の蔵屋敷があったことによるという。


近代的な住宅マンション 
    

昭和22年学校給食が始まった。最初は副食で、翌年から弁当そのものが要らなくなった。何と云ってもこれほどうれしかったこたは無い。
全クラス同じ食事を差別なく食べると云うことである。私の弁当は、常に外米(縦に赤筋が入りぼそぼそして粘りが無い)か、さつま芋であった。
中には、ギンシャリ(全ては白米)に厚焼きの卵で、自慢して食べている生徒もいた。弁当箱を隠しながら食べる必要がなくなったのだ、嬉しかった。

今日は大島商店街の有名な「アンパン」を購入した。子供頃、甘いものに飢え「ズルチン」を舐めすぎて下痢したことを思い出した。
今の贅沢な溢れるほどの食料は、子供の頃想像もしなかった。


あんこの一杯のアンパン    大島商店街内に
  

「旧安田庭園」は、隅田川の水を導いた汐入り回遊式で、江戸名園の一つとして数えられている。
明治24年、安田善次郎の所有となり名が付けられたが、震災、公害の影響などで名園としての面影を無くした時期もあった。
区が全面改修工事を行い平成8年、都の文化財に指定された。


「新聞配達」私は中学生となり、学用品もままならず、近くの新聞店でアルバイトをした。当時は、全ての新聞を扱っており、担当地域の一軒一軒
積み重ねて配達していた。新聞店を出る時は、新聞・チラシなどの重みが肩に食い込み、冬、夏の辛さは頭から離れない。


    


「俵星玄蕃」尾張家の家来の浪人,横網町で道場をやってる槍の名士で、土とか砂の詰まった俵を槍で突いてポイポイ放り投げる「曲突き」という特技を持っていた、
三国一の槍の名人。忠臣蔵に参加を申し出たが受け居られなかった。

「舟橋聖一」(1904―1976)小説家、劇作家。明治37年、ここ本所横網町に生まれ。幼時から芝居、芸者、相撲取りなどに親しく接し、後年の舟橋文学を
形成する世界を存分に吸収。
旧制水戸高校を経て東京帝国大学国文科を卒業。劇作家から小説家へと転身。太平洋戦争中に書き継がれた「悉皆屋康吉」(1941~45)には、時代に抵抗して
伝統的な美の精神を守ろうとする。
第二次世界大戦後は第一線の人気作家として「雪夫人絵図」「芸者小夏」、井伊直弼を主人公とした歴史小説「花の生涯」などを発表し続けて行く。

                              船橋聖一の誕生跡の碑
  

「両国国技館」
昔は、京葉道路沿いの本所回向院の境内にあった。現在の国技館は、1906年着工、3年後の1909年に竣工し、6月に開館式が行われ、6月場所より使用された。
それまでは小屋掛け、臨時に設備を設けて行い、「回向院場所」が行なわれていた。しかし1906年6月場所の番付上は「常設館」とだけあって国技館の名は無かった。

両国国技館正面玄関
  


おきゃんは、辰巳芸者の気風は勇み肌で「きゃん」とよんだ。侠のことであるという。おそらく長崎で通商する清国商人が、長崎丸山の遊郭あたりで、
勇み肌の芸者をそのようによんだところから帰化したことばであるらしい。江戸で定着し、とくに深川芸者の心意気をあらわすことばとして使っていた。
おきゃんというと、娘らしさと、気っぷの色気とあわせたように響くが。


国技館・江戸博物館・都慰霊堂・安田庭園と並んでいる
  

隅田の花火大会は、子供の頃の思い出の一つである。夜空を金色に染め、見事な光の花模様広がり、音が良い、ドドドーン。
夏の夜空一面に打ち上げられると爽快になる。花火の火薬の臭いと煙が風に乗ってくると夏休みの残された宿題を忘れられた。
花火と云えば隅田川、打ち上げ数でも全国でも群を抜いていた。歴史も280年前の江戸時代から続いている。戦前は、親戚も呼んで屋形船に乗り花火見物をしていた。
母の死の翌年、昭和24年父の会社が台風被害で製品が水につかり倒産、我が家に差し押さえの赤紙が張られた。父とその子供の五人家は・・。

今回の戦争シリーズはここまでとします。5回の戦争シリーズご訪問ありがとうございました。