両国駅近くに、「都慰霊堂」、がある横網町公園は元陸軍被服廠があった場所。
被服廠は大正8年に赤羽に移転し、その後公園予定地として、1923年(大正12年)関東大震災が起きると、この場所は多くの罹災者の避難場所になった。
多くの家財道具が持ち込まれ、立錐の余地もないほどであったが、周囲からの火災が家財道具に燃え移り、また火災旋風が起こったため、この地だけで
東京市全体の死亡者の半数以上の3万8000人程度が死亡したとされる。
震災後、死亡者を慰霊し、このような災害が二度と起こらないように祈念するための慰霊堂を建てることになり、官民協力のもと、広く浄財を求められた。
東京震災記念事業協会によって1930年に「震災記念堂」として創建され、東京市に寄付された。
身元不明の遺骨が納骨され、1931年(昭和6年)には震災復興記念館が建てられた。
第二次世界大戦における1944年・1945年の一連の空襲により、再び東京は焦土と化し、関東大震災を超える7万7000人あまりが死亡した。
1948年より、各地に仮埋葬された身元不明の遺骨を納骨堂に改葬し、「東京都慰霊堂」と改称し現在に。
都慰霊堂 公園内に破壊された鉄骨
私の中で、最も混乱した小学校低学年時代であった。小学3年時の母の死、先の見えない不安、殺伐とした社会、餓死状態の東京都市は、体力のある大人たちは、
闇屋となり、進駐軍払下げた物資、闇米、食料、インチキ商品など、高値で売りまくっていた。引揚者は「軍保有米、軍需補償物品など」、
その為インフレが進み貧富の差は、闇屋をやる人とやらない人とで大きく差が広がっていった。若い体力のある者、主に引揚者、地方出の男等が稼ぎまくった。
東京人は、着物を持ち近県の農家に買い出しに出るしかなかった。政府の主食配給はわずかで、2合1勺、1200カロリーで、後は闇に頼りで、それに、
ありつけない家は自殺か餓死である。
私の住んでいた近くの鉄道陸橋には、毎日のように、家族単位で鉄道飛び込み自殺が絶えなかった。今でも思い出す6人家族の飛び込み自殺は
思い出したくない。
焼け残った自転車
天皇が国民に戦後初めて演説した「食糧事情」について
「祖国再建の第一歩は、国民生活、食料安定にある。地方農民は努力をしているが、もっと生産と増産と供出に努力して欲しい、都市における食糧事情は
いまだかって例を見ないほど窮迫し、この状況は深く心を痛ましめるものがある。
政府は、直ちに適切な施策を行うべきは言うまでもないが、全国民においても、乏しきを分かち、苦しみを共にするの覚悟を新たにし、同胞お互いに助け合って、
この窮状を切り抜けなければ成らない。
戦争による諸種の痛手の回復しない国民に、これを求めるのは、誠に忍びないところであるが、これを切り抜けなければ、終戦以来全国民の続けていた
一切の経営は虚しくなり、平和な文化国家を再建して、世界の推運に寄与したいと云う我が国民の厳粛かつ神聖な念願の達成もこれを望む事が出来ない。
この際にあたって、国民が家庭国家の麗しい伝統、区区の利害を超えて、現在の難局に打ち勝ち、祖国再建の道を踏み進むことを切に望むし、かつこれを期待する。」
というものだった。1947年昭和22年政府はパンの切符配給制を実施した、東京人は、近県にリックを背負い、家族総出で買い出しに出た。
我が家は、埼玉県草加、越谷が多かった。
疎開先から汽車に乗車する人人 終戦時の新宿都電通り
小学1~2年の私を連れ、40歳の母が自分の大事な着物を風呂敷きに包み、帰りに腐りかけたさつま芋と出来る限り量を多く交渉して、家で待つっている家族の為、
農家を訪ね、交換するのである。
思い出すのが農家の穴の中に保存した、腐りかけたさつま芋が、独特の臭いを発して、母と選り分けて風呂敷に包んだ思い出がある。腐りかけて黒くなった芋は、
口に入ると、それはそれは苦さでたまらなかった。
空爆を受けたビル 一面焼け焦げた下町
山手線駅前は、闇市が、上野、日暮里、新宿、新橋に、引揚兵や地方から続々と人が集まってきていた。
戦時経済は、物の生産、流通いっさいが規制される統制経済。全配給制。その規制をおかせばすべて闇取引、闇市場だった。
雨後のタケノコのように、いたるところで青空の闇市が立ったのです。
物の値段は上がる一方、年末には公定価格(統制価格)の数十倍になったという。
サラリーマンの月給が200円。闇市の相場は、しる粉1杯10円、大根1本4円、軍足(軍用靴下)20円、ワイシャツ80円、米1升(1.5キロ)50円で、
インチキ商売、たかり、泥棒、スリなどが横行、怖い所でもあった。
食糧不足を補うために、手持ちの衣料を米などと物々交換をして飢えをしのいだ「タケノコ生活」であっった。
タケノコの皮をはぐように」して生活していた。闇市には軍の備蓄物資が不正の手段で流出し、高く売りつける者で、20年~23年は、無法地帯になり、
アメリカのMPが警察の替りであった。
焼け跡から出た遺品類や物 御茶ノ水、崩れ落ちている
戦争直後あちこちの都市にいた戦災孤児は、靴みがきや金属拾いなどで路上生活をしていたが、保護されたり、犯罪者になったりで姿を消していったが、
彼らはどのような人生を歩んだかは不明。
アメリカ人の養子縁組などで海外に出た者、栄養失調、伝染病等のために一般人より寿命が短い、愚連隊、ヤクザ稼業を歩んでいった者、仕事を持ち、
一般人の社会に溶け込んで云った者、女の子は買売婦に・・・・。社会は抹殺していった。
焼け野原 復旧作業
戦後、食糧難による児童の栄養状態の悪化を背景に、学校給食が実施昭和22年1月から学校給食を再開、昭和21年12月、試験的に、三都県(東京、神奈川、千葉)で
、児童約25万人に対して、学校給食が実施された。
それまでは、弁当持参であったが、貧富の差激しく、クラスの半数は持ってこられず持参生徒の横で食べるのを見ていた時代である。
この給食は、全員同じものを一緒に食べられる喜びは、忘れる事が出来ない。
消火作業現場 黒焦げになって道路に死体が
紙芝居「黄金バットのオジサン」は、大太鼓で町内を回って子供たちを集めた。
紙芝居屋さんにはトーキーで追われた活弁士や不況による失業者なども多く、子供たちからは"紙芝居のおじさん"と呼ばれていた職業。
紙芝居のおじさんは自転車に紙芝居と水飴などの駄菓子を積んで街頭を回り、鳴物や拍子木を打って子供を集め、駄菓子を売り、人数が集まれば紙芝居を始めた。
紙芝居のおじさんは、たいてい話が佳境に入ったところで「続きはまた来週」と話を止め、次回に期待させた。
紙芝居屋が町を回って子どもを集め、駄菓子を売って紙芝居を見せる、という営業形態が成り立つのは、小銭を持って子どもが簡単に集まってくる場所に限られた。
大人たちの闇市 町内に回ってくる紙芝居と子供達
私は小学3年生で、母の死を目前にした時、これだけのショックはないであろう。
母は人前では決して弱音を吐かない勝気な女性であったので、入院した時には重症であった。即入院と云われた時は我が家の大黒柱であっただけに、
家族全員のショックは計り知れない。
医療もこの時代であり、全てが不足して天下の東大といえども、すべての抗生物質(ペニシリン)を手に入れるのは大変であった。
母は、すっかり痩せてしまった。姉はそんな母を見て我々に「美しかった母は、大昔のことのようだ」と云った。
叔父の関係で特別に手に入れた薬などで最善の治療をしたが、そのかいもなく半年で他界した。
昭和22年7月19日、私が小学3年生であった。42歳、あまりにも短い命であった。
死を直前にしたとき、姉にお化粧をしてほしいといい、身ずくろいをし、我々を枕元に呼んで「お父さんをお願いね、家族助け合ってね。」と云い
少しも乱れを見せず静かに息を引き取った。武家の女性の最後の死、明治の強い東京人女性であった。それからの我が家は、絶望と貧乏との戦いであった。
疎開先から続々帰って学校に、教室風景 兄が作る食べ物一日1200カロリー、ヒモジイ毎日
マッカーサーの演説(米国会議で)
「人類の運命は、我々が一党一派によらず、より高い国家的見地から下す決定に懸っている。私は、52年に渡る軍務を閉じようとしている。
私が軍に入った時はまだ20世紀にも入らぬ時だったが、私が士官学校の営庭で宣誓を誓って以来世界は幾度となく転換した。
そして私の希望と夢もずっと以前に消えてしまった。しかし私は、なおあの当時もっともよく歌われた民謡の一節を覚えている。
それはまことに誇らしげに「老兵は死なず、徒消えるのみ」と楊言した者であった。この老兵のように私は今軍人としての境涯を閉じて姿を消そう、さようなら。」
町角に立つバラック 焼け野原にバラック長屋が
民族の驕りが戦争に。